08.手のひらの感触(2)(side:ヴィンセント)
セセリアを見失った俺は屋敷へ戻った。
探知魔法を使って追いかけることも可能だったが、いまはあまり自由な時間がない。結婚式前の打ち合わせや招待客関係の調整の他に、余計な案件も抱えている。
その日や夕食も時間どおりにとれず、従者のブラッドに部屋まで軽食を持ってこさせた。
「セセリアはどうだった?」
「別に、普通のご様子でしたよ。御夕食でも鱈のムニエルを噛みしめるようにして召し上がっていました」
「そうか……」
ヘラートの町で遭遇した“セセリア”を思う。
変化の魔法を使っていたのが悔やまれる。俺自身の姿で接触していれば、受け答えや反応からいま屋敷にいるセセリアと同一人物か確信が持てたものを。
そう考えてから、いや、とかぶりを振る。確認するすべは他にもあるだろう。
急いで食事をすませ、俺は上着も羽織らずに部屋を出た。襟元もくつろげたままだったが、このくらいの不作法は構わないだろう。夜間で、自分の屋敷だ。
セセリアの部屋へ向かってノックをする。「ヴィンセントだ」と名乗ると、何やら変な物音がした後、内側からメイドが扉を開けてどうぞと中へうながした。
何かあったのだろうか。小首をかしげながら入室して気がついた。
長椅子から立ち上がって出迎えたセセリアは夜着にガウンを引っかけた無防備な格好で、長い金髪が湿っていた。やらかした、と思った。
「……すまない。出直そう」
「あ、待って」
クンッとシャツの右肘あたりの生地が軽く引っ張られた。
セセリアがつまんで引き留めたのだ。思わず肩越しに見ると、やや上目遣いになった若草色の双眸と目が合った。
目元がやや赤らんでいるのは湯浴みを終えたばかりだからだろうか。ほんのりと漂ってきた薔薇の香りに一瞬、めまいに似た感覚をおぼえる。
「別に、構いませんわ。どうぞおかけになって」
「……わかった。時間は取らせない」
俺はセセリアに先に長椅子へ腰を下ろさせ、その隣に座った。向かいの席を勧めていた彼女は面食らった様子だった。そして少し緊張しているのが伝わってくる。
「それで、何かありまして?」
「街でメイドたちを守ってくれたそうだな。感謝する」
メイド長からはセセリアたちが街でごろつきに絡まれたという報告を受けている。
セセリアは同行したメイド二人を逃がし、自身はごろつきをまいて逃げ帰ったと申告しているそうだが、半分は嘘だろう。まいて逃げるどころか叩きのめしたに違いない。
セセリアが、なんだそのこととばかりに表情を緩める。
「たいしたことではありませんわ。メイドに怪我がなくてよかったですわね」
「君に怪我はなかったのか?」
「私を誰だと思っていらっしゃるの?」
にっこりと自信に満ちた表情で微笑む。
俺が出会った「セセリアの顔をした女」は怪我をしていた。
街では「セセリアの顔をした女とごろつき風の男たちの乱闘」事件が二つ発生していたのだ。
「メイドの話では何か誤解をされたようだったそうだが」
「……その、人違いをされたようでしたわね」
セセリアは少し言いよどんだ。一瞬左右にゆらめいた若草色の双眸から、彼女が情報を伏せようとしたのがわかった。
やはり彼女は「セセリア」が二人いることを知っている。そしてそれを隠した。
「君に似ている女性がヘラートにいるということか。確か君には双子の妹君がいたはずだが、街へ来ているのか?」
「……それはありえませんわ。シンシア……妹は結婚式に招待していませんの。本人は来たがっていたのですけれど、いまは次期領主として認められるために忙しくしているものですから」
「そうか。会えると思っていたから残念だ」
慎重に言葉を選ぶ。
セセリアの言葉には迷いが感じられた。何か伏せたいことがあって取り繕っているが、一方でそれは彼女にとっても不本意であるようだった。
いったい何を隠しているんだ。
そろそろ我慢の限界だ。結婚式まで時間もあまりない。自分が結婚する相手が本人かどうかを疑いつづけながら指輪を交換し、誓いのキスをするなど冗談ではない。
気がついたら、俺は彼女の右手を取っていた。
掴んだ瞬間はっと我に返ったが、もう遅い。なるようになれと思い、彼女の手のひらを掴んだまま親指を伸ばして指の腹をぐりっとなぞった。
やはり、剣だこはなかった。
「な、何……なんですの?」
抵抗が弱々しい。やろうと思えば手を振り払うこともできるのにそうしないのは、それが失礼な振る舞いになるからだろうが、彼女らしくない。
「剣だこがないのが気になっていたんだ。三カ月前まで剣を振るっていただろうに」
「お手入れして直してきたに決まっていますわ。剣だこだらけの手に指輪を嵌めるおつもりでしたの?」
「それになんの問題が?」
「……本当に女心がわかっていらっしゃいませんのね」
そこは認める。
女心がわかっていたら、同格の貴族家からの縁談をろくに読まずに断ってはいないだろう。それも、結婚を申し込もうとした矢先に娘を魔物討伐遠征に送り込んだアーチボルト伯爵の間の悪さも関係しているのだが。
それにしても彼女の言葉遣いはなんとかならないのだろうか。決して良好な関係ではなかったとはいえ、過去を否定されているようで腹が立つ。
たとえ嫌われていても、俺にとってはセセリア・アーチボルトと過ごした日々はかけがえのないものだ。それを否定されたくはない。
「そのしゃべり方、やめてくれないか。昔の君は俺に対してそんな振る舞いはしていなかった。他人と話しているようで違和感しかない」
んぐっとセセリアが悔しげに唇を噛みしめる。
無理をしている自覚はあったのだろう。ややあって、はあーっとあきらめたように嘆息すると、まなじりをつり上げて睨みつけてきた。
「……昔がそうだったからって何? 私は私よ。四年も経てば好みも癖も変わるわ。振る舞いたいように振る舞って何が悪いというの?」
事実にセセリアらしい言動が返ってきた。喧嘩腰じみた物言いになつかしさをおぼえ、思わず口角が上がりそうになる。
貴族学院時代、彼女はいつもこんな調子だった。そんな彼女に惹かれたのは俺が物好きだからではなく、彼女がそれだけ鮮烈な輝きを放っていただけの話だ。現に、彼女にちょっかいをかける男は後を絶たなかった。
「そうか。てっきり俺をげんなりさせたい作戦なのかと思っていた」
「ひどい被害妄想ね。そんなことをして私になんの得があるというの?」
その言葉にハッとする。彼女の振る舞いについてではない。
密告ともいうべき手紙の件を思い出したのだ。
『セセリア・アーチボルトには秘密の恋人がいる。ゆえにヴィンセント・ハズウェルとの結婚を嫌がり、双子の妹シンシアを身代わりに輿入れさせることにしたようだ』
俺はあの手紙の真偽ばかり気にしていた。
だが、問題はそこではなかったのかもしれない。
密告者にとってなんの得があるのか、もっと深く考えるべきだった。あるいは密告者は善意から手紙を送ってきただけで、その密告者に情報を流した人物がなんらかの利益を得ている可能性もある。
おそらくその人物にとって、いま俺の目前にいる女性が「セセリア・アーチボルト」であっては困るのだろう。
俺はようやく、彼女が本物のセセリアなのだと確信できた。
「なるほど、そういうことか」
「何がそういうことなのよ……だいたいね、そんなに私が気に食わないのなら結婚の話も断ればよかったでしょう。あなたならもっと条件の良い令嬢と結婚することだってできたでしょうに」
「なぜ断るんだ? 俺から申し込んでおいて」
とたんにセセリアが固まった。
若草色の双眸を丸くし、「は?」「え?」などと小さく繰り返したかと思うと、額に手を当てて考え込んでしまった。
「ま、待って。私たちの結婚って、父親同士が勝手に決めたことじゃなかったの?」
「いや、俺が希望して申し込んだものだ。アーチボルト伯爵が父の親友だったから、父を通して打診してもらったのだが……聞いていなかったのか?」
「聞いてないわよ! ていうか、どうして私なの!?」
「好きだからに決まっている。ハズウェル家にとって特に利がない結婚を望む理由が他にあるか?」
「……………」
セセリアは完全に絶句してしまった。
どうやら彼女は政略結婚だと思っていたようだ。貴族の結婚のほとんどがそうなので勘違いされても無理はない。
「もしかしていままでの振る舞いはうちに見合う淑女を演じようとしていたのものだったのか? だとしたらすまない。そんなことは気にする必要はないから、ありのままの君でいてくれ。その方が俺は嬉しい」
「!? ち、ちが……そんなわけないでしょう! 私がそう振る舞いたいから振る舞っていたの! ううう自惚れないでほしいわね!」
「そうか。ならいまの発言は余計だった。忘れてくれ――では、おやすみ」
用は済んだので部屋を辞そうとしたら、また袖を引かれた。今度は摘まむのではなくがっしりと掴まれる。
「待ちなさいよ。まだ聞きたいことが……」
「明日でも構わないか? 今夜中に片付けなければならない手紙や案件があるのだが」
例の密告や街で出会った偽セセリアについて、改めて調べる必要が出てきた。
彼女は何者で、何が目的で、なぜセセリアを名乗っているのか。
そのうち「何者か」については予想がついている。
他の部分についてはまだ想像するしかないが、最悪の場合、人一人ないし二人以上の命が失われるかもしれない。それは絶対に阻止しなければならなかった。
セセリアはしばし逡巡した様子だったが、しばらくしてゆるりと手を離した。
「……わかったわ。明日、必ず話して。私を……な理由」
彼女にしてはモゴモゴした発声だったせいでよく聞き取れなかったが、後であらためて訊いてもらえばすむ話だ。ああ、と俺は了承して、婚約者の部屋を後にした。