13.王命とわがまま(2)(side:ヴィンセント)
「くだらない冗談はやめてくれ」
「冗談なんかではないわ。ハズウェル領で匿ってもらうことはできないの?」
俺は首を横に振った。
「無理だ。俺はいま陛下のご命令で動いている。陛下は君が赤子を出産し、体調が落ち着いたらすぐにでも隣国へ帰せとおっしゃっている。騎士として拝命した以上、俺はそのご意志に背くことはできない」
「そんな冷たいこと言わないで。夫との仲はとうに冷え切っているのに、宗教上離婚もできない。なのに夫は何人も愛妾を囲って……もう耐えられないの。お願いよヴィンス。頼れる人はあなたしかいないの。あなたは困っている女性を見捨てるような男ではないでしょう?」
愛人がいたのは君も同じだろう、と喉まで出そうになってこらえた。
アビゲイルの腹の子はおそらく隣国国王ではない。
彼女自身がそう語ったわけでもない。噂もない。だが、そうでもなければ陛下も娘に国境を越えさせ、自国で出産させようとは思わないだろう。
それに彼女が夫婦喧嘩を演じて王宮から離宮へ移り住んだ直後、彼女のもとへ頻繁に出入りしていた宮廷音楽家が不審な死を遂げていることも気になっている。
「それに隣国に帰ったらわたくしは夫に殺されるかもしれないわ」
「どうしてそう思う?」
「それは……その、夫にとってわたくしが邪魔な存在だからよ」
アビゲイルが言葉を濁す。この様子では、やはり腹の子の父親は愛人のようだ。
どうせなら陛下ではなくその愛人に助けを求めてくれればよかったのだが、そうもいかない状況だったことは理解している。彼女の周りでは宮廷音楽家の他にも侍従や近衛騎士も事故死しているらしい。
隣国の王宮には治安という概念がないのだろうか。
「と、とにかく、そんな女性をみすみす危ないところへ帰すというの?」
「邪魔というのも危ないというのも君の推測だろう。隣国とレムナド王国は共通の敵を持つ者同士、友好な関係を保ちたいはずだ。君と隣国国王との結婚が同盟の証である以上、その大事な君を無下に扱うとは思えない」
「それだって仮定の話だわ! お願いよヴィンス、わたくしをあなたの愛――」
すがるように伸ばされたたおやかな手が俺の胸元へ触れる寸前、扉がノックされた。指先がピタリと虚空で止まった隙に俺は身を翻し、扉に向かう。
至急報告したいことがあると告げたのは同作戦行動中の騎士のものだ。扉を開けると、騎士に連れられてブラッドも足を引きずりながら入室してきた。顔色が悪いのは足の傷のせいだけではなさそうだ。
「何があった?」
「領内で森林火災が発生した模様です。現在、近隣の自警団が消火活動に向かっているようなのですが、現場の場所が問題でして」
「まさか……ナルカ村か?」
ブラッドが神妙な顔でうなずく。
こんな時期に山火事が起きるとは、雷でも落ちたのだろうか。それとも誰かが森の近くでたき火をし、火を消し忘れて延焼したか。あるいは何者かが故意に火をつけたか。
どちらにせよ、悠長にしてはいられなかった。
幸いナルカ村はここからほど近い。馬で半刻程度だ。
父が不在であり、騎士団も拠点からが遠くすぐには駆けつけられない状況ならば、俺が直接現地で救助活動および消火活動の指揮を執るべきだ。
そう思って足を踏み出した瞬間、背後から伸びてきた腕に抱きしめられた。腰の辺りに当たる張った腹の感触でわかる。
「いかないで!」
アビゲイルの必死な声が響き、腰に回された細腕に力がこもった。
「お父様からわたくしを守るように命じられているのでしょう!? だったらここを離れないで。わたくしを一人にしないでちょうだい!」
「ひとり? 君の護衛ならここにたくさんいるだろう。国王陛下に忠誠を誓った優秀な騎士ばかり二十名だ」
ブラッドを連れてきた騎士が信頼してくださいと言わんばかりに胸を張る。
「それにこの場所はシンシア・アーチボルトらにまだ知られていない。俺一人が少しくらい外しても問題はないだろう。だがナルカ村には逃げ遅れた者がいるかもしれないんだ。現地へ急いで情報を集め、場合によっては指揮を執らないと」
「自警団に任せておけばいいでしょう! あなたがいてくれないと不安なの。か弱い女性を放っておくなんて紳士のすることではないわ。ねえ、お願いよ」
「――君のお願いは聞き飽きた!」
これ以上は我慢がならなかった。
逃れるように体をひねってアビゲイルの腕を振り払い、彼女の方へ向き直る。
傷ついたような眼差しと目が合ったが、胸は痛まなかった。彼女は昔から自分のわがままが通らないときは、決まってこういう被害者の顔をするのだ。王女と侯爵令息という権力差があったために当時は従うしかなかった。だがいまは立場が違う。
「俺は次の領主だ。たとえ王命であっても、領民を見捨てるような真似はできない」
「ヴィン――」
「その呼び方もやめろ。君はもう婚約者でも友人でもない、ただの護衛対象だ」
ブラッドを連れてきた騎士のいる前で身分を明かすような真似はしたくなかったが、アビゲイルを黙らせるためにはしかたがなかった。
彼女がもう一度傷ついた顔をしてみせる。だが俺にもうわがままを聞く気がないと悟ると、悔しげにこちらを睨みながら唇を噛みしめた。
とっくの昔に破談になっているというのに、結婚後まで振り回そうとしてくるのはやめてほしい。
どうせ振り回されるのなら、家のためならば理不尽をも受け入れ、前向きに邁進できる女性がいい。貴族学院時代、セセリアの起こした問題の多くに対処させられたが、結構楽しかった。なんとかしてくれと呼びつけられるたびにまた彼女かと内心笑いをこらえていたものだ。
ブラッドから詳細を聞き出すと、この場は彼にまかせて俺は廃屋敷を後にした。
緊急事態なので魔法で飛んでいってもよかったが、現地で消火のために水属性魔法を乱発しなければならなくなる可能性を考慮し、馬で向かう。
一刻ほど馬を走らせ、くだんの森が見えてきた頃には辺りは既に真っ暗になっていた。
鬱蒼と茂った木々の合間のあちこちに赤い輝きが揺らめいて見える。ただ、燃え広がっているわりには大きな炎は見当たらず、煙の量もたいしたことはなかった。
「おうい、誰か逃げ遅れた者はいないかあーっ! おーい!」
「こっちはだめだ、火の手が強い! 反対側から回れ!」
森の中からそんな声が響いてくる。
森の手前で様子を見ている村人たちを見つけ、「状況は?」と声を掛ける。
村人は突然話しかけてきた俺を不思議そうに眺めてから、「いやあ」となぜか困ったように頭を掻いた。
「ワシらもいま来たところで。いま水を汲みにいかせているんだがなあ」
「どうした?」
「おかしいんだよ。遠くからはでかい山火事に見えたんだが、一刻経っても一向に燃え広がらない。実際に火の手の強いところに行くとものすごい炎で近づけねえし、奥の方からこっちは無理だとか近寄るなとか聞こえてはくるんだが、行った本人の姿が見つからねえし……」
そのとき、再び森の中から声が聞こえてきた。
「おうい、誰か逃げ遅れた者はいないかあーっ! おーい!」
「こっちはだめだ、火の手が強い! 反対側から回れ!」
ここへ駆けつけたときに聞いたのとまったく同じ言葉だ。さすがに違和感をおぼえる。声を魔法で複製しているのだろうか。
とっさに脳裏をよぎったのはアーチボルト騎士団の特性だ。
あの騎士団は風属性魔法の消音魔法と増音魔法を使った戦術を得意としており、また協力関係にあるエルフはいにしえの幻覚魔法も使える。
ならばこの山火事騒ぎを起こしたのはシンシア・アーチボルトなのだろうか。実際、彼女はエルフを連れていたから実行は可能だ。
俺はちっと舌打ちし、村人に「ここで待機していろ」と告げて森の中へ踏み入った。おいやめておけよ、といった声が背後から聞こえたが気にしない。
偽の山火事を起こしたということは、隠れ家がシンシア・アーチボルトに知られたのだ。くだんの夫婦が彼女の手に渡った可能性が高い。
仮にこれが俺をおびき出すための罠だったとしても、夫婦を見捨てるわけにはいかなかった。
本当にアビゲイルは余計な真似をしてくれた。当初は乳母を用意する予定はなかったというのに、隣国から持ち込んだ宝飾品を侍女に握らせて勝手に夫婦を雇ってしまった。おかげで俺たちは彼女の尻拭いに追われている。
奥へ奥へと進んでいくと、大きな炎の壁が行く手を遮った。
男の足で二十歩ほどまで近づいても熱を感じないところを見ると、やはり幻覚魔法によって作り出された偽の炎なのだろう。
念のため本物の火が紛れていないか注視ながら接近していくと、炎の壁の前に人影が一つ現れた。
ドレスの上に地味な外套を羽織った、金髪の女性だ。大きくゆらめく炎の輝きを受けて、凜とした若草色の双眸が朱を帯びる。
「ここから先は通さないわよ、色男さん」
セセリアと同じ顔をした彼女は不敵に微笑むと、腰の剣をすらりと抜いた。