12.王命とわがまま(1)(side:ヴィンセント)
従者の太股に刻まれた刀創に手をかざし、魔力を練り上げる。
ぽうっと温かな光が患部に触れると、パックリと裂けた傷口がみるみるうちに修復していった。赤黒い血液をたっぷり含んだ脚衣の裂け目だけが残される。
ブラッドが壁にもたれかかってふうと吐息をついた。
「ありがとうございます。まったく、誤解で殺されたらたまったもんじゃないですよ」
「同感だ」
俺は相槌を打ちつつ、従者の止血帯をほどいてやった。
ハズウェル邸への侵入者にブラッドを人質に取られ、国境近くの廃屋敷まで同行させられてから数刻が経っている。
末端の壊死を防ぐため定期的に止血帯を緩めるなどの処置はされていたが、治癒魔法を使わせてもらえない状態が続くのは歯がゆかった。
しかも相手は同じ作戦行動に参加している騎士だ。
仲間だという認識は乏しいものの、くだらない誤解から仲間割れのような状態に陥ってしまった。だがそれには原因がある。
シンシア・アーチボルト伯爵令嬢だ。
彼女は何度か騎士たちと接触していたらしい。
これまでは「こそこそ嗅ぎ回っている変な女」という認識だったようだが、そこへセセリアが巻き込まれたせいで話がこじれた。「変な女」が俺の婚約者本人だと勘違いした騎士たちは、俺たちが裏切ろうとしていると誤解したのだ。
王命だというのに裏切るわけがないだろう、と言ってもなかなか信じれもらえず、俺はセセリアにはシンシアという双子の妹がいることを打ち明けるしかなかった。
そうして、いまに至る。
「まさかこの件にシンシア・アーチボルトが首を突っ込んでくるとは。いったいどこで嗅ぎつけたのやら。夫の方が酔った勢いで〝姫様〟の髪飾りを自慢していたとは聞いているが、そんな話が伯爵領にいるシンシア・アーチボルトの耳に届くとは思えないが」
「エルフ経由かもしれません。エルフは他種族に対しては排他的ですが、同族同士横の繋がりが深いと聞きます。離れた集落とも重要そうな情報は共有しているのかもしれません」
「高貴な人間の女性を一人密入国させ、しばらくしてから密出国させることが、エルフにとって重要な情報か?」
「それはわかりませんが……」
ブラッドが困った顔になる。
つい否定的な物言いをしてしまったが、彼の推測はあながち間違っていないかもしれない。実際に俺はシンシアと同行するエルフと顔を合わせている。
ヘラートの町でセセリアと名乗ったシンシアが立ち去った後に、俺の前に立ち塞がったフードの男。隠れていてよく見えたわけではないが、わずかに見えた耳元が人間のそれとは異なるかたちをしていたのだ。
「しかし、彼女はどうして我々の邪魔をしてくるんですかね? 女性を一人密入国させ、また密出国させるだけの話ですよ? シンシア嬢にもアーチボルト家にも、エルフ族にも特に損害を与えるようなことではないと思うのですが」
「……そうだな」
口の中に苦いものが滲む。
確かに、俺たちは国王陛下からある高貴な女性を密入国させ、しばらくしてからまた密出国させる任務を仰せつかっている。
しかし俺だけはもう一つ、別の重大な密命を預かっていた。
口に出すのも憚れる、想像することすら不愉快な命令だ。
とはいえ国王陛下に忠誠を誓っている以上、意に背くことなどできない。王命に反するのは騎士失格だ。それでも実際に実行のときが来たら、俺は命令どおりに行動できるのかあまり自信がなかった。
国王陛下も容赦がない。いくら両国の友好関係を保つためとはいえ、結婚式を控えている騎士に将来我が子を抱けなくなるような真似をさせようとは。
「――ルーカス、いるか? 姫様がお呼びだ」
外から扉が叩かれ、騎士の声が響いてくる。
俺は急いで自身に変化の魔法をかけてから扉を開けた。いかにもごろつきといった風情だが、変装だ。右眼の周りにひどい青アザがあるが、俺が遭遇した偽セセリアに叩きのめされたのとは別の男だ。おそらくやったのは本物のセセリアだ。
あの双子姉妹は同じような時間帯に同じような場所でごろつきに絡まれた。
しかしシンシアの相手がただのごろつきだったのに対して、セセリアの相手は変装した騎士だった。彼女は相手を全員叩きのめすまでには至らず、駆けつけた衛兵に任せて逃げたと聞いている。それでも戦闘には不向きなドレス姿でよくやったものだと思う。つくづく現場に立ち会いたかった。居合わせていたら介入せずにはいられなかっただろうが。
騎士の誘導で二階の奥の部屋へ向かい、扉を叩いて「ルーカスだ」と告げる。もっとも、扉の向こう側の人物はルーカスが偽名で容姿も変化の魔法であることを知っている。
入室の許可を得て扉を開け、足を踏み入れようとしたときだった。扉の向こう側で待ち構えていた人影が、俺の懐に飛び込んできた。
「ヴィンス! 会いたかったわ!」
俺は慌てて彼女の体を受け止めながら、肩越しに背後を確認した。俺を案内した騎士の背中は既に廊下を引き返していたが、聞かれてしまったかもしれない。
急いで扉を閉め、彼女の体を少し押すようにして部屋の中へ入る。
「ルーカスと呼んでくれと言ったはずだ」
「うふふ、ごめんなさい。ずっとヴィンスと呼んでいたから、とっさのときはどうしてもこちらが出てしまうのよ」
彼女――レムナド王国元第二王女アビゲイルは悪びれずに小さく舌を出す。
俺の元婚約者、そして現在は隣国の王妃である女性だ。
強いウェーブのかかった黒髪に、大きな琥珀色の双眸。鼻は高く、薔薇色の唇はふっくらとしている。かつて隣国の王太子を一目惚れさせた美貌はいまなお健在だ。当時と異なる点があるとしたら五つばかり歳を取ったこと、そして腹部が大きく膨らんでいることだ。
アビゲイルは妊娠していた。
「ならよりいっそう呼称には気をつけてくれ。今後の任務に支障が出かねない」
「相変わらず堅いのね。《剣聖》にも風紀委員はあるのかしら?」
「……それと、その体で腹からぶつかってくるな。何かあったらどうするつもりだ」
「このくらい大丈夫よ。心配性なところも相変わらずなのね」
膨らんだ腹を優しく撫でさすりながらくすくすと笑ってから、アビゲイルがその手をこちらに伸ばしてきた。
また抱きつかれそうな気配を察し、俺は気づかなかったふりをして窓辺へさりげなく移動する。窓が開いていたので、念のために閉じてから訊ねた。
「それで、用件というのは?」
「つれないのね。こっちに来ていると聞いたから顔を見たかっただけよ。変身した姿なのは残念だけれど」
来ているのではなく従者を人質に取られて同行させられたのだが、口には出さなかった。騎士の独断専行だったことは既に知っている。彼女は関係ない。
「ならもう用件は済んだな。帰らせてもらう」
「もうっ、どうしてそんなにつれないのよ」
「前にも言っただろう。忙しいんだ……結婚式の準備で」
最後の方は声を少し落として言う。
窓の外に見張りの姿が見えたからだ。聞かれれば正体がバレる。ハズウェル侯爵家の長男が二日後に結婚式を挙げる話は、このあたりでは有名だ。
とたんにアビゲイルがしらけたような顔になったが、見なかったふりをする。
「式の前後は顔を出せなくなるが、ここの騎士たちは優秀だ。王命がある以上、必ず君を守ってくれるだろう。俺も君が無事に出産を終え、隣国に帰るまでは責任を持って保護――」
「帰らなきゃダメかしら」
俺は一瞬、言葉を失った。
アビゲイルが頬に人差し指を突きつけ、ねえ? と小首を傾げてみせる。
「わたくし、帰らなければダメ? 帰りたくないわ、あんなところ。ねえ、お願い」
勘弁してくれ。