第4話 静かな工房の中で
昼下がりの村は、どこか穏やかで賑やかだった。
通りには人の声が響き、行き交う荷車の軋む音、子どもの笑い声、木の看板が風に揺れる音が重なり合う。石畳に差し込む陽光は明るく、白っぽく反射してまぶしい。
焼きたてのパンの香り、どこかから漂うハーブの匂い、干された洗濯物の香り――色とりどりの空気が、リアナの鼻先をかすめた。
けれど、その景色の中に、彼女自身の影はまだ薄かった。
村人たちはリアナに目を向けることは少ない。ちらりと視線をよこしては、すぐに日常へ戻っていく。特に冷たいわけではない。でも、温かいわけでもない。そんな距離感。
(……ううん、当たり前か。私、よそ者なんだから)
この村の名前も、季節の流れも、誰がどこに住んでいるのかも。昨日と今日で何が違うのかさえ、まだ見分けがつかない。
そんな中で、少しずつ目に馴染んできた風景があるだけだった。
村の中心を離れ、森へと続く静かな道に足を踏み入れる。人の気配が遠ざかり、風の音と鳥のさえずりが耳に届くようになる。
森の外れにある小さな工房が、今のリアナにとっての“家”だった。誰かが残していったものを引き継ぐように、そこに住んでいくと決めた。
本当にそれでいいのか、自分でもまだよく分からない。
けれど、今は――そこが帰る場所だった。
扉を開けると、ひんやりとした空気が頬をなでた。外の喧騒とは対照的に、工房の中には静けさが満ちていた。
木造の室内はそれほど広くないけれど、天井が高くて、思ったよりも開放感がある。木の床は年季が入っていて、歩くたびにぎし、と音が鳴った。
正面には大きな作業台。表面には焦げ跡や薬品の染みが点々と残っていて、長く使い込まれてきたことがうかがえる。その上には、誰かが使ったままの道具がいくつか置かれていた。ガラス製のビーカー、計量用の天秤、形の不揃いな金属パーツ――まるで、最後にここを使った誰かの手が、ついさっきまで動いていたかのようだった。
(これも、前の持ち主の……?)
右手の壁際には、高く積み上がった木製の棚。ラベルのかすれた小瓶、紙で封をされた袋、吊るされた乾燥植物……素材のほとんどは、リアナにとって初めて見るものだった。
(こんな素材、見たことない。何に使うんだろう)
左奥には暖炉。そのそばには丸テーブルと椅子が二脚。壁際には木の小扉があり、その奥に寝室があるようだった。
(この工房、最初から“住めるように”整えられてたのよね……)
誰が、なんのために? その答えは、まだどこにもない。
「よし、まずは掃除だね」
リアナは袖をまくり、ホウキを手にとった。
床を掃くと、木材のすき間から細かい埃が舞い上がった。作業台の下には木くずや布の切れ端、瓶の破片。棚の隅には、いつからあるのか分からない蜘蛛の巣。
「けっこう手強いなぁ……でも、悪くないかも」
小さく笑いながら、リアナは黙々と手を動かしていった。
ひと通り棚の上や床を拭き終えると、ふぅっと息をついた。
(……こうして動いてると、不思議と落ち着くな)
散らかった空間が少しずつ整っていく。それだけのことなのに、どこか心が軽くなっていく気がする。
(最初から、全部分かってたはずなのにね)
何も持たずに、誰も知らずに、ここへ来たこと。ここで生きていくと決めたこと。その覚悟はあったはずだったのに、心のどこかに残っていた不安や迷いが、掃除の音にかき消されていくようだった。
「……でも、少しずつでいいよね」
自分自身にそう言い聞かせて、リアナはしゃがみこんだ。作業台の下に、小さな木箱がひとつ、ぽつんと置かれていたのだ。
「……こんなところに?」
取り出してみると、手のひらより少し大きいくらいの、古びた木箱。角がすり減り、蓋には小さな裂け目が入っている。装飾も何もなく、ごくシンプルな作り。
(何が入ってるんだろう)
すぐに開ける気にはなれなかった。なぜか、胸の奥がひんやりとする。
リアナは箱をいったん作業台の上に置き、代わりに奥の小部屋を覗いてみることにした。
そこは寝室らしき空間だった。小さなベッド、衣装棚、小さなチェスト。ベッドには淡い色の毛布が一枚折りたたまれている。
衣装棚の中には、折りたたまれたシャツやスカート。そして、リアナが最初にここで見つけたポーチとよく似た、色あせた鞄が置かれていた。
(やっぱり……)
あのポーチも、この場所に最初から用意されていたものだ。それは偶然ではなく、誰かの“意図”があったように思えてならない。
(誰が、何のために……?)
答えのない疑問だけが、またひとつ増えていく。
リアナは静かに小部屋を出て、作業台の上の木箱へ視線を戻した。
蓋は、まだ開けられていない。けれど、その存在感だけが、やけに強く感じられた。
まるで、その箱が“誰か”を待っていたかのように。