第2話 村の空気と、いい匂い
朝の空気は、ひんやりしていて、どこかすがすがしい匂いがした。
小屋の扉をそっと開けて、足を一歩外に出す。
背の高い木々が静かに揺れ、草の露がきらきらと光っている。
鳥のさえずりと風の音しか聞こえないその静けさが、なんとも心地よかった。
(……うん。やっぱり、昨日とは違う世界)
目に映る風景も、空気の味も、音の響きも。
なにもかもが違っているのに、胸の中にあるのは、なぜか穏やかな感情だった。
「今日も……いい天気」
小さく呟いて、リアナは腰にポーチをつけた。
(とはいえ、今日は何をしたらいいんだろう……)
(とりあえず、村に行ってみる? どこにあるのかは……うーん)
小屋のまわりを一周してみると、草が踏みならされた細い道を見つけた。
よく見ると、木々の間から遠くに煙が立ちのぼっている。
(あっち……たぶん、あっちが村。きっと。たぶん)
「ダメだったら引き返せばいいし……なんとかなるよね、きっと」
自分に言い聞かせるように、リアナは一歩踏み出した。
道はしっとりとしていて、ところどころ苔むしている。
辺りには小さな花が咲いていて、葉っぱの匂い、土の匂い、朝露の冷たさ――どれもが新鮮だった。
(こういうの、嫌いじゃないなぁ)
道の脇に生えていた草を、そっと指で触れてみる。
「……これ、ミントっぽい? 違うかな……香りは似てる気がするけど」
首をかしげながら、リアナは草を戻した。
(ちゃんと確認してからじゃないと、使えないしね。食べ物だったら特に)
ゆっくり歩くこと十数分。
木々の間から、屋根の連なりが見えてきた。
(……見えた)
まばらに並ぶ木造の家々。遠くに畑のような場所もある。
煙突から立ちのぼる煙が、まっすぐに空へ向かって伸びていく。
リアナの足がふと止まった。
(……人がいる)
それは当たり前のはずなのに、胸の奥が、きゅっと小さく縮まる。
前の世界では、いつも人の中にいた。
通勤電車、オフィス、繁華街――
でも、ここは違う。言葉も文化も何もかも知らない場所だ。
(ちゃんと話せるかな? 変に思われないかな……)
そんな不安が、胸の奥に小さく積もっていく。
けれど、遠くから聞こえる子どもの笑い声、荷車のきしむ音、薪を割るリズム――
どれもがどこか穏やかで、優しくて。
(……この村、きっと大丈夫。……そんな気がする)
リアナは、そっと胸に手を当てて、深く息を吸い込んだ。
そしてもう一歩、踏み出す。
その瞬間――
ぐぅぅ〜〜〜……。
お腹の音が思いきり響いた。
リアナは、びくっと肩を震わせた後、そっとお腹を抱える。
(え、えっ……? 今の……私?)
一拍遅れてから、顔が真っ赤になる。
「……えっと……気のせいだよね……? 風の音とか……うん、木の葉が揺れてた……たぶん……」
小声で言いながら、そろそろと後ずさるリアナ。
けれど、鼻先に漂ってきたあたたかい香りに、
お腹はますます自己主張を始めようとしていた。
「……お願い、もうちょっと黙ってて、お腹……」
香りに引き寄せられるようにして、角を曲がると、
小さな木造の建物が目に入った。
扉の横には、手描きのあたたかい文字でこう書かれていた。
《ひだまり食堂》
その名前を見ただけで、リアナの心がすうっとほどけていく気がした。
「いらっしゃい。……あんた、新顔だね?」
リアナが立ち止まっていると、エプロン姿の女性が扉の中からにこやかに声をかけてきた。
がっしりとした体格に、きゅっと上がった眉。
最初はちょっと迫力があるけれど、目がとても優しい。
「朝ごはん、まだでしょ? 顔見ればわかるよ」
「えっ、そ、そんなこと……な、ないです……。たぶん……」
リアナは思わず、お腹のあたりをそっと押さえた。
(....お腹がすいてるの、バレてる!)
「ふふっ、顔に“お腹ぺこぺこです”って書いてあるもんね」
女性――ベルダさんは、軽く笑って言った。
冗談っぽいけれど、どこかあたたかくて、リアナの頬が少し緩んだ。
「うちのスープ、朝にぴったりだよ。あったまるし、お腹にも優しい。よかったらどうぞ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて……」
リアナは、促されるように扉をくぐった。
中は、木の香りがする、落ち着いた空間だった。
大きなテーブルと椅子、窓から入る朝の光、ふわっと漂うスープの香り。
「座ってて。すぐ持ってくるから」
(……こんな場所があるなんて、ありがたいなぁ)
用意された席に腰を下ろしながら、リアナはそっと呟いた。
「いただきます」
小さく、誰にともなくそう言って、
出された湯気の立つスープにスプーンを差し入れた。