「あなたの名前を読んで」前編 繋がる糸 上州帰省旅の回顧録
幼い頃、盆暮はいつも群馬にある親の実家に帰省していた。
かかあ天下と空っ風、と言われる厳しい気候や風土に根差した古い農家が母の実家。倹しい暮らしは丁寧で無駄がなく、厳しい自然との共存を模索しつつ粘り強く困難に立ち向かう、そんな逞しさも溢れていた。
触れ合う人たちは温かくおおらかで、助け合いの精神に満ちた人がすごく多かったように思う。
今思えばとても貴重な経験を沢山させてもらったし、懐かしい思い出もいっぱい。
亡き祖母や伯父さん伯母さん。いとこのみんな。懐かしい人たちの笑顔や過ごした日々の記憶を少し、書き出してみたい。
数日前、懐かしい文字を見た。ずっと昔に私の祖母から息子がもらったお年玉袋、そこに鉛筆で書かれた彼女の名前だ。
5月の大型連休が終わった。観光地ど真ん中の此処は、幹線道路には県外ナンバーの車が溢れかえり大渋滞、観光名所は何処もかしこも大賑わいだった。
そういえば、幼かった頃はまだゴールデンウィークの通称はなく単に「5月連休」とか「大型連休」とか呼ばれていたな。
土曜は半休、カレンダー通りの飛び石だと普通に学校あったし、人混み大嫌いな父だったからレジャー外出も観光旅行も、皆無。
なにより、5月は山菜採りの季節だ。
休みとなれば父は早朝から出掛けて行って野山を歩きまわり、昼すぎには竹かごに山のようなた「たらっぺ」(タラの芽)を背負って帰って来る。
帰宅するなり新聞紙を広げた食卓に収穫をぶちまけて、父は風呂に入り、庭の山野草の世話をしだす。
一方、私と母は山積みになった「たらっぺ」を選り分け綺麗に整えて、保存用に新聞紙にくるんだり、ご近所に配る用にパック詰め。
その日の夕飯は必ず、天ぷらになる。
我が家の5月連休は、いつもそんな感じだった。
旅行やレジャーと言ったら、盆休みと暮れに両親の実家へ帰省すること。兄が中学に上がるくらいまで毎年恒例で唯一の家族旅行だった。
両親ともに群馬の出身。
父母それぞれの実家は割と近かったから、帰郷の折には日替わりで両家を行ったり来たりしながら数日間を過ごすのが、習わしだった。
旅路は半日かけてのロングドライブになった。いつも星が瞬く深夜というか早朝3時4時に出発した。
家から遠く離れるにしたがって星空は黒から藍に、そして青へと徐々に明るみを帯びていく。漆黒の山の端に瞬いていた星も薄まりながら消えていき、やがて紫からオレンジへと染まっていく空。重く暗かった雲も縁からだんだんと黄金に輝き出して、その存在感を増していく。
刻々と移り変わっていくそんな明け方の空を、車窓から眺めているのがとても好きだった。
高速道を降りる頃にはすっかり夜が明け、眩しい朝陽に照らされた見慣れた緑深い山並みが目に入って来る。それを横に見ながら、渓谷沿いの曲がりくねった細い国道を延々と走る。片側は深い崖だ。
自分は川のない町に育ったから、崖下に遠い川面の水流を見るとなんとも表現しがたい想いが湧いた。
深そうな濃い緑の淵や、速い流れで巻き上がる白い飛沫、激しい渦。
透き通った浅瀬に、石だらけの河原。 あー降りてみたいな、遊んだら楽しいだろうな!ワクワク心が躍った。でも綺麗な水面に吸い込まれそうな感覚も同時にあって、得体のしれない怖さと興味とでキュッと身が縮むような感覚にいつも襲われた。
その川に懸かる鉄橋を幾つか渡っていくと、やがて行く手に黒々した山のシルエットが近づいてくる。「岩櫃山」だ。
群馬と言えば赤城山、榛名山、浅間山や白根山とかが有名だけど、自分には岩櫃山、だった。
その名の通り、中腹から上の部分のこっち側は樹木がなく、垂直に切り立った剥き出しの岩壁だ。
「どうしてあんな姿になったんだろう?」子供ながら、その景色に自然の成した造形の神秘をいつも、思わずに居られなかった。
標高はさほどないが、剛毅なその姿は一度見たら忘れ得ない逞しさと不可思議さがあった。
その岩櫃山の ごつごと荒々しい岩肌が行く手の空の端に顔を覗かせてくると「ああもうすぐだな」と往路の終わりを実感した。
「おかえり、よくきたね」と迎えてもらっているようで、懐かしいような嬉しいような。
帰り際には「またおいで」と見送って貰っているようで、なんだか名残惜しく。
山の姿を見るたびに、そんな気分になった事をよく覚えている。
母の実家は、その岩櫃山の麓にある古い古い農家だった。茅葺屋根の庄屋づくり2階建て。良く通ってた当時で、既に築100年以上は経っていただろう。
敷地には母屋のほかに、土壁の蔵?というか納屋、外便所、畜舎、前庭の続きに桑畑があった。
小さな平屋住まいだった自分には、探検しきれない位の広さに謎めいた空間や古いもの不思議なもの、珍しいものがいっぱい。
昔と今を行ったり来たりしてるようなワンダーランド?ミステリーハウス?だった。
憶えていることを書き出してみよう。
まずは、外回り。
納屋には入ったことがない。扉の奥には古い大きな農機具とかが沢山仕舞われていたように思う。
畜舎では豚を飼育していて、たまに伯父さんにくっついて豚の餌やりをさせて貰ったりした。
一度だけ、出産に立ち会ったことがある。
最初の一頭は難産で、伯父が手伝って引っ張り出してたように記憶している。そのあとに母豚のお腹から次々に出てくる子豚は全部で7-8頭だったろうか。
最後に大きな胎盤が出て無事、出産は終わった。翌日には元気な子ブタたちが母豚と睦まじく寄り添う姿をみることができた。
小学校低学年の自分にはなかなかに大きなインパクトがある経験で、今もあの時の畜舎の情景、母豚や子豚の鳴き声、伯父の様子や言葉が鮮明に甦ってくる。
庭先には椿や梅、大きな柿の木があった。渋柿だったが、晩秋になると全部収穫し、干し柿にしていた。
一個一個丁寧に皮を剥いて、ヘタを紐で繋げていく。
晩秋から冬にかけ毎年、縁側の軒先は端から端まで干し柿が簾のように吊るされていたらしい。
年末に私達が訪ねた時にはもう、白く粉の吹いた干し柿が沢山出来上がっていた。
空っ風に吹かれ良く乾燥した干し柿は、渋がすっかり抜けてねっとりもっちりと甘くフルーティ。羊羹や干し芋とフルーツグミを足して割ったような、独特な歯ざわりと味わいだった。
今思えば、素朴だけどとても手間のかかった、贅沢で健康にもいい大変有難いおやつだ。ただ難点は種がやたらと多く食べにくいところ。幼い子供にはその価値も有難みも全然わかんないし、正直ちょっとめんどくさいおやつ、って思いながら食べていた覚えがある 笑。
玄関のガラスの引き戸を開け、家へ入るとまずは土間。ボール遊びとかも出来そうな広々空間だった。天井を見上げると黒く煤けた太い梁が幾本も覗いている。一抱えより太い黒光りする大黒柱が、ででん!と奥の方に構えているのも目に入ってくる。
石のように固く踏みしめられ、冷え冷えした感触の黄土色した土間のたたき。いつ訪れても隅々まで綺麗に掃き清められててこざっぱりしていた。
泊まった翌日、薄い曇りガラスの玄関戸から朝陽が差し込みだした早朝。囲炉裏から立ち上る煙は土間の空気中を漂い、淡く光りだす。
明るくなった土間を、下駄をつっかけた母がよく箒で掃いてる姿があった。
従兄弟たちや兄と駆け比べしたりトランプゲームに興じたり、スイカを食べたり。よく遊んだ日当たりのいい長い縁側は、ちょっと薄い板が歩く度にギシギシと鳴った。
縁側のどん詰まりに急な階段。這うようにして上がると2階部分の全てが「お蚕さん」の住処となっていた。
細竹を板状に編んだ枠(蚕箔=さんぱく、っていうらしい)が数枚積み重ねられて、いくつも置かれている。枠一枚一枚に青々した桑の葉っぱが敷き詰められ、大人の指くらいの大きさの白いお蚕さんがその上に沢山、乗っかっていた。
虫は好きって訳じゃなかったけど、お蚕さんは柔らかで可愛いし、綺麗だなって思いながら餌やりを手伝ったりもした。
囲炉裏スペースの縁は子供の胸くらいの高さの上がり框になっていた。いつも、よいしょ!と靴を脱いでよじ登った。
まわりこめば低い上がり框もちゃんとあったけど、高いところをわざとよじ上ってみるのが何だか、楽しかった。
真ん中にはいつも黒いやかんが吊るされ、季節を問わず朝晩、火が絶えることがなかった。
家屋に入る前から薪が燃える匂いがあたりに漂っている。玄関戸を開けて土間に一歩入れば、炭と薪があげるパチパチ音と薄い煙が絶えずホールの中に立ち込めていた。
千と千尋の「釜じい」にちょっと似た風体(今思うと、だけど)の長兄たる伯父貴がいつも、囲炉裏の傍に座って火の番をしていた。
玄関から土間をまっすぐ奥に進むと台所。煮炊きは当時まだ土間にコンロと調理台だった。ガスコンロだったと思うが確か古いかまども、現役で残っていたように思う。
台所の一段上の畳の間に、大家族が揃って食べる食卓がしつらえてあった。
土間を挟んで囲炉裏のむこう側には風呂場。幼い頃は薪で焚く五右衛門風呂だったなあ。
すのこを沈めそれを踏みつけて湯舟に入るのが正解なわけだが、それを知らなくて一度足の裏を火傷しそうになった記憶が、あるような、ないような・・・。
五右衛門ぶろあるある、だが果たしてそれが夢だったのか現実だったのか、父も母も他界した今となってはわかりようもないが 笑。
高校生ごろに行ったときには、ガス風呂に代わっていた気がする。
泊まる時には居間の隣の部屋に布団を敷いて貰い、一家で川の字で寝た。
広い部屋の真ん中に白熱電球2つだけの照明。壁には歴代当主と ばあさまたちの白黒写真がずらっと並び、静かに部屋を見下ろしている。
天井からは「ガサガサガサガサ ザワザワザワザワ・・・・」と絶え間なく音が降ってくる。天井裏一杯に住まうお蚕さん達が、桑の葉をせっせと食べ続ける音だ。
子供だった私にはその部屋で電気を消して寝るのはやっぱりちょっと、怖かった 笑。
後編につづく
書き出してみると、すっかり忘れていた記憶が不思議に甦ってくるもので。思いのほか長くなってしまい前後編に分けました。