6 珍しいお客さま~4~
ベラさんは、昔の怖かった記憶を思い出して口が渇いたのか、紅茶を一気に飲み干した。
記憶を消すのは、感情を癒やすのに比べて負担が大きい。気持ちを落ち着ける効果のあるハーブがブレンドされたハーブティーをカップに注ぎ、お供にクッキーを添えた。
しばらくして、一息ついたベラさんは覚悟を決めた意思の強そうな瞳をこちらに向けた。
「始めていいわ」
私は、ゆるりと口角を上げた。何が始まるのか想像ができずにそわそわしている騎士さまを目で制して、ベラさんから少し離れてもらう。
「一度記憶を消してしまえば、基本的に元に戻すことはできません。その記憶がないことで何らかの不都合が起こる可能性もあります。それでも、後悔しませんか」
ベラさんはコクリと頷いた。テーブルの上に積んである紙を一枚引き寄せて「ベラさん 犬を好きになりたい 犬に噛まれた記憶を消す」と記す。
「今回のご依頼では、周囲の方が持つベラさんが犬に噛まれたことに関する記憶まで消す必要はないと思います。例え将来的にどなたかからベラさんが犬を嫌いだったことがあると漏れてしまっても、大切なのはその時点でベラさんが犬を好きである、あるいは嫌いではないという事実ですから。ベラさんは犬に噛まれたことは綺麗に忘れていますしね」
ベラさんは、「その通りね!」とウインクをした。大きく丸い目からバチンと繰り出されたウインクは溌剌としていて可愛らしい。
「では、ベラさんご自身の、犬に噛まれた記憶を消します。私の手にあなたの手を重ねてください」
差し出されたベラさんの手を握る。女性の手は冷たいことが多い。ベラさんの手も少しひんやりとしていた。
「目を閉じて、あなたが消したいと望む記憶を思い浮かべてください。ゆっくりで構いません。お客さまのペースで、少しずつ。強く、強く。イメージをしてください」
いつも通りの言葉を口にする。思い出して恐怖がよみがえったのか、ベラさんはガタガタと震え出した。眉を寄せてベラさんに触れようとした騎士さまに鋭い目を向けて首を横に振る。
騎士さまが渋々手を引っ込めたのを見て、私も目を閉じた。
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庭師が、小さな犬を抱いている。
見えやすいように庭師がしゃがんでくれた。
クンクンと鳴く犬のまんまるい瞳はうるうると揺れて。
小さな生き物を見下ろして、そっと手を伸ばした。
初めて触れ合う命に、感動で心が震えて。
気がついたら、手が痛かった。
犬の瞳はけわしくて、口からは白い牙がのぞいていて。
その牙が手に突き刺さっていた。
すぐに悲鳴をあげて手を引っ込めた。
赤い血が、ポタポタと……。
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右手を離し、涙を受け止める。
一滴、二滴、三滴。まだ足りない。
再び目を閉じる。犬を見るたびに思い出されたのであろうその古い記憶は、ベラさんの中に深く根付いていた。
四滴、五滴。
左手は繋いだまま、右手で何とか五滴とも受け止める。落としてしまっては大変だ。
記憶を完全に消せたことを感じて、目を閉じたままのベラさんに声をかけた。
「終わりました。ご気分はいかがですか?」
ベラさんはゆっくりとまぶたを持ち上げ、きょとんとした。
「あ、ええと。ティアさん、今日はどうしてこちらへ来たのでしたっけ」
騎士さまが後ろで信じられないものを見た目をして、両眉を上げている。青い目がこれでもかと見開かれていた。
「犬を好きになりたいのでしたよね」
微笑みかけると、ベラさんは、少しずつ穴の空いた記憶を繋ぎ合わせているようだった。
「え、ええ。そうだったわよね。犬を好きになりたかったのよね、結婚の前に。犬は嫌いだから。理由は忘れてしまったけど」
「そうです。無事に終わったので、今度犬と会ってみてください」
「大丈夫かしら」
不安そうにするベラさんの手を握る。
「大丈夫です。絶対に好きになれます。犬は可愛いんですよ! 素直で、愛するとそれ以上の愛を返してくれるんです!」
力いっぱい励ますが、ベラさんはまだ不安そうだ。よし、ここは。
「ね、騎士さま!」
私の「はい」と言ってという圧力と、ベラさんの不安そうな眼差しに目をパチパチと瞬いた騎士さまは、うぐっと小さく声を出した。
「犬は……。頼りになる相棒です」
素晴らしいわ!
ベラさんの後ろから「良いね!」と親指と人差し指で丸を作って突き出す。
ベラさんも、少しずつ犬と触れ合ってみる勇気が出て来たようだ。犬が嫌いな理由を思い出せないのも大きいだろう。
「私、頑張るわ」
決意表明をしたベラさんに、アドバイスをする。
「ベラさん、犬は人間よりも背が低いでしょう。特に子犬は。ご結婚なさった先のお家でどんな犬を飼っていらっしゃるのかは分かりませんが、犬は人間が怖い子も多いんですよ。だから、犬と触れ合うときは幼い子どもと関わるときのようにかがんで、撫でるときは手を上からではなく低い位置からゆっくりと伸ばしてみてください。手の匂いを嗅がせてあげるのも良いですよ」
幼い頃に祖母の犬は亡くなってしまったから私が関わっていた期間は短いが、何も知らないままに犬と関わるよりはましだろう。どのような記憶だったかは忘れてしまったが、犬の触り方をアドバイスしたいと思った記憶があるから。
「わかったわ。ティアさん、ありがとう」
ベラさんは強く頷いた。すぐに人に心を開いて明るく話すベラさんなら、すぐに犬とも仲良くなれるだろう。
「ありがとうございました。また何かあれば来るわね!」
代金を支払い、ニコニコと店の外に出ていったベラさんの後に続いて出て行こうとした騎士さまは、何かを思い出したかのように足を止めて振り返った。
「どうかしましたか?」
首を傾げると、騎士さまの大きな左手に左肩を掴まれて引き寄せられた。強く荒っぽい手つきに怖くなる。背の高い体を曲げて顔を耳元に寄せた騎士さまは、低い声で囁いた。
「お嬢さまが魔女を頼ったことは秘密だ。知っているのは俺たち二人とあんただけだ。犬を嫌っていたことや噛まれた経験があることは、あんたの言う通り犬を好きになっていれば良い話だが。貴族が魔女を頼ったなんて、知られてはならない。守秘義務があると言ったな? 約束は守ってくれよ」
これは脅し、よね。
ずっと丁寧な口調だった騎士さまが急に口調を崩したことで、よりゾッとする。すぐに返事ができないでいると、手の力が強くなった。
「どうなんだ?」
慌てて壊れた人形のように首をカクカクと振る。騎士さまは満足したように手を離した。
「ありがとうございました」
騎士さまが店を出て行ったことで張りつめていた空気が緩み、私はその場に崩れ落ちた。
かたく握った右手をぼんやりと見て、結晶を握ったままだったことを思い出した。
白くなった手を開いて、結晶が5つともあることを確認する。結晶は青と黒が混ざり合ったような色をしていて、血が戻って赤くなってきた手のひらとの対比で、鮮やかに見えた。
いつものようにメモした紙を参考にして、瓶のラベルにベラさんの名前と記憶の内容を書いて栓をした。ベラさんは明るくて楽しい人だし騎士さまはイケメンだが、正直もう関わりたくない。珍しい貴族のお客さまなんて良いことがないな。
ベラさんが無事に犬好きになれることを祈りつつ、騎士さまに掴まれた肩をさすった。