5 珍しいお客さま~3~
入れ直した紅茶を飲みながら物珍しそうに店内を眺めていたベラさんは、改まって姿勢を正した。
「私、結婚するの」
「あら、おめでとうございます」
祝福の言葉を贈る。私はまだ結婚など考えてみたこともないが、同年代と思われる彼女はもう嫁ぐのか。身分が高いと結婚も大切な役目なのだろうとぼんやりと考えた。
政略結婚で相手のことが好きになれないとか、そういうことだろうか。祖母の頃のカルテで見たことがある。
お相手に恋をしたいとかいう依頼だったら面倒ね。私は記憶を消すのが専門なんだけど。
「相手の方はまだ会ったことがなくて、肖像画でしか見たことがないのだけど、とってもイケメンらしいのよ」
早くも「恋をしたい」という依頼ではなさそうだと分かり、安堵する。政略結婚なのだろうが、イケメンなら恋をすることも難しくはないだろう。秘密を守れるかと念押しされるほどのことはなさそうだが、他に好きな人がいるとか、そういうことだろうか。
「それでね、身長も高くて、すらっとしてて、素敵な方らしいのよ!」
「お嬢さま、話がずれていますよ」
「あら、ごめんなさい。つい」
騎士さまが口をはさむ。ベラさんは慣れたように軽い調子で謝った。
「問題はね、お相手の家ではペットとして犬を飼ってることなのよ。でもね、私は犬が大っ嫌いなの。犬がお好きな家に犬が嫌いな人間が嫁いでくるなんて知られたら、あまり良いことはなさそうじゃない」
「それは、困りましたね……」
犬が好きで飼っている人からすれば、犬が嫌いだと言われて良い気分にはならないだろう。優しい人であっても気を遣わせてしまう。信頼関係があるならまだしも、会ったこともない政略結婚の相手に犬が嫌いだとは言いづらいだろう。
「でしたら、犬と関わったことがないからゆっくりと慣れたいなどとお伝えして、少しずつ好きになるというのはどうでしょうか」
私の提案に、ベラさんは首を横に振った。赤く長い髪がサラサラと揺れる。
「無理なのよ。結婚が決まってから文通を始めたのだけど、犬を飼っているけど大丈夫かと聞かれて、大好きですと答えてしまったの」
思わず両腕を組んでうなった。これは、つまり……。
「ティアさんには、犬が好きになれるように手伝ってほしいの。嘘をついたって知られたくないから、このことは極秘よ」
やっぱり。心の中でガックリとうなだれる。犬が嫌いだという感情を消すとかならどうにかなるが、犬が好きだという感情や記憶を植え付けることは私にはできない。
「私は記憶を消すことはできても新たな記憶を植えることはできないのです。ご希望に添えるかどうかわかりません」
正直に伝えると、ベラさんは顔を暗くして、指にクルクルと髪を巻きつけた。
「そうなのね……」
「ですが、犬を好きになることまでは無理でも、犬を嫌いではなくするのならばできると思います。そもそも、どうして犬がお嫌いなのですか?」
「それがね!!」
ベラさんは急に興奮したように身を乗り出し、机に両手をバンと叩きつけた。
「我が家の庭師が犬を飼っているのだけれどね、私が幼い頃に撫でようとしたら手を噛まれたのよ。ひどいと思わない? 血がダラダラ出て、気を失っちゃった。それ以来、犬が怖くて近づけなくなったの」
なるほど、犬に噛まれて怖くなるというのはよく聞く話だ。それなら比較的簡単に解決できるかもしれない。
「子犬だからかわいいと思って撫でようと手を伸ばしただけで、触れてもいないのに噛んだのよ。凶暴だわ。どうして犬なんて飼っているのかしら」
ぶつぶつとつぶやくベラさんに苦笑する。それでも結婚相手のために克服しようとしているのだから、ベラさんは偉いと思う。
「では、今お聞きした犬に噛まれた記憶を消すのがいいと思います」
「消せるの!?」
「はい」
瞳を輝かせたベラさんの後ろで、騎士さまが首を傾げた。
「お嬢さま、口を挟んでもいいでしょうか」
「いいわよ。どんどん言いなさい」
騎士さまは私の方を向いた。まだ少し警戒心が残っている眼差しに、何を言われるのかと緊張した。
「記憶を消すのではなく、犬が嫌いだという感情を消すのではいけませんか。記憶を消すのは感情に比べて危険なように感じます」
もっともな疑問だが、答えるのは簡単な質問だったことにホッとした。安心して表情を緩めると、騎士さまはなぜか目を見開いた。
「感情を消すと言う方法では、犬嫌いが解消されない可能性が高いからです。私の魔法では、感情を消すと言うよりは癒やすと言うのが正しいのです。例えば、失恋して悲しいと言う感情を消すことはできません。ですが、失恋は時間が経過すれば癒えることが多いですよね。私の魔法は、感情に対して用いるとその時間を早めるのです。本来なら数ヶ月、数年かけて癒やすはずだった感情を、魔法を使えば数分だけで、長い時間の経過で癒された状態と同じ状態にすることができます」
騎士さまは眉を寄せた。
「なるほど? ですが、それがなぜお嬢さまの場合はダメだということに繋がるのですか」
うんうんうんと大きく頷いて話を聞いているベラさんに苦笑する。感情が素直にまっすぐ表現されている。
「過去と強く結びついた根強い感情は、時間が経過しても癒えないからですよ。想像してみてください。失恋しても10年後には多くの人が悲しみを乗り越えていると思います。ですが、犬に噛まれたから怖い、嫌いという感情は、10年後もあまり変わっていないだろうと思いませんか? トラウマになっていますから」
騎士さまは寄せていた眉をパッと上げた。これは、分かってもらえた感じかな。
「理解できました。時間経過では癒えないと思われるため、根本的に犬を嫌いになった経験の記憶そのものを消さなければならないということですね」
「そのとおりです」
少し口角を上げて首肯しながら、心の中でにやけた。「騎士さまの眉毛鑑定」大当たり。
「そういうわけで、昔ベラさんが犬に噛まれた時の記憶を消すことはできます。逆に、できるのはそれだけです。どうなさいますか」
決めるのはベラさんだ。目を合わせて問いかけると、ベラさんはにっこりと笑った。
「もちろん、お願いするわ」