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ブリングイットオンダウン(仮)  作者: 御水三十郎
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【途中】2-1

途中

2-1

 一日後。

 電気がついたバスルームで、止めどなく流れる温水が私のすべてを包み込む。暖かい。排水溝で今日の汗と、めくれた皮膚と、雑菌と、血が渦を巻いている。

「また腹筋……ついた」

 シックスパックの溝をなぞる。仕事の上でトレーニングは欠かせない。からさ。

 脇腹の傷跡をなぞる。胸の上の傷跡なぞる。腕の傷跡なぞる。年中長袖しかきれない。

 爪が髪の間でつっかえる。キューティクル。はあ。髪を伸ばしているのはせめてもの抵抗だけれど、まとめているから無くても困らないけど。

 けど。けど……。

 シャワーを止めて鏡の水滴をこすった。メイクを落とせば強酸のミミズが這ったような細かい傷跡が、ここにも這っている。消えない青たん。赤み。へこみ。仮面をつけているから、これだけで済んでる。

 深々と右目を縦に横断している傷跡も水をはじいている。

 口角を均等にあげて、なだらかなUを口元で作る。

 私の顔は母さんに似て美しい。

 引き締まったアゴのラインも、歯並びも、ほどよい鼻のラインも、優しい瞳も。

 曇っていく鏡ごしでも私の顔は綺麗だ。

 この顔は私の希望なのかもしれない。

「私って仕事楽しんでるのかな」

 ゆうちゃんは、そう思ってるの?

 ベッドにジャージで仰向けになっている私に、くまのリオが返事してくれた。隣で布団に入っているリオは、大きくて丸くてふかふかしている。

「……考えたこともないよ。ずっとやってきたことだから」

 両親とばあちゃんが私にくれた生きるすべ。

 ゆうちゃんは悪いことしてないよ。

「そうかな」

 そうだよ。だから、もしも楽しんでるなら、それはそれでいいんじゃないかな。

「……ごめんリオ。楽しくない。イヤでもない。ただ、これをやってるのが普通っていうか。楽っていうか。……脳死っていうか」

 そうかあふあーー。もう眠いや、明日にしようよ。

「……遅くまでありがとう」

 もう寝息を立てている。そんなにつまんなかったかな。

 神鳥谷は捕まったから解雇だろう。

 お金は欲しかったけど、堅実に働こう。

 明日からまた学校だ。

 今日の科学の授業は、全ての問題を私が答えた。

 じゃあこの問題を刑部優。

 刑部優、答えられるか。

 それじゃあ刑部優の次は、刑部優。

 みんな刑部に注目ー!注目ー! はい実験に戻れー。

「どうして学校に来てるのですか」

「君はボクの助手と言ったら信じてくれたよ。ほら、補助者証だ。アヤさんが手続きしてくれていた」

「授業中に渡さないでくださいよ……!」

 実験の後片付けしている最中に……!

 先生と刑部さんって、そんな仲良かったの?

「良くないです!」「良くはない」

 苦笑いでクラスメイトがいなくなった。ああ、もう!

「学校では話しかけないでください」

「話しかけてきたのは君だろ」

「今は仕方ない……じゃなくて、なんで!」

「だからいっただろ、ボクは国家公認の祓い屋なんだ。警察は何度もボクにお世話になってるから頭が上がらない。ボクのおかげで警察本部上層部まで行けたやつがいるくらいだ」

「そんなめちゃくちゃな。もみけしたったことですか」

「そんなことより」

「わかりましたからそれは後にしてください」

 思っていた以上にこの人は異常だ。私は、ぼーっとしているうちに食虫植物の蔦に絡め取られていた虫かなんかだ。体を休めるために乗っていた緑色の葉は粘着質でくっつく性質があった。

 気が付かない間に傲っていた。力を過信していた。捕まってからでは這い出すのは難しい。

「あそこまで行けるということはかなりの中継地点が必要になっているはずだ。測量みたいに点を繋げて呪いを中継させる。そんなに時間も立っていないから、少しは見つけられるだろう」

 中継地点。業界用語で「イシ」というらしい。

 イシ探しのハイキングまたは徘徊は、呪い殺された依頼人のアパートから始まった。

 神鳥谷は左手に数珠を通し、糸で吊っている試験管を右手で垂らしている。とめどなくジャラジャラ深緑色の珠を指で擦り合わせ、試験管が動く方向に移動している。らしい。吊られている試験管が、歩いて揺れているようにしか見えない。

 試験管の中には、乾燥した赤黒い虫の死骸が潰れてへばりついている。隙間に突っ込んだときに額に張り付いていたのを採取したやつ。一匙のジャムみたい。これが反応してるそうだ。

 私はワークマン製の作業着と帽子を被り、この中学生みたいな祓い屋が、車道に出たり人に追突しそうなのをカバーする役になっていた。

 あと見つけたイシを私が取る。

「そこだ。もっと奥」

 ガードレールの筒の中。生け垣の土の中。塀の穴が空いてるとこ。美容室の本棚。中古車のダッシュボード。物干し竿の中。

 スーパーの袋を手袋代わりにして、それを取る。

 容器も様々。ガシャポンのプラスチックケース。布の小物入れ。小銭入れ。中身のないリップのケース。

 陸橋の階段の途中。フリーペーパーチラシの棚の下。下水道の蓋を開けた中。

「よく片手であけられるな。ハルクか?」

「……」

「シーハルクか?」

 私が竹藪から出てくると、祓い屋は腹が減ったと言い出した。辺りはもう真っ暗で、近くには民家の明かりがぽつんぽつんとある。時々排気音がして、生物の鳴き声や植物が揺れる音しかしない。

 どこにいるのかもよくわかっていない。寒いし。本当にどこ? 月の角度からして、大体21時くらい。

「近くに飯屋があるタクシー!」

 山びこが返ってくる。トラックすら通ってないほぼ竹林の地で、タクシー!が空気を振動させて消える。

 視界の端に光が入る。ヘッドライトだ。

 黒い個人タクシーが止まった。後に乗り込んだ神鳥谷が、指でこいこいしている。窓から覗き込むと、運転席には目が大きいギャルが収まっている。

「マリカーで鍛えてっから!」

 仏様だって乗り込むか微妙な線だ。

 いつの間にか電話してたのか。それか変な術でも使ったのだろう。学生が運転する車に乗るほど酔狂ではない。

 というか、この背丈で、この車内に収まれるものなのか。

「問題ない、アヤさんには毎回来てもらってる。寿司屋が終わるぞ早くしろ」

「帰ります」

 馴れ合うつもりはない。

 クライアントとの友好関係はときにバウンサーとしての仕事に影響する。あまり深入りすると、情が移ると、もしものときに身動きがしづらくなる可能性がある。適度な距離が大切だ。

「金は出すぞ」

 寿司屋の4人がけテーブルに着き、私は海鮮丼を頼んだ。古めかしい個人経営の店で、こじんまりとしているが、人がそれなりにいる。なんというか、寿司が美味しそうな店だ。

「これが今日の成果だな」

 テーブルにアヤが広げた街の地図に、神鳥谷がマジックで赤く点を落としていく。芳賀さんのアパート周辺には密集して、点が点に見えないほどだったが、ほかはバラバラで法則性を感じられない。よくわからないが、こういう感じであの家まで呪いはたどり着けるのか。

 どうでもいいけど、海鮮丼が来たらすぐ置けないからどけてほしい。

「何かわかるか」

「知りませんよ」

 早くこい、早く。マグロにイクラ。イカにタコ。何年ぶりの新鮮な生魚だろう。白米。夕方のスーパーの寿司とはわけが違う。しょうゆは少しだけで、カラシもつけよう。

「なら明日はもっと南に行こう」

「明日……?」

「これだけでわからないならしかたないだろう。わかることと言えば、相手は大勢の信者を抱えている教祖か、大勢バイトを雇えるだけの体力をもってるか、そんなところだな」

 明日もこんな事するの。

 明日もゴム手袋して、ドブとか用水路に侵入したりしなきゃらないの。

 終わらなかったら、明日も明後日も。

「……大勢のバイトです。人の手が届く場所にしか置いていなった。置き方も、とりあえず置けばいいと言う感じだし、高い場所やかなり困難な場所には置いていない。ちょっとした小遣い稼ぎという名目で募ったのでしょう」

「よくあるヤツ~~」前かがみで頬杖をついているアヤがいう。

「それはわかっている」神鳥谷が言う。「しかしバイトだと断定するには難しいんじゃ? そういうふうにやれって戦略かも」

「わかります」

「なぜだ」

「仕事が雑」

「えマジわかんの~~~~?」「君ならどうする。イシは、点で結ぶだけで機能する」

「私なら、あんなたくさん置きません。最小限置いて、バックアップもそれなりに置けば十分。多ければ多いほど、痕跡がのこる。撹乱とか、リスクを取るほどの理由があるのなら別ですが。それは、全て本物なのですか。ダミーは?」

「本物だな。乾燥した虫の死骸が入ってるし、ダミーならセーエネはもっと少ない。これを作るのにもなかなか大変だからな」

「開けなくて結構です。相手は、作るのが大変な石を大量に作れる人物。バイトを雇い、そこら中に石を撒き散らせるだけの財力と、場合によっては、それなりに界隈では信用のある人物」

「素晴らしい」

 アヤが地図を丸めてどける。店員が私の海鮮丼を、私の前に置いた。

「少し訂正するならば、信用などなくてもいい。お前を呪うぞと脅しでもすれば、素人は簡単になびく。呪いに即効性があるわけでもないのにな」

 なんていい色合いをしているのだろう。ピンクに赤に白。見てるだけでもプリプリしてるのがわかる。白米。白米……! こんなに一粒一粒ひかって、すごい。

「わあぁ」

「かわいい~~」

 二人にピントを合わせる。ニヤニヤニヤニヤだ。顔が熱い。ほころんでいた。感情の制御ができなかった。

 綺麗な笑顔が私を射抜く。

「うれしそうで何よりだ」

「悪いですか。いたがきます」

 割り箸を割って、震える手で美味しさの海の一角を摘み上げ、口に入れて、噛む。

 う、うまい。

 魚の汁かなにかが口にしみ出し、醤油の濃さに混ざっている。いろんな魚の油の味がする。海の味。白米の甘さも混ざって、口の中が美味くなる。

 うますぎる。

 頼んだ酒と焼いた魚のなんかに手をつけもしないで、私を眺めてニヤニヤしている神鳥谷。アヤもニヤニヤ。かまうもんか。これが美味しいのだから仕方ない。

「飯を食べるのは、向こう側にいった人間にできない行為だからな、食べること自体が悪いエネルギーから身を守るのに大切だ」

「ねーあのっさー、優ちゃんって何でそんなにビンボーっぽいの?」

 え。表情で返す。

「だって一回100万なわけっしょ? 貯金してもよゆーじゃね? スゲー節約するひとなん?」

 それは……。表情で返す。

 犬を殺され、組織に復讐したかった男に手を貸し、55000円を貰ったのを思い出す。

 二人組のコンサルタント探偵のボディーガードで、5500円を貰ったのを思い出す。

 妻を人質に取られた男の依頼を受け、550円を貰ったのを思い出す。

「両親が残した借金の返済にあてています」

 飲み込んで、私は言った。

 そんなものは無い。

 両親は”技術”以外に何にも残さなかった。良くも悪くも。

 絶対に理由は言えない。

「へえー。老後のために備えてるからだと思ってたけど、大変だね」

 海鮮をかき込むと、器で顔が隠れているはず。

 こいつ、カマかけてるの?

 つみたてNISAしてるのもバレてるの? 国債買ってるのも?

 ダメだ、優。無になれ。こういう状況は、しゃんとしておくに限る。私は顔がいいから、そうすればなんかそれっぽい雰囲気が出るはず。食べ終えた私は、おしぼりで口を拭いて適当な話題を振った。

「先生はいつからあそこにいるのですか」

 寿司でついた指の粘つきを吸って、神鳥谷の唇が小さくチュッと鳴った。

「5年前だ。校長に雇われる前は、アヤさんと二人でやってたんだがな、色々あってここに来た。うーん、うまい!」

「校長は、なぜ、祓い屋の貴方を」

 わっかにした親指と人差し指を口から取り出し、いう。

「いろんなヤツから恨みを買ってるから、守って欲しいそうだ。ボクというより岩が目当てだろうな。あれがあれば、敷地内にたいした呪いは入ってこれないだろう。イシで結界も張ってある。もし入ってきたとしても、かなり弱まるはずだ」

「はあ……。恨み? そんな、マズいことでも_」

 そんなの聴いたことがない。うちの校長は、ただの小太りで上の人間特有のハキハキ感のあるおっさんだ。

「ああ、あいつは西洋でいう、あ」「はいはいは~~~~いスッ」

 ぬっと腕が伸び、ネイルが動き出した口を塞ぐ。声がデカい。

「あぶないあぶない、それ言ったらダメっしょ~~。契約してるんだから、やべーってマジ、ぶねー」

「ボクの補助者になってるから問題は無いはずだ」

「でもダメっしょ、誰にもゆーなって約束なんだしさ~~。あの人ぜってーうるさいからそういうの」

 笑いながらアヤはスマホをいじる。アヤは何も食べないらしい。細いし肌もいいのに、ダイエットでもしてるのだろうか。

 わっかにした指の皮膚が、八重歯に当たってから、出る。

 うちの校長は一体なにをやったんだ。入学時に調査済みだったのに、あれから何かやらかしたのだろうか。生徒や世間に隠し通せるほどの大きな何かを。

 神鳥谷は〆のウニを食べて、また口から白い何かを取り出し、それまで出してきた”成果物”の隣に並べた。

「あの、さっきから、何ですかそれ。ご飯粒並べてるのですか」キモ。

「君のは入ってなかったのか」ご飯粒一つ残っていない私のどんぶりに、不服そうに唇をとがらせた。「紙だ」

 神鳥谷の唾液で湿り、ちぎれている紙の欠片。テーブルに横並びになって10cmくらいのラインを作っている。

 寿司の余韻を潰されたせいなのか少し機嫌が悪そうに眉間にしわを寄せている祓い屋は、まぶたを閉じ、もごもご何か唱えながら飾りっ気のないささくれの指を揃えて上空をなぜた。

「せいッ!」

 私は身体がビクつくだけでなんとか声を抑えられた。腹の底からの発声によって、ポップコーンがはじけるように、紙が蝸牛かたつむりに変わった。とがった目や身体をウネウネさせ、湿った粘膜をのたくらせている。横になってる藻掻いているのもある。

 私は、神鳥谷とアヤと目を見合わせていた。

「いるぞ」

「叫んでください」

「理由は」

「反応したやつが誰か私ならわかる」

「わかった、居場所がわかったぞ!! 術をかけさせてもらった!!!!」

 私は瞼を閉じて集中した。

 集中。集中。集中。

 集中。集中。集中。

 集中。靴音。集中。

「ごちそうさまでした」

 待て、追うな! 置き去りにして、目深に帽子のつばを引き、狭い厨房を通り、閉まりかけの裏口に身体を滑り込ませる。

 夜の冷たい空気に私が喰われる。店と店の隙間から、通りに人影が出ていく瞬間だった。

 23時に近い大通りは、さほど人がいない。でも、相手が一般人に紛れたら終わりだった。

 私は集中する。

 まだ近くにいるはず。相手は酷く混乱して呼吸も乱れてるはず。なんだよ! 感じるまでもなく、二車線の向かい側。男が当たられ、人影が道に消える瞬間。

 車道に飛び出す。クラクションとヘッドライトが走っている。反対車線にでると白い軽自動車に衝突された。私はフロントガラスに”転がって”、それから車上を蹴って、人影を追う。

 大通りをぬければ賑わいが減っていき、繁華街から忘れられたみたいな閑散としたアスファルトの道が続く。

 少し遠くの角に吸い込まれる人影。

 少し遠くの角に吸い込まれる人影。

 少し遠くの角に吸い込まれる人影。

 おびき寄せられてる。相手は素人じゃない。目的を持って私を釣っている。

 そして人影は、雑居ビルに吸い込まれた。

 コンクリート造りの外壁はやや古めかしく、冷ややかにそこにあり続けていた。

 隣接の道の街灯は点いているのに、この雑居ビルだけ明かりがない。テナント募集中。ビルの暗さは、光を反射しないで吸収してるようにも感じる。

 二人を待ったほうがいい? いや、ここがどこかもわからないだろうし、連絡する手段もないし、待つって何。

 深呼吸。

 一人分の狭い階段に足をかける。タン、タン、タン、タン。スニーカーの裏にコンクリートの硬さがダイレクトで伝わってくる。

 タン、タン、タン。

 二階、鍵がかかっている。

 タン、タン、タン。

 三階、安っぽいドアは半開きだった。

 喉が鳴る。

 手をかけて開ければいいのに、私は隙間から視線だけでのぞく。

 窓からの灯りで浮かび上がる、貸されていない何もない部屋だ。ドアを開け放ち、首を突っ込んで見渡す。

 やっぱり何もない。隠れられる場所などなかった。あるとすれば、天井の蛍光灯の数センチしかない丸みを帯びた死角くらいだ。

 しかし、気配を感じてしまっていた。

 どこかにいるはずなのがわかってしまっていた。

 私には割り箸しかない。なんでまだ握りしめていたの。

 ああー。

 ただの雑居ビルだし、何もない。この街の事故物件は、大島てるで調べ上げている。ここは、ない。覚えてる。問題ない。

 すり足でいき、ガラス越しに窓の外をのぞく。夜の道しかない。窓の鍵は……一つだけロックが降ろされていた。

 しゃがんで、窓を一気に開ける。冷たい空気が入り込んでくるだけで何もない。

 落ち着け。サッと確認するんだ。強く割り箸を握りしめ、隣の窓を素早く開けて首を窓から出した。

 上下右左右。ビルの外壁が伸びている。

「なら、どこ……」

 踵を返し、耳元で囁かれた。

 やめろ。

 背中に痛みが広がる。瞬間、窓枠に叩きつけられていた。黒い空が見えて、首に何か巻きついて引っ張られている。重い。ギシギシと重さが揺れている。

 マズイ落ちる。重力と重さの理にしたがって私は窓から逆さになった。

 アスファルトに、割り箸が落ちる。

 窓枠に足をからめて、なんとか"そう"はならなかった。依然として息はでないし、ロープが首に食い込んでいる。

 人影が、私の首にロープでぶら下がっている。

 目が合う。

 男だ。線が細くてどこにでもいる男。少し目がバキバキで、口から泡が出てている男。

 私の首は、そいつの首とロープで繋がっていた。

 重さを感じる、”ただの”男だ。

「……………ッ! ぬああ」

 足に力を込め、腹筋で芋虫みたいに上体を起こす。息は余裕でもつ。起し、起して、木にしがみつくサルみたいに両腕を縦の縁に抱きつく。地引網を引きずるように、重さとともに、のろく室内へ戻った。

 ロープは余裕があって引き剥がしてスペースを開ければ思う存分息をすえた。雑め。引き上げていくと、苦しそうにもがく男がすぐに私に近づき、縁に頭をぶつけて、室内へ引き込んだ。

「ボスは誰」

 男は咳き込みもせず、ぐったりとうつ伏せになっている。男を仰向けにする。目を開いたまま泡を吹いて気絶している。私はやつの胸の中心を拳でついた。ボクん、いい音がして、男が咳き込んだ。

「ボスは誰」

 胸ぐらを掴み上げると、にたあ、気色の悪い笑みを浮かべる。ビンタした。

 ビンタ。「誰」

 ビンタ。「誰」

 ビンタ。「正気に戻る止めろ!」

 視線を起こす。神鳥谷に腕を掴まれていた。見慣れた白衣が灯りに照らされてよく映えている。

「微量のセーエネの痕跡を伝ってきた、アヤさんなら見える」

 どうだっていい。「こういうキマってるヤツは、戻るまで叩くといいんですよ」

「君がどういうやつを相手にしてきたかしらないが、コイツは降ろされてる。中のヤツを出して、コンパスにさせてもらおう。キレるのもわかるが敵を追うための手がかりだ、今はおさえろ」

「…………絶対に成功させてください」

 不敵な笑みで腕組みをした。

 男を床に落とす。男はうめいたが、頬の赤く腫れた皮膚で笑みをたずさえたままだ。

「助かりました」

「そうなのか? ほとんど解決していたように見えたが」

「忘れてください」

 強い感情に捕らわれそうになっていた。相手から不意打ちされるのには慣れているのに。

『やめろ。』

 私はプロだ。仕事を執行するのに感情は邪魔でしかない。

 記憶する限り最期に恐がったのは、小さい頃に見たバレリーナの映画が、実はサイコホラーだったとき。おばあはホラーが大好きで、でも私はおばあが好きだからずっとしがみついていた。

 それから恐いという感情は、トレーニングと仕事をするにつれて次第に薄れていった。私にとって恐怖は、遠い日の記憶でしかない。

 男をロープでぐるぐる巻きにして、股の間を通してきつく縛る。

「おい、なにやってる。痛がってるだろう。中のヤツが逃げたらどうする」

「こうやって縛るとッ、股にロープが食い込んでッ、逃げられないんですッ、よッ」

 グッと引っ張り上げると、笑顔の男の目元がピクリと少し上がる。このロープは、男の目元を上げるレバーだ。何回引っ張ったってかまわない。

 男を中心に、男の身体が収まるくらいの丸がチョークで描かれていた。丸の中には星のマーク。6つある尖りにチャッカマンでつけたタバコが無造作に置いてあり、煙をくゆらせていた。

 白衣を払い、開け放たれている窓に背中を向け、男に向く。

「さあ、やるぞ。君は端っこで物理的な驚異に目を見張っていてくれ」

 お札を男の口にバシンと貼り付けて、私は遠くの壁に背中で張り付く。

 ここなら見渡せるし、遠い。

 指剣の先が唇にあてられ、低い音程でブツブツ呪文がつぶやかれる。

 片手には、手が全部開くくらいの、なかなか入りそうなタッパー。フタが開いて容器しかない。

「テシダケーラサ タガスノママノリーア……テシダケーラサ タガスノママノリーア……」

 出口は閉められ、神鳥谷の後ろの窓だけ開いている。

 硫黄の臭いが立ちこめてきた。

 はあ。

 何度も空で星の形を作る神鳥谷。

 はあ……。

 ニタニタの男が、あーあー、うめき出す。

 はああーー……。

 風もないのに台風の日のように窓ガラスが振動している。6本のタバコの煙が、ドライアイスみたくフロアに満ちる。

 はああーー何なのこれぇーー。

 神鳥谷の通る低音が部屋に満ちていき、満ちる。ウジ虫のように蠢く男が発するうめき声と、呪文のコールアンドレスポンスは続き、頂点に達した時。

「そこに居続ければ数分もしないで貴様は消滅する! さあ出てこい! 出てこい!! かかってこい!!!!」

 タッパーを男を隔てるように掲げる。

 瞬間、男がじんわりと混じりっけのない青で発光し、線になって神鳥谷をつなぐように瞬いた。

 私は視界を覆っていた腕を下ろす。タッパーが閉じられ、中には青い光が詰まっていた。小さい手で上と下から挟み込んでいる。相変わらず呪文を唱えていた。

「――すまないが、拾ってくれないか――」

 それだけ言って、呪文に戻る。どういうわけか、神鳥谷は裸眼になっている。

「――眼鏡がないと、ダメだ。集中できない――」

 タバコが一本小さく破裂した。

 横たわる男の上で、仄かな明かりで眼鏡のレンズが白んでいる。

 挟み込まれているタッパーから、青い液体がたれだしていた。

 華奢な手の中でタッパーが暴れている。パントマイムのようだが、辛そうな表情は嘘をついていない。魚がまな板の上で抵抗している生きの良さで、タッパーの青い液体がはねている。

 タバコが二本目、三本目が小さく破裂した。

 私は、その手の上に手を重ねる。引っ張られる。体が持っていかれそうになったのをこらえた。

 眉間にしわをよせ、私を見る。眼鏡がすでに割れていたのが分かったように、嘆息した。

「なるほど、まずいな。集中できない」

「目を閉じて、呼吸に意識を集めて、眉間のあたりに集中して」

「見えすぎるんだよ。そんなの何度もやってる」

「見え"すぎる"……?」

 くっきりとした鼻筋を汗が伝う。目がギュッとつぶられると、たまのような汗が押されて肌を流れていった。

 震えが手の甲から伝わってくる。

 タバコが4本目、小さく破裂した。

 私も震えている。

「……心臓の音をきかせてくれ」

「なんにょ比喩ですか」

 神鳥谷がひざまずくと、私もひざまずく。

「いつもはアヤさんがやってくれるのだが、今日は君に頼む」

「……抱けと?」

 作業ズボンの膝に、氷みたいに冷たい液体が浸透していく。

 魔法陣を避けて、液体は震え、漏れ出し、少し離れた先で、積み上がっていく。

「早くしろ、このままコイツを逃して呪い殺されたいなら別だが」

 腕に感覚があった。誰もいないのに鷲掴みされている感覚がある。

 頭。頬。胸。腋。ふともも。呼吸をするたびに増えていく。感触はあるのに、何もいない。

 鼻をつく臭いとともに息を吸った。

「怖がるな、叫ぶな、恐怖は生命エネルギー体を増幅させるだけだ。時間がない、早く!」

「こわがっへないてすそ!!」

 私は膝立ちで真横から小さい頭を抱き、耳に心臓をおしあてる。

「早いな」

「き、緊張してりゅだけ」

「面白くなかったな、すまない」

 神鳥谷は、邪気をすべて吐き出すように大きく息を吐いて、呪文を唱えはじめた。

 液体が、ゆっくりゆっくり、流れに逆らっている。

 私の鼓動に合わせてピクン、ピクンと、タッパーに戻っていく。人の下半身のようになっていた液体も崩れていく。

 生きの良さは死んでいき、これまで満たしていた青い液体が、タッパーへと収まった。

 バイクが通り過ぎる排気音。

 タバコが一本だけ煙をくゆらせていた。

「これでいい。ロープで縛ってくれ」

 それはもう液体ではなく、最初のように光の塊になっていた。

 硫黄の臭いが晴れてくると、意外とシャンプーのいい匂いがしていたし、髪はサラサラだった。

「……洗ってない犬の臭いがするのかと思ってたのに」

「なにっ、硫黄じゃない臭いの個体があるのか?」

 私は離れる。

 はあ。

 見ちゃった。

 見ちゃったし、触れられた……。

 本当にいるんだ……。

 あー。恐くない。

 あーーーーーー。

 今日は、”りお”と”さらん”と寝よう。やだって言われても、絶対に。

「もうボクも疲れた。さっさと帰ろう。これがあれば、相手の居場所くらい簡単にわかる。こちらのリードだ」

 ふらふらと出ていこうとしている神鳥谷は、壁にぶつかり、閉じ込められたのか? と触っている。男はそのままぐったりだし、魔法陣もそのままなんだけど。

「これ置いてくのですか」

「おつっほー!」

 でかい声でアヤが入ってきた。

 うるさくてムカついたが、正直それだけで”空気が”明るくなった。

「また眼鏡割れてんじゃーん。これそんなに数ないんだから気をつけてよねー」

「思ったよりチカラが強かったんだ、恐怖に当てられて増幅してたんだろう」

 ドアにオデコをぶつけて神鳥谷が外に。私は特に意味もなく瞬きを数回多くして、口を尖らせてみた。

「マジでお疲れ。大丈夫だった?」

「は、はい。なんとか」

 両手を握られ、大きな瞳にのぞき込まれる。

「マジありがとう。優ちゃんいなかったら、ゆっきーたぶん憑依されて、全裸でそこら辺走り回って、警察いってたかも」

 神鳥谷が大通りを走り回る姿。ポストにのぼって阿波踊りのように奇妙に身体をくねらせる。……もうやってるのではってくらいしっくりくる。

「ここあたしやるから、ゆっきー車まで運んで。見えてないから、あれ」

 ぶつかるような落ちるような音が外からした。

 それから、たぶんロープでできているであろう私の首の締め跡を、うるうるした視線が左から右になでる。

「恐かったよね」

「まったく」

 いつもだったら反応できたのに、私はされるがままに強い力で引き寄せられ、抱きしめられていた。

 落下する男と首にロープでつながれる。

 青く光る男、タッパー、不快な硫黄の香り。

 下半身を形成する青い液体。

 ぬくもりと、香水の香りに包まれた。

 いつ以来だろう。こうやって、抱きしめられたのは。たしかに、心が幾分か穏やかになる。

 肩と耳が、遠ざかり、アヤが笑う。

「これからも、よろしくね」

 私は、ドアで立ち止まり振り返る。

 純粋な感謝だった。むずむずする。

 アヤは男を担いだ。

 肩に顎がのった感触を思い出す。しかし、気のせいだろうか。遠近法ってやつかも。それは違うか。はあ……もう、どうでもいい。

 明日も学校だ。

 道端に止めてあったタクシーの前で立ちすくむ白衣の背中があった。正面に立って腕組みしている。

「ドアの位置ここですよ」

「やられたな」

 は? 近づくと、フロントボディーの塗料をやっと認識できた。塗料は、青で、一言だけ大きな文字があった。

 やめろ。


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