生き甲斐
終わった。俺の人生の夢は全て潰えた。何のために生きてきたのか。俺は今まで、目の前の熱中している何かに、命をかけてきた。小中は野球、高校はラグビー、大学はアメフト、その一つ一つに。けどそれとは別に、大学を卒業したらずっとやりたかったことがあった。それがお笑いだ。お笑い芸人として飯を食っていく。それができたらどれほど幸せか。いや、幸せだったか。結局のところ芸人としては3年しか保たなかった。コンビの解散を繰り返したのだ。どいつもこいつも、芸人として飯を食っていくという最低限度の志も持っていなかった。だからこそ、こちらの真剣さは浮き彫りになってしまった。ただ意見をぶつけ合って、議論して、話し合って。それだけでよかったんだ。何故どいつもこいつも意見がぶつかったら『方向性の違い』という結論にしてしまうんだ。ふざけるな。そして決まって言うのが、『お前は上から目線だ』『お前は頑固者だ』ひどい決めつけだ。お前らだって、『上から目線』を上から決め付けてるだろう。俺はお前らが思っている以上に、お前らの意見を採用しているぞ。それにこちらが頑固者だとしたらお前らは軟弱者すぎるぞ。何で俺を論破してくれない。ただ俺は、俺の思う意見と理由と根拠を話しているだけだ。だからその意見を否定するなら、理由と根拠を示してくれ。何から何まで。それを答えもせずに何が『頑固者』だ。
気付いてたか? 俺はいつも集合場所を、お前らの家の近くにしていたんだぜ? いや気付かなくていい。お前らみたいなクソヤローに感謝されても嬉しくない。
またコンビを解散した。今日の朝。最低だ。その日、俺は真っ黒なコンクリートだけを見て歩いた。俺は、『重い』らしい。なんでそうなる。本来であれば、重くもなるだろうに。これで食っていけなかったら死ぬんだぞ。住む場所も食うものも着る服も手に入らないんだぞ。よく考えろ、死ぬんだぞ。なぜその現実を重く受け止めない? いやもし仮に、純粋な気持ちで目の前の事を楽しんでいるだけの人間なら、こういう重さを押し付けたりしない。けれども、お前らがそういう純粋な人間だったなら『何でアイツらのコンビの方が認められてんだよ!』なんて他人を僻まないでくれ。俺は結果を出してきた人達の努力と才能を知ってる。俺たちは負けて当然だったんだよ。
俺の経験したお笑いの世界は、思ったよりもヤワで、脆弱な人間で溢れていたらしい。今はまっすぐ歩いているのだろうか。それも分からないような足取りだった。それでもなんとか、家に辿り着いた。
生きがいを失った。服を脱いで、シャツとパンツ一枚で、仰向けに寝転んだ。命を賭けて取り組んで来た事を、『もう無理だ』と悟った。まるで神様がことごとく俺の邪魔をして、どこで諦めるかをみんなで賭けてたんじゃなかろうか、芸人としての3年間は、それぐらい嫌な出来事ばかりだったな。そして俺の夢は今日終わった。
死ぬ事を明確に考えた。寝転がってからどれぐらい時間が経った? 2分も経っていなかった。二十五歳。人生を諦めるのはまだ早いと皆は言うかもしれないが、二十五歳以降の人生のイベントって、一体何があるだろう。結婚? 子供? 就職? 起業? どれも驚くほど興味がなかった。あの爆笑をとった時の快感に勝るものはこの世に無いと確信していたからだ。事実、お笑いを初めてからほどなくして彼女と別れ、その後恋愛をする気は微塵も生まれなかった。お笑いが好きだったから、愛していたから。
明日からどうやって生きよう。お金がないとかそういう問題じゃない。どこに力を入れて生きよう、そういう問題だ。背中の中心で俺を支えていた何かがいなくなっていた気がした。そして、ゆっくりと目をつむった。
いつの間にか不可思議/wonderboyの『世界征服やめた』を口ずさんでいた。
「もう、やめた。世界征服やめた。今日のご飯考えるので精一杯」
一節一節、まるで俺がこの歌を考えたかのようにつむぎ出した。
「もう、やめた。二重生活やめた。今日からは掃除洗濯目一杯」
まるで、俺が作った歌詞みたいだ。でも俺は不可思議/wonderboyほど強い人間じゃない。ああ、俺の人生ってこんなもんだったんだ。はっきりと、死のうと持った。
そこに、仰向けになっていた俺の顔の横に、ゴキブリがいた。俺は叫び声を上げながら立ち上がった。
俺自身初めて聞いた声が、俺から出ていた。なんて情けない声だ。
それよりも、殺虫スプレーはどこだ。どこに置いた。そうだ、あの本棚の上だ。なんてことだ。このゴキブリを退治するには俺は一度こいつから目を離さなければならない。それはつまり、こいつの勝利と殆ど同義だ。目を切った瞬間にこの場を逃げ去り、物陰に隠れ、恐怖を煽り、心をじわじわと圧迫していく。逃げられた時点で負けだ。だめだ、そんな事はあってはならない。今この状況での最高の選択肢は、一体何だ。
冷静に周囲の状況を確認しろ。床はフローリング。目線の先にはキッチン。キッチンには、何がある。
ここで一つゴキブリの特製を復習しておくと、こいつらは夜行性で光に敏感だと思われがちだが、どうやら空気の流れにかなり敏感らしい。実はこれが対ゴキブリにおいて一番気をつけなければならないことで、空気の流れが少ないからこそ、冷蔵庫の下や本棚の裏に隠れる。だったら、スプレーによる対処は如何なものだろうか、空気の流れをあまりに作りすぎる。確かに一回でもスプレーの薬品がクリーンヒットすれば動きが鈍くなり追撃を即座に行える。しかし、もしその一発目をミスしたら。怒り狂ったように暴れ回るこいつを俺たちは見ていられるだろうか、いや無理だ。飲食店でバイトする中で、何度か見かけて何度か殺してきた。多少の慣れはあるかもしれないが、嫌な物は嫌だ。できるだけ暴れさせずに殺す方法は無いのだろうか。
そんな中、皿洗い用の液体洗剤が視界に入った。聞いたことがある、ゴキブリは体表に油があって、それが落ちると呼吸ができなくなり、勝手に死ぬ。だから洗剤には意外と弱い。
液体洗剤がとろりと落下する時、空気の流れを作るだろうか、いや作らない。これほど体重が軽い生物にとろみの付いた液体がかかったら、激しく暴れられるか、いや暴れられない。
俺はまずゴキブリの周りを囲うように、液体洗剤を垂らした。ゴキブリに動きはない。そして次は真上から液体洗剤を落としていった。ゴキブリに動きはない。そして液体洗剤が着弾した。ゴキブリが動き出した。思ったより暴れているが、俺が知っているような暴れっぷりではない。
追加で液体洗剤をかけ続けると、ゴキブリは弱っていった。ゴキブリは腹を見せてひっくり返った。ゴキブリは足がゆっくりと止まっていった。ゴキブリは死んだ。
俺は腹に力を入れて立っていた。そして、ゴキブリの死に様を熱心に眺めていた。