サンドウィッチ
海の見える丘の上にある古びた喫茶店。
そこは酒の提供がない『純喫茶』とは違い、酒の提供がある『不純喫茶』。
繁華街から外れたちょっと不便な場所にあるそこに、わざわざ足を運ぶ女性が一人。
艶やかな黒髪は肩の辺りで直線に揃えられて、右耳だけを出すように小さなピンで留めている。ピンにさいた小さな花は可愛らしいが、キリリとした眦からは意思の強さが伺えた。
彼女は毎回閑散とした時間を狙って、書類の束や本を持ち込み、長々と居座る常連だ。
「すいません、おかわり」
空になった珈琲カップを持ち上げた彼女の視線は、卓上に広げられた書類から動かない。
古株女給仕の私、ことアキが「かしこまりました」と返事を返せば、宙に浮いていたカップは綺麗にソーサーに納まった。
いつもと同じ手順で豆を引き、湯を注ぎ入れ、琥珀色の液体を落としていく。
事前に温めておいたカップに注ぎ入れたら完成だ。
けれど、今日はもう一つ。
「お待たせいたしました
おかわりの珈琲です」
空になったカップを盆に引き上げ、新たなものを置く。
ソーサーに添えられた小さなスプーンの上に光る四角い銀紙。
それは給仕たちの休憩室に置かれている茶菓子だ。
仕入れ先のお試し品だったり、マスターの試作だったり、失敗作だったり。
内容はまちまちだが、いつもマスターの好意で置かれている。
今日のはお試し品の猪口齢糖。
先程の休憩で口にしたが、口内の体温でじんわりと溶けていく甘さとほろ苦さは、珈琲のお供にもってこいだ。
その存在に気づいた女性が首を傾げて私を見上げた。
「サーヴィスです」
最近習得したウインクで告げると彼女は吊り上げていた目尻を下げた。
銀紙を細い指先で解き、口に運ぶ。
その仕草は子供と変わらないのに、とても色っぽい。
「ありがとう
…甘くて美味しい」
「珈琲ばかりじゃ体によくないので」
「これで何杯目だっけ?」
「四杯目です」
女性は片肘をつくと髪を掻き上げ、魂を吐き出すような深い深い溜息を吐いた。
「……仕事が上手くいかなくて、ね」
そう告げた彼女の眉間には皺が刻まれた。
けれどそれはほんの一瞬。
女性は少女のような笑みを浮かべ、再び「ありがとう」と口にした。
女性が働くことについて、風当たりは強い。
私とて一般企業で働こうなどとは考えもしなかった。
女が働く場は限られている。
もっとも、私の場合はこの仕事が合っていたからなんの問題もないのだが。
きっと彼女は厳しい職場で働いているのだろう。
私はいつの間にか、よく仕事を持ち込んで頑張っている彼女を応援していた。
きっと彼女はもうすぐ仕事を終わらせ、軽食を頼むはずだ。
今日の軽食はサンドウィッチ。
からしを混ぜたバターを食パンに伸ばし、そこにスライスしたきゅうりと薄ぅいハムを何重にもして挟む。
齧り付けば、きゅうりがシャリっと音をたて、重なり合ったハムからは旨みが溢れ、マスタードの香りが鼻をくすぐる。
食べ応えがありつつも、お酒にも合う逸品だ。
サワーや麦酒と合わせて頼む客が多い。
そんなことを考えていれば、私のお腹の虫が騒ぎ出す。
さっき休憩したばかりなのに。
情けなさにこっそり息を吐き出せば、「すいません!」と声がかかった。
彼女である。
「今日の軽食って何ですか?」
私は思わず笑みを浮かべ小走りに駆けつけた。
不純喫茶なのに、なかなかお酒が出てこなくて申し訳ない。
次回から少しずつお酒の話が混ざる予定です。(予定は未定)