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異世界教育学の導

作者: ななしさん

序盤はテンプレ異世界導入なので読み飛ばしてもらって大丈夫です。カント、ポルトマンのくだりもちょっと難しいので読み飛ばしてもらっても大丈夫です。

私の名前は小倉遙(おぐらはるか)、いや、小倉遙という人物()()()()と呼称した方が適当か。

あまりにもありきたり過ぎて仔細は省くが、私はいわゆる異世界転生なるものを経験し、異世界へと転生した。しかもこれまたテンプレート極まりない、魔法と剣の中世西洋文明と同程度の技術力を保持した異世界にだ。

しかし、このn番煎じな異世界転生にもどうやらテンプレ外な事もあるらしく、昨今アニメや小説などで謳われている魔法学校なる面妖な施設が存在していない。いや、教育学などに関する思想的発展度合いもまた、中世西洋と同程度であるらしいのだ。畢竟畢竟(ひっきょう)、この世界では特権階級者のみが非効率的で、それでいて才あるものを潰すような教育をしているのだ。


言い忘れていたが、私はこれでも現代日本においては教育学を専門に研究していた。よって、この現状は私にとって到底看過できないものである。故に私が、この世界における教育のコペルニクス的転回を引きおこすための下準備として、地球における教育学の発展の歴史を以下に書き記し、今後の私の行動主義的基準にしようと思う。



学校を意味する単語s()c()h()o()o()l()の起源は古代ギリシャ語で「暇」を意味するスコレーにあることから話し始めると、膨大な情報量と化すため、ここでは第一に教育とは何か、という点に的を絞り、中世以降の近代的教育学の発展の歴史を記す。



諸君は生まれたばかりの鳥の雛を目撃したことがあるだろうか。彼らは生まれたその瞬間から、親鳥に教えられること無く、排泄物は巣の外に落とすという、最も衛生的で最良の排泄方法をとる。哲学者のカント(1724―1804)は、この雛鳥の行動をみて「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。」との言葉を残している。これは誰に教えられるまでもなく本能的に最良な結果をつかみ取る他動物と、教えられなければ満足に衛生的な排泄法すら会得できない人類を比較したうえでの言葉だ。以後、教育学界隈において、人間は教育されなければ生きていけない劣等生物であるという見方が強まっていくことになる。


さらにその考えを補強する形としてポルトマン(1897―1982)という人物がカントの言葉を科学的に実証する。彼は生物を就巣性のあるものと離巣性のあるものの2グループに分けた。簡単にいうなれば、巣を持つものとそうでないものだ。

就巣性のある動物の代表例としては犬、猫、ネズミなどがあげられ、離巣性を持つ動物では牛や馬が代表例としてあげられる。

これら2つのグループの特徴としては、就巣性のある動物は妊娠期間は短く、出産数が多いが親の保護期間が長い、離巣性のある動物は妊娠期間が長く、出産数が少ない代わりに親の保護期間がほぼ不要であるという点だ。これには種の存続という至大目標が見え隠れしており、生態系の下位に属する者は多産であり早産であり、上位に属するものは天敵が少ないため少産で、子が自立できる程度まで親の胎内で保護できるという合理的な理由からである。


このグループ分けの面白い点は、じゃあ人類をどちらに分類するかとなったときに、どちらにも分類することができないことにある。人類は離巣性の特徴を保持していながら、親の保護期間が長いという二次的な就巣性を示しているのだ。これは、脳の肥大化により、本来なら歩くことができるようになる一歳児まで胎内にいなければならないはずが、産道を通ることができなくなるために、早期に母体の体外に出るからである。つまり、人類は生理的に早産であり、動物であれば本来どちらかに属するグループ分けにあぶれる()()()()であるのだ。


人間は他動物と比較すれば欠陥も良いところであるというのが科学的な事実であり、決して神に選ばれた高等な動物ではない。それが教育学や科学的にみた人類の姿なのだ。しかし、人類はその中でも肥大化した脳を駆使し「文化」を作り出してきた。欠陥存在であるはずの人類が、文化を生みだし、生態系のトップに君臨したのだ。


ここで序で述べた「教育とは何なのか」という疑問に対する解を述べておく。

教育とは「先人からの文化の伝達」である。先人の生み出した文化を継承し、さらなる発展の礎とする。人間という存在は教育が必要でもあり、教育が可能でもある唯一の教育的存在だ。故に私は、教育とは文化の伝達であるという解を呈する。



上記の記述をもって、教育とはなんなのかということが朧気ながらも見えてきたため、次に近代教育学の発展について記していく。


近代教育学と前近代の教育学の比較するうえで大切なのは、思想の変革だ。前近代の社会においては宗教は絶対的なものとされており、宗教の時代と呼称されるにふさわしいものであった。しかし、近代に入れば啓蒙主義が台頭し、呪術や信仰に対する批判的な思想がうまれていった。それにより、これまで神々の権能とされ、神聖不可侵のものであった奇跡がただの自然現象へと堕とされていった。それに伴い、学問というものはさらに重要視されていくのだ。


しかし、ここは異世界。実際に怪しげな呪術や奇跡などが存在しており、このような面妖不可思議な世界において地球と同じように啓蒙主義の台頭を望むことなどできそうにはない。


そこで次に、この世界においても実現可能と思われる地球世界における教育学変革の基盤となった事項を書き記していこうと思う。


近代教育学を語るうえで、絶対に避けては通れないと言われる偉人が存在する。コメニウス(1592-1670)はその一人だ。彼は1657年に『大教授学(Didactica Magna)』という本を著した。この書籍は、あらゆる人間にあらゆる事柄を教示するための普遍的な技法を提示する、ということをコンセプトに書かれた本である。事実、この本が現れる以前の教師というのは個人個人の当たり外れが非常に大きく、どう教えればわかりやすいのかなどといったことは考慮されていない、ただ自分の知識をひけらかしているだけの存在で溢れていたのだ。したがって、この教師にとってのマニュアルとも言えるこの書が存在しなければ、学校の土台を形成することなどほぼ不可能といっても過言ではないだろう。


さらにコメニウスの功績は大きく、彼は1658年に『世界図絵(Orbis Sensualium Pictus)』という書を著す。これは世界初の絵入り教科書としてギネスに認定されている書物であり、この本は出版と同時に各国で翻訳され大ベストセラーとなった。アニメなどの魔法学校では、当たり前に挿絵付きの教科書が登場しているが、地球世界において絵入り教科書が誕生したのは1658年になってからの出来事だ。


また、彼は教育改革案として「学級・学年制度」も提唱しており、これまたアニメなどの魔法学校では定番な学年、クラスなどの概念も彼が生み出したものなのだ。そう考えれば、いかに二次元世界における教育学の発展が著しいのかわかるだろう。空想上の異世界は、地球よりも数百年はやく、教育面では発展をとげている。


そして、コメニウスの活躍と同時期(1600年代)には子どもという存在の認識にも大きな変革が訪れていた。前近代における子どもは、子どもという存在では無く、小さな大人という認識であった。喩えるならば、コンビニ店員が8才の子どもであれば、多少の失敗をしても「子どもだから」と現代の価値観を持つ我々は許容するであろう。しかし、前近代であれば「子どもだから」という言い訳は通用せず、情けの容赦なく殴る蹴るなどの暴行を加えられていた。


その中で登場したのが、社会契約説などで有名なJ・ロック(1632-1704)とJ・J・ルソー(1712-1778)の二人である。


ロックは白紙説タブラ・ラサという説を唱えた。これは、「子どもの精神は白紙のようなものであり、教育をすればするほど白色だったものが色づいていく」というものであり、子どもは何も知らないのだからはじめから暴力を加えたりするのではなく、教えていこうと語りかけるものであった。


そこにルソーが『エミール』という小説を書く。少年の日の思い出のあの人ではない。この書の内容を端的に述べるのであれば、少年育成ゲームだ。エーミールという架空の少年の育成過程をシミュレーションしただけの小説である。ルソーはこの書を通して、小さいうちから完璧を求めすぎるがあまりに、その未熟さ、不完全さにいらだってしまうのだと世間を批判した。そして、子どもは小さい大人ではなく”こども”という存在なんだと語った。これにより、世間では子どもに対する認識が変革していくのだ。



これまでに教師と子どもの変革について記してきた。そこで次に公教育の制度に関する変革を記していく。


公教育の父と称される人物がいる。それはコンドルセ(1743-1794)である。彼は1792年4月にコンドルセ法案というものを唱える。

この法案は教育の機会均等を実現するためのもので、その内容は大きく分けて3つ存在する。

1つは教育の無償制である。これは経済の格差社会への配慮をしたものであり、この制度により、例え貧しい身であったとしても、勉学に励むことが可能となった。


2つ目は男女の共学化であり、これにより学が不要とされてきた女性も勉学において功績を残す機会が誕生し、男女共同参画社会を形成するうえでの大きな進展となった。


そして最後の1つが知育の限定である。これは教育の中立性を保つためでもあり、宗派の違い、宗教の違いなどにより通学の許可が降りない子どもをなくすためでもある。これにより、学校は政治的・宗教的にも不可侵の教育のためだけの場として独立を果たした。


豆知識として述べるのであれば、このコンドルセの法案は非常に優れており、現在の日本国憲法26条1項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定と同条2項の「すべて国民は、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」にも受け継がれている。また、義務教育はあくまでも親が教育を受けさせる義務を負うというものであり、子どもは教育を受ける権利だけを有しているという点を留意しておきたい。



次に、ペスタロッチ(1746-1827)という人物がコンドルセの『大教授学』をさらに発展させ、「Die Methode」、「直観のABC」という概念を生み出し、さらに現代の教示方法に近づけていくことになるがここでは割愛する。


最後に、幼児教育の世界について触れておく。幼児教育を語るうえで欠かせない人物はフレーベル(1782-1852)である。彼は、現在アンパ○マンを出版しているフレーベル社の由来となった人物であり、幼稚園を生み出した人物である。彼は割愛したペスタロッチの元に実際に赴き、そこでペスタロッチの教育実践を学んだ。その後に彼は幼児教育の場を設け、母親の育児・教育を支援するための場を整える。それが現在の幼稚園の原型である。

さらに彼は、子どもの遊び・好奇心を重視し、それを伸ばすために恩物という玩具を考案する。これは現在も赤ちゃんの定番玩具の1つとして絶賛発売中であり、名前はしらずとも見たことがある方は多いだろう。


彼は自身の生み出した施設をドイツ語で「Kinder garten」と名づけた。勘の鋭い方は気づいただろうが、この綴りは幼稚園を意味する英単語と同一のものである。これは、このフレーベルの功績を称え、彼の功績を忘れないために人々がそうしたのだ。


そして上記の内容を持ってして、ようやく現代の幼稚園・学校の原型が完成する。

地球世界における現在の公教育の土台部分が完成したのは1800年代中頃なのだ。しかし、これでもあくまで土台部分に過ぎない。この他にもヘルバルトやライン、デューイ、シュタイナーなどの偉人が続々と台頭し、1950年頃に現在とそう変わりない教育体系が完成することになる。


つまり、現在の教育学というのは数百年の歴史の積み重ねの果ての果てに位置しているのだ。

よって、異世界における教育観の思想の変革を行うには、人々の常識を塗り替えていくための膨大な時間と、数多の偉人たちの熱意が必要となってくるのである。したがって、冒頭では行動指標としてこの書を書き記すと称したが、成し遂げるのは土台無理な話だ。故に私は、この短き生涯を持ってしてかの偉大な先人たちのように、数百、数千年後の子どもたちのために奮闘しようと考える。そして、アニメや小説などに登場する教育学は時代を先取りしすぎであるという愚痴を1つ最後にちょろっと書いてみる。


長々としたこの駄文、長文にお付き合いしていただき本当に感謝する。




-異世界の名も無き教育者より-



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