彼の日常 1
「それで、作ってた資料は終わったんですか?」
「仮に終わってたんなら今ここでタイピングなんてしないよ」
「はぁ……」
時間はそれから一時間後、生徒達も続々と登校してきた学校の一角に位置する小さな教室で俺は女子高生に溜息を吐かれていた。
「もう、なんで葉村先生ってそう詰めが甘いのかなあ。普通、そういうときってこまめに保存しながら進めるもんじゃないの?」
「いや、途中までそうしてたんだけどね。二時を過ぎたあたりからは意識が朦朧とし出して気づけば記憶が飛んでたよ」
「先生って無口で神経質そうだけどそういうとこ抜けてますよね」
「そうかもしれない」
視線をパソコンから離さず、目の前の少女に答える。
すると、ノートパソコンを遮るように、形の良い手がヒラヒラと視界を遮った。
「美咲、見えないんだけど」
「そりゃ、見させないためにやってますから」
「それは困るなぁ」
「……はあ」
美咲は溜息を吐いて手をどけた。俺は早速作業を続ける。
「先生ってどうしてそうリアクション薄いんですか? 私のクラス、先生の授業のときあんなに邪魔してうるさいのに、先生注意はするけど怒鳴り声一つ上げたことない」
「あれは気を引くためにやってる行動さ。俺が下手に大きいリアクションを取れば、彼女たちは面白がって益々エスカレートするよ」
「えー、藤巻さんはそういう子どもっぽいことはしない人だと思うけど」
「彼女はそうだろうけどね。けど、その周りの平岸さんや結城さんは違った態度を取ると思うよ」
突然沈黙が下りたので、思わず手を止めて顔を上げた。
俺の机の上に座った女生徒――篠宮美咲はまじまじと僕を見る。「先生って、意外とよく見てますよね、私たちのこと」
「いや、このくらいは多分誰でもわかると思うよ」
「先生って他人に興味がない人だと思ってました」と美咲はなおも続ける。
確かに、他人に興味はない。でも、周りを観察する習性をいつからか身に付けてしまったんだ――
もちろん、そんなことはおくびにも出さず、僕は美咲を無視して作業を続けた。
「日本が今のような情勢になったのは三十年前だ。その当時の日本は今とは比べようもないほど広大な土地に人は住んでいて、人口も今の百倍、およそ一億人以上いた」
作っていた資料も無事に終わり、俺は件の美咲の教室で授業を行っていた。
俺の担当は社会。今やっているのは、ちょうど現代の場面だ。
「しかし、初めて『リンデクス』が発見されると、奴らはたった半年で国中に繁殖、瞬く間に人間の居住地へと侵攻した。突如地球に姿を現したリンデクスはまさに地球の生物共通の害獣だった。同種以外の生物は見境なく喰らううえに、なぜか優先的に人を襲う奴らに人間も当然ながら対抗するが、その高い生命力を前に、従来の重火器はまるで通じなかった。その結果、現在日本は人間が居住する街は点在する程度しかなく、他の地域に人間は住めなくなってしまった。ここまでは、中学校までで習っている範囲だと思う」
静かな教室に俺の声とチョークの音だけが響く。これだけを切り取れば授業を真面目に受ける意欲的な生徒だが、おそらく振り返れば手を動かしてる生徒はほとんどいないだろう。
「リンデクスの数は多く、そしてとどまることを知らなかった。次々と領土を侵食される日本は、まずリンデクスが嫌う周波数を発生させる波動障壁を作り、各都市を取り囲むように建設した。だが、それだけでは駄目だ。たまにやってくる強力なリンデクスは波動障壁を突破して街を破壊する。そこで日本は、ある手術に着手し、成功する。それが君たちには特に馴染み深い存在である『超人』だ。そもそもこの超人はさっきも言ったとおり自然に出来たわけではなく、手術によって生まれたものってことになる。ちなみに、この手術がどういうものか知っている人は?」
俺の問いが静かな教室に響く。この範囲も高校生なら誰でも知っている内容だ。
たっぷり十秒とっても誰も手を挙げないどころか目を合わせようともしない。話を聞いている側からすれば分からないだろうが、こういう嫌な沈黙は話をしている側からすれば結構辛いと答える人は多い。まだおしゃべりをして話を聞いていない方がマシだと思えるほどだ。沈黙を脱しようとテンパり、こちらがずっとべらべら喋っていると、益々生徒は聞く気を失う負の連鎖に突入する。これが分からない同期の新任は四月に相当苦労した。とはいえ、俺もこれが最初から分かっていたから黙っていたわけではないのだが。
さらに数秒待ったが、俺の声は聞こえているだろうに、誰も教科書から視線を上げる者はいなかった。
これ以上は埒が明かないと、俺は答えを提示した。
「答えはリンデクスにとっての心臓部といえる『魔核』を人体へ移植できるようになったことだ。この魔核を移植することによって、超人は魔力で体を丈夫にしたり超常現象を起こすことが可能になる。ただ、超常現象の方は超人の全員が行使できるというわけではなく、より魔核と順応し、魔力を上手く扱える者だけが可能な力だ」
脳裏に一人の少女の姿が思い浮かんだが、すぐに振り払った。
「種類によるが、行使できる超常現象の系統は基本一つ。ただ、これも人によっては複数持つ者も存在する。これをリンデクラウドで体系化し、一つに指標としたのが『Level』だ」
リンデクスにも対応しているこの指標。一種の強さを表したもので、基本的には生み出せる超常現象の数と強さでランク付けされる。
そのとき、クラス内の一人が挙手をした。A組の中でも特に優秀な生徒として職員室でも話が上がる藤巻翠だ。
「質問があるのですがよろしいでしょうか」
「ん、言ってみなさい」
彼女は絵に描いたようなブロンドの髪をかきあげ、
「どうして我々――Level3以上の生徒が集まったクラスの授業を、超人化手術も受けていないあなたが教えているのでしょうか」
また始まった。
クラスの中心人物である翠の言葉にクラスメイトたちが無言で賛同する。教室の端の席で美咲があちゃーといった表情を浮かべているのが見えた。
「別に決めたのは俺じゃないよ。意見があるなら教頭か校長にでも言えばいいよ」
「ッ、坂下教頭と周防校長に意見など畏れ多い……!」
「そうだね、教頭と校長は俺とは比べられないくらい偉大な先生だ」
一呼吸置いてから俺は言った。「そして君たちのクラスを担当するよう俺に言ったのは校長だ。この意味が聡明な君たちなら分かるね?」
「ッ……!」
翠にはたまにこうしてくだらないことで突っかかってくることがある。学力は優秀、魔力素養も高い彼女がどうしてこんな幼稚な真似をするのか。俺にはさっぱり理解できなかった。
「それはバカにしている先生に下に見られているのが我慢ならないからですよ」
昼休み。なぜかほぼ毎日俺のいる社会の教材室にやってくる美咲は、今日もいつも通り指定席で寛いでいた。
「下に見てる? 俺が? とんだ思い違いをしてるなあ」
「私たちからはそう見えるんだよ。先生って基本無表情だし、声は冷たいし。実験鼠の相手をしているみたい」
「実験用の鼠に話しかける時点で、かなり心の温かい人だと思うけど」俺はその光景を想像して言った。
「もう、そういう冷静な切り返しをしてくるところだよ。先生が敵を多く作る理由」
志穂は溜息を吐いた。俺は俺で仰天だ。「それじゃあ君たちは俺の敵なのか」
「少なくとも敵愾心は持ってるでしょうね」当たり前だと言わんばかりに美咲は言う。地球は一日に一回転しているのと同じですよ、と続けそうなほどに。
「先生に私たちが敵愾心を持ってるのは、黒い粒から銀の雫が降ることくらいクラスでは常識です」
「それはふしぎだね」
予想は外れたが意外にも風情のある答えが返ってきたのである程度満足する。
他への関心が薄いため、こうして話の途中で勝手に満足して話題を終えることは大人になってから出来た悪癖の一つだった。
「勝手に満足してるし……まあいいですけど」
「……いや」一拍おいて俺は頭に浮かんだ疑問を美咲にぶつけた。「美咲は生徒だよね」
「もちろん。あなたの生徒です」こちらを見ずに美咲は首肯する。
「で、君のクラスの生徒たちは俺に敵愾心を抱いている」
「はい、相違ありません」美咲はぼんやりと棚に押し込められた備品を眺めている。
「じゃあ」俺は頬杖を突いて尋ねた。「君はどうして俺の所にいつも来るんだ?」
美咲の視線が初めてこちらに向いた。
直後に、信じられないものを見るかのような目で俺を見た。
「先生って、他のものは見えるのに、肝心なものは全然見えてないんですね」
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