運命の日~小学生~ 2
異変が起こり始めたのは僕たちが六年生になり、ちょうど一月が過ぎようかという頃だった。
その日、勇人と志穂の三人で下校している途中、奇妙な生き物を見つけた
「ねえ、あれ何かしら?」
志穂の指さした方を見れば、こちらに背を向ける格好で道路の真ん中に寝そべる生き物の姿があった。大きさはネコくらいで、体毛は青みがかった黒色だった。
「捨て猫じゃないかな。最近はエサ代もバカにならないっていうし」
体格から勇人も僕と同じことを考えたようだ。その言葉を聞いて志穂は頬を膨らませた。「なによそれ、最後まで責任を持てないのに飼うべきじゃないわ」
「それはごもっとだけど、世の中、君みたいに後先を考えて生きる人ばかりじゃないないんじゃないかな」
「かもね。ふん、嫌な世の中だわ」
志穂は鼻を鳴らすと、左右から車が来ていないことを確認し、道路へと躍り出た。
「助けるつもりかい?」
「歩道まで戻すだけよ。あそこにいたら轢かれるのを待つだけだわ」
僕らが制止する間もなく道路の中央まで行った志穂は、後ろから抱えるように身をかがめ――そのまま凍り付いた。
「?」
あんな場所で止まっていれば危ないなんて誰にでも分かる。僕と勇人も志穂の元まで駆けつける。
「こんなところで止まってたら危ないぞ。一体どうした」
「……前言撤回。これなら飼えなくても仕方ないかもね」
「どういうこと?」
「見て、これ」
怪訝に思い、僕と勇人は同時にその動物の正面に回り込み、息をのんだ。
それは猫というよりは狐だった。全体的に逆立った毛並み、猫よりもとがった耳、しかし何よりも本来ある場所にあるはずの目が四つ並んでいたことが僕たちの度肝を抜いた。
「ヴゥ……」
そして、血肉を詰め込んだような純血の瞳を向けたその生物は、僕らに向けて唸った。
「シャアアア!」
「うわ!」
その生物が飛び掛かってきたとき、驚きながらも咄嗟に体が動いたのはまさに父との鍛錬の賜物か。
全身をバネのようにしならせ飛び掛かってきたソレを躱し、すれ違いざまに手刀で切り裂いた。
空中で青い血を振り撒き、そのままソレは再び地面に倒れた。時折痙攣は起こしているが、もう襲い掛かってくる元気はないようだ。
「正人くん! 何もそこまで――」
「ごめん。でも、ボロボロだからって油断していい相手じゃなかったと思うよ。こいつ、たぶん“リンデクス”だ」
「リンデクスって、まさかあの……!」
普段、師範である父から話を聞いている勇人が反応し、僕もうなずく。恐らく目の前のこいつは、父がいつも人間の常識を越えた化け物として話すリンデクスそのものだ。
とはいえ、僕でも倒せたくらいなのだから、こいつは相当弱っているうえ、種としても貧弱だったのだろう。リンデクスと一概に言っても、その個体の強さはまちまちであり、僕たちが遭遇したこいつはまだ幼年期だったということだろう。
本来ならば弾丸に穿たれ、銃剣で刺しぬかれても即座に再生すると言われている化け物だ。子供である僕程度で倒せたのは本当に運が良かった。
とはいえ、それは僕と勇人に限った話で、それを間近で見ていた志穂は烈火のごとく怒った。
「ちょっと正人くん。怪我をしている動物に何てことするのよ!」
「え! い、いやこれは違うんだ志穂!」
「言い訳は聞きたくないわ! 正人君、いくら向こうから襲ってきたからってこの仕打ちはあんまりだわ。この子はただ、何もかもが分からず怖かっただけなのよ」
「「ちょ……」」
僕と勇人が静止する間もなく、志穂は車道に倒れる小さな怪物を抱き上げた。
僕らが声のない悲鳴を上げる中、彼女は抱きかかえたリンデクスを赤ん坊のように優しく、寝かしつけるようにあやした。
「~~~~~♪」
「あ……」
それはまるで魔法だった。
それまで重症ながらも警戒心を露わにしていたリンデクスは、やがて子供のように眠りについた。赤い四つの瞳が閉ざされる。その姿だけを見れば、そこらへんの狐と全く違いがなかった。
「ほら、もう疲れて寝ちゃったみたい」
「ほんとだ……」
志穂の言う通り、彼女の胸の中でリンデクスは穏やかな寝息を立てていた。父に散々脅されたあの怪物が、だ。
さらにそこで志穂は驚きの言葉をつづけた。
「きっと道に迷ってこんな街中まで迷い込んでしまったのよ。どうにか外にかえせたらいいのだけれど」
「ちょ、四級地区まで連れて行く気かい!」
「それはさすがに難しいわ。私たちのような子供が特に用もなく外壁の方まで行くのは難しいから。でも、そうね……何か他の方法を考えなくちゃね」
「おいおい……」
僕は半ば呆れから乾いた笑いを漏らした。普段は他人の行動なんて全く興味はないのだが、今回ばかりは事情は違った。なにせ彼女は、明らかに僕たちのことも頭数に入れていたのだから。
「しょうがないからしばらくは向こうの公園で飼いましょう。でもその前にまずは傷の手当をしないと。そこの加害者さん、ここらへんに動物病院ってなかったかしら」
「ソレを診てくれる病院なんてないと思うよ」
「それじゃあ加害者さんの家に行きましょ。この時間ならお父さんはお仕事に行っているだろうし、道場を経営しているんだもの、家に救急箱くらいはあるでしょう?」
「……分かったから、その加害者さんっていうのやめてくれないかな」
「ふふっ、ありがと、葉村くん!」
「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも。それを助けるって本気なの!?」
常識人である勇人の言葉に志穂は唇を尖らせる。「失礼ね。相馬くんまでエリーをソレ呼ばわり?」
「エリーって……」
「この子のニックネームよ。フルネームはエリザベスだけど長いからエリー」
「ずいぶん大仰な名前だね」
野良に付けるにはずいぶんな立派な名前だ。
「いや、名前はなんでもいいんだよ! それより、その子を助けるって話だ。さっきのソイツの目」
「エリー」
即座に志穂が指摘した。
「ああもう……エリーの目を見ただろ! 黒目もない赤い瞳、しかもそれが四つだ! 間違いなく普通の狐じゃない」
勇人は大きな呼吸を一つ置き、静かに言った。「リンデクスだよ、そいつは」
一瞬、三人の間に沈黙が訪れた。それを破ったのはやはり志穂の一言だった。
「だから、エリーね、勇人くん。何度も言わせないでもらえる?」
「だから名前はなんでもいいんだって!」
「そんなことより、早く歩道に戻りましょ。いつまでもここにいちゃ危ないわ」
そのまますたこら先に行ってしまう志穂の背中を追いかけると、勇人が隣に来て小声で言う。
「正人、お前も志穂を止めてくれよ。絶対にこれはマズイって」
「うーん、でも志穂は一度言ったことはやめないからなぁ」
「今回ばっかりはそんなのんびりしたこと言ってられないだろ! お前だってリンデクスの危険さは授業で散々聞かされただろ」
授業どころか家に帰れば散々父からそれは聞かされていた。それこそ、授業なんかとは比べようもないほど生々しく、救いようのない話だ。一緒にいた母が「食事中はやめてください!」と珍しく本気で怒ったくらいだ。
「とはいえ、やっぱり志穂を説得できるとは思えないけどね。やるだけやってみようか」
「ああ、頼む!」
ただ、やはりというかその後、志穂を説得することはできず、結局最初の志穂の提案通り近くの公園でこっそり飼うことになった。
救急箱を母から借りる際には「野良猫を助けるため」という名目にしたわけだが、母は特に怪しんだりはせず、「家で飼うことはできないが、好きなようにやってみなさい。ただし最後まで責任は持つこと」と背中を押してくれた。今にして思えば、それまでの僕は父から戦闘技術のみを教わり、ただひたすら相手を傷つける技術ばかりを磨いていた。そんな僕が初めて他者を慈しむ行動をとったのだ。特に軍人でもないごく一般の母にとってそれは嬉しいことだったのだろう。
とはいえ、母には悪いがそのときの僕にとってリンデクスを助けることはただの成り行きでしかなく、強いて言うなら志穂がしたいということに協力できることが僅かにうれしかったくらいだろうか。勇人は頭を抱えていたが、リンデクス――エリーが回復し、徐々に僕たちに心を開き始めたころには文句を言わなくなった。
そしてこの出来事で僕にも一つ発見があった。それは、リンデクスが人間に懐いたということだ。父にこれについてそれとなく聞いてみると、予想通りの堅い答えが返ってきた。
「リンデクスと人間が和解? そんなことは絶対にありえん」
父の書斎で(このころには父は昇進して家はそれなりに裕福になっていた)話を聞いていた僕は、慎重に食い下がった。
「でもさ、人間を殺す熊やライオンだって、中には人間に慣れて動物園にいるのだっているよね。それなら、リンデクスの中にもそういう個体がいたっておかしくないと思ったんだけど」
「お前、最近動物園か何かに行ったのか……?」
なぜそんな質問をする、とばかりに懐疑的なまなざしを向けてきたが、それには気が付かないフリをしてやり過ごす。昔から考えることを悟らせないことには自信があった。
「まあいい。その質問の答えだが、確かに、世界中を探せばそういう個体がいるかもしれんし、それは否定しない。だがな、これから戦場に出たとき、そんな考えは一切捨てろ。人間のことを考える優しいリンデクスってのは、そもそも俺たちの前に姿を出さない奴なんだよ」
父の言葉に納得した。確かに、その通りかもしれない。
「それよりもお前の話だ。今年度もお前も小学校を卒業するわけだがな……」
そこで一度黙る。父にしては珍しく歯切れが悪い。それだけ言いづらい内容だということだろうか。
「お前……軍学校に通わないか?」
「……は?」
ようやく絞り出された父の言葉は、しかし僕の予想の斜め上をいくものだった。
「その、なんだ、お前が最近勇人意外にも友達が出来て、学校を楽しんでいるのは知っている。だが、将来もし、軍属になるのなら、俺の方から話を通して色々便宜を図ることができる。もちろん、お前を甘やかすつもりはないし、そればかりを頼りにするのも言語道断だ。だが、仮にお前がもし、本当に救いたい、護りたい存在が出来た時、役に立つはずだ。だが、そのためにはまず最低でも軍学校を卒業しておかねばならなくてな……」
いつもの父からは考えられないほどモゴモゴとした言葉。そこには軍人でも師範でもない、どこにでもいる不器用な父親の姿があった。
「……ははっ、なに今更言ってるの」
「お前の人生にとって大切な選択だ。今更だろうが確認は必要だろう」
「父さんってもっと勝手な人だと思ってたよ」
「なにを……俺はだな――――」
「いくよ、軍学校」
父の言葉を遮り、僕は言った。瞠目する父に僕はあきれ顔を作る。
「準備なんて父さんに道場を連れてかれた時にとっくに済ませてあるよ。むしろ軍人への道筋を示してくれるなら感謝するくらいさ」
「お前……しかし、良いのか? ここで軍学校へ行くと決めてしまえば、お前は本当に“その道”を選ぶことになるんだぞ。俺のことは一度忘れていい。だから改めて――――」
「軍人は即断即決。父さんが教えてくれた言葉だ。でしょ?」
「……フッ、生意気言いやがる」
父がこれほどうれしそうに笑ったのを、僕は後にも先にも知らない。ただ、自分の選択を父が喜んでくれたことは僕にとってもうれしかった。
「軍学校は三年生だったよね。十五で下士官になって、三十には父さんの右腕になってあげるよ」
「はっ、軍で武功を上げるのはそんな簡単じゃねえぞ」
「そこは父さんが賄賂か何かでうまくやってよ」
「はっ、馬鹿野郎が!」
そうして珍しく上機嫌な父は僕の頭をはたいた。僕も思わず口元が綻ぶ。
この日交わした約束が果たされない未来など、僕も父も、全く想像できなかった。
読んでいただきありがとうございます。




