爽快な朝
その日は久しぶりによく眠れた。
目を覚ませば、脳が覚醒する心地良い感覚とともに体全身に充溢した気が流れているのを感じる。良質な睡眠を取れたことに体の全てが喜んでいるようだった。
俺だって人間だから悩み事の一つや二つはあるし、それをどうすれば解決できるだろうと四苦八苦することもある。それは例えるなら細かく仕切られた箱庭から脱出するために出口を探すようなものだ。だが、その箱庭には出口がある保証すらない。そんな悪夢のような小さな世界の中で、俺は小人となって出口を探すのだ。こればかりは幾ら歳を重ねても避けては通れないことだ。
しかし、同時に俺は「考えてもしょうがないことを悩むこと」について圧倒的な耐性を持っていた。つまり、考えても仕方ないことについて全く考えないようにすることができるのだ。別に鍛錬して身に付けたものでもない。生まれたときから自然に備わっていた一種の才能だった。この才能によって俺のストレスは常人の半分以下になっていると思う。もしこの力がなければ、今日の朝、世界はもっと暗く、湿ったものになっていただろう。
昨日川へ流した平岸萌のことはもちろん頭には残っていたが、それが他の人間に発見されないかなどの不安はなかった。より正しく言えば、未だに懸念材料ではあったが、不安になって精神に支障を与えることでは既になくなっていた。やれるだけのことはやった。あとは見つかるかどうか時の運次第だ。それをずっと不安に思っていること非生産的なことはない。今はただ一仕事終えた解放感に身を預けようじゃないか。
そんな気持ちで朝を迎えたわけだが、出勤の時間までコーヒーを飲み、本を読んでいるだけで気持ちは驚くほど穏やかになっていた。顔を洗う時に鏡を見たが、顔色も思った以上に良い。やはり健康体を維持するためにはメンタル面も健康でいなければならないということか。
その日の朝の学校の連絡は特に特筆すべきことは何もなかった。リンデクスが壁を食い破って街中に侵攻したという話もなければ、壁際の下流に一人の少女の遺体が発見されたということもなかった。ただ学年団で、今日はA組の平岸萌から連絡はない、おそらく欠席だろうという話が、まるでお菓子の付属品の玩具のような扱いで話された。その話を聞いても俺は表情を変えなかった。たとえここで話が出たとしても自分にすべき行動はない。むしろ無用の動揺は周りから怪しまれる。今はこうして知らぬ存ぜぬを突き通すしかないのだと。
だからこそ俺のその日の一日は周りから特にいつもと変わらぬ一日に見えただろう。いつも通り授業は無人のような静けさだったし、高遠や金木からも特に変わった声かけはなかった。ただ一言、美咲だけが「今日は平岸さん、休みみたいですね」と独り言ともつかない声を漏らしただけだった。その言葉に俺が上手く応えられていたかどうかは美咲にしか分からないことだ。考えても仕方がない。
それから数日はまさに俺が夢見た理想的な職場がそこにあった。
翠は学校で難癖をつけてくるのをやめた。萌が行方不明だと校内で公表されてからは度々学校を休むようになり、出席しても、授業中はぼーっと空を眺めていることが多くなった。大人びた、というよりはそれは年老いた媼を彷彿とさせた。体は長年酷使してきたせいで動かなくなり、一日中空を見ながらぼんやりと過ごし、自分の寿命の終わりが来るのを待っているかのように彼女は空を眺めていた。そんな彼女に話しかけられるのはもう葵くらいで、他の生徒は明らかに様子がおかしい彼女を遠くから腫れ物のように傍観していた。
彼女が大人しくなれば、俺の学校でのストレスの大部分が消失したといっても良い。厳密に言うと消失したわけではなく、彼女はまだ学校にいるので、この平穏もあくまで一時的なものだという可能性もあるが、それでもこの静かなひと時は知らずのうちに摩耗していたらしい俺の心をそれなりに回復させた。
「最近、陰鬱な雰囲気が消えたね」
「そうですか?」
ある日、金木にそう言われ、俺は表情を幾分暗くした。自分と少なからず接点のあった生徒が行方不明になっているのに、明るい雰囲気になったとなれば、他の人間にあらぬ疑いを(あらぬどころかその逆なのだが)かけられる恐れがあると思ったからだったが、その反応で金木はさらに笑みを深めた。
「うそだよ。その反応、やっぱり今回の騒動は君が黒幕か」
「ちょ、こんなところでそんな不謹慎な冗談言わないでくださいよ。生徒に訊かれたらどうするんです」
あくまで先輩教員の質の悪い冗談に聞こえるように俺が言うと、彼は愉快そうに笑った。
「うれしいよ。僕と近しい人間と同じ職場になれるなんて。これからはお互い有事の際は協力していこう」
有事のときなんてあんたが何かしたときに決まってるだろ。
彼の背中にそう言ってやりたかったが、残念ながら今の俺が言っても説得力は皆無だった。
だが、それから――平岸萌が失踪してから――ちょうど二週間後、早くもその有事の際というのがやってくるとは思いもしなかった。
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