悪の種子 4
「……誰、あんた」
俺が目の前で立ち止まると、萌は娘の結婚相手を値踏みする母親のような目で俺の顔、そして体を一瞥した。顔を見られたときだけは少し緊張したが、やがて彼女が破顔したので小さく息を吐いた。
「ん、おっけ! お兄さんなら大丈夫だよ。どれくらい?」
言葉足らずではあったが、それがこの性交にいくら出せるのか、という意味だということは流石に分かった。
俺が黙ってパーの形で出すと(声を出せば流石にばれるだろう)、彼女は口笛を吹くように口の端を曲げ、それから餌を求める狡猾な猫のように態度が目に見えて変わった。
「十分! それじゃ、いこっか」
俺は頷くと、事前に調べておいたホテルへと移動した。
教師というものは多忙を極める仕事だ。プライベートの時間は短く、必然的に異性と交際する機会は減り、交際していても一緒に遊びに出かけることなども少ない。
萌とホテルの部屋に入った時、いきなり彼女は俺に唇を押し付けてきた。年齢とは不釣り合いに彼女の舌が軟体動物のように俺の口をノックしたときは「少しくらいならいいか」と誘惑に負けそうになったが、すぐに理性がそれを制止した。性交は余計な証拠を残し過ぎる。一時の生理欲求で捕まるなどバカバカしい。
「? シャワーからがよかった?」
ノッてこない俺を不思議そうに下から見上げてくる萌。近くで見ると、平岸萌という少女はなかなか愛らしい顔立ちをしていた。潤いのある肌に少し眠そうな目元。ツンと尖った鼻に薄く光る唇。自分の魅力というのを理解したうえで化粧しているのだろう。今の彼女の表情はなかなか魅力的だった。
だから、せめて美しい表情のままで時を止めてあげることにした。
「……え?」
まるでマイクの音を途中で切られたかのように、平岸萌の断末魔は短く、そしてあっけなかった。
彼女の頭を両腕で抱いた俺は、次の瞬間勢いよく頭をねじった。石臼で骨を磨り潰すような音が聞こえ、萌の頭があらぬ方向に曲がった。それで終わりだった。
ゆっくりと手を離すと、彼女はしなだれかかるように俺に体をゆだねた。まるで愛する夫に全てを委ねるかのように。しかし、そこに生気のようなものが全く感じられなかった。あるのは不自然なまでに脱力した彼女の体と、術後の医師のように用心深く彼女の体を安置する俺の冷たい心だけだった。
俺は先ほどとは変わりない、しかし確実に命の温かみを失った萌の体を床に寝かせると、大きく息を吐いた。まるで、一分のミスも許されない人間では到底なしえないような困難なオペをやりきったような気持ちだった。もちろん、その作業は俺にとってそれほど難しいものではなかったし、やっていること自体はその真逆だったのだが。
彼女を違う世界に送り込むと、俺はたばこを一本ふかせた。特段にきつい、ヘビースモーカーが好んで吸うようなやつだ――――
何度人を殺しても、行為の後というのは決まって神経が昂った。性行為を行った相手が、誰であろうと行為の直後には多少の愛情が湧くように。
その時間、つまり殺人を犯して神経が昂っている間はまともな思考が出来ないというのが俺の考えだった。だからこそ、人殺しをしたとはたばこを一本吸う。その時間で俺の精神はこの世に帰還を果たし、いつもと同じような思考をすることが出来るのだ。
たばこを一本吸い終えると、長距離走で酸素が回ってないみたいだった脳はある程度マシになっているように思われた。それから俺は部屋内に彼女の指紋だけを残し、残りをきれいに拭き取った。
彼女が持っていたものは、そのまま彼女と一緒に持ち帰る。ここに下手に残していくより、堂々と彼女と一緒に外を持ち歩いた方が数倍良いように思えた。
すぐに出ると不自然なので、チェックアウト時間十分前まで室内にいると、その後は萌を背負って部屋を出た。事前にそのホテルのフロントは無人だと分かっていたので、特に臆することはなかった。
ホテルを出ると、俺はなるべく酔いつぶれた女を家まで送り届けているような男を演じたが、それが堂に入っていたのか三問芝居だったのかは全く分からなかった。なにしろ、俺にはそういう経験というものが全くと言っていいほどなかったからだ。ただ、俺は彼女を背負ったまま誰に声を掛けられることなく、目的の地点まで向かうことが出来た。
俺がそのホテルからそこに着くまでにはおよそ小一時間かかった。
そこは静かな小川が流れる、畑の区画の一部だった。
俺は背負っていた萌を自分の半身であるかのように優しく抱えると、ゆっくりとその小川に流した。
彼女は、前髪や鼻先、下腹部以外を水面の下に沈めながらも、そのまま下流に向かって流れていった。
どうか、彼女の体が人間に見つかることなく流れ着きますように。遥か向こうにそびえたつ波動障壁と、その奥につながるリンデクスの居住区域を想いながら、俺はもう一本たばこに火をつけた。
読んでいただきありがとうございます。




