悪の種子 1
「それにしても葉村先生の噂は本当だったんですなあ!」
その日の夜、俺は上機嫌の高遠に連れられて居酒屋に来ていた。
店は学校からほど近い『せいす』。先日金木と来たばかりの店で、見知った店員からは苦笑いで出迎えられた。
俺はビールを含み、喉を潤してから高遠に尋ねた。
「噂、というのは?」
「おや、先生自身の耳には入っていませんかな?」
高遠が赤ら顔で笑う。今日知ったのだが、彼は酒を飲むとよく笑う。今日の高遠を見れば超人科の生徒は言葉を失うだろう。それを表現する慣用句をビールで脳を覚醒させながら考える。思い出した。青天の霹靂だ。
「いやね、先生が実は武術の達人だという話を職員室で聞きましてね。正直、最初は俄かには信じられなかったのですがね……」
言葉尻を焼酎とともに呑み込み、高遠は熱い息を吐いた。「良い意味で予想外でした」
俺は黙っていた。返す適切な言葉が思いつかなかったのだ。刹那に生じた沈黙を、高遠は悪い方に捉えたらしく、少し罰の悪そうな顔をした。「気を悪くしましたか?」
「いいえ、当然だと思いますよ。なんと言葉を返せばいいか迷ってしまって……俺にはよくこういうことがあるんです」
すみません、と頭を下げると、高遠は恐縮したように慌てて首を振った。本当に、学校にいるときとは別人みたいだ。
「別に謝ることはありません。しかし意外ですな。こういってはなんですが、先生はもっとこう、どんなことでもすらすらと言葉に出来る人だと思っていましたから」
「そんなことはないです。むしろ逆の方が多いです。頭の中で色々なことを考えているうちに段々と色々なものがこんがらがって、結局大事なことが見えなくなってしまうんです」
話しながら俺は、昼間の歯車の仕掛けを思い出した。俺の思考はまさにそれと一緒だ。一番伝えたい部分を届けるために、大小様々な歯車を使うのだが、それらは上手く噛み合わず、あるいはてんで違う方向に転がっていってしまい、気づけば伝えたかったものは歯車の錆となって消えてしまうのだ。
「そういう意味では、むしろ高遠先生の方が羨ましいです」
「私が、ですか?」
「ええ」
「そりゃまたどうして」
「思ったことをなんでも言葉に出来そうじゃないですか」
それから「こう言ってはなんですけど」と付け加えた。
高遠は、まるでドッペルゲンガーを見たかのような顔になると、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「やっぱり俺から見れば、葉村先生の方がよっぽどそう見えますよ」
「自分の場合、どうでもいいことはすぐに出てくるんです。底に穴の開いたペットボトルみたいに。ただ」
「大事なものは出てこないわけですな」
高遠が焼酎を呷る。心なしか、彼の周囲の空気が透き通ったような気がした。
「……これは話すつもりはなかったのですが」
高遠は一つ間を置いてそう切り出した。「超人科の生徒間で葉村先生を中傷するような麻植が一部の生徒から上がっています」
「ええ」俺はうなずいた。「存じています」
「今日の格闘術も、先生に指南役をお願いすれば、少しは態度も変わるかと思ったんですが」
高遠はおみくじに外れたような顔をした。「悪い意味で変わりましたな」
「恐らく、その俺を快く思わない生徒の中心にいるのは翠ですよね」
思い切って俺は話の核心部分に迫った。
「はい。だからこそ最初に藤巻を当てたんですがね……」
流石は一年生の中でも選りすぐりの超人といったところだろう。俺に負かされても折れないどころか死角外からのアッパーショットをお見舞いしてきたくらいだ。
「良くも悪くも、藤巻は他生徒への影響が強い。先生の力を知れば、少しは奴らも大人しくなるかと思ったのですが……やはり歳ですかね。今の生徒の実態を俺は把握できていませんでした。申し訳ない」
テーブルに額がつきそうなほどに頭を下げる高遠を見て、彼がこのために今日俺を食事に誘ったのだと悟った。勝手にお節介をして俺を助けようとし、逆にそのせいで生徒の俺に対する心証を悪くしてしまった高遠。特に俺は気にしていなかったのだが、これならば俺の質問にも正直に答えてくるな、と思った。
「頭をあげてください、高遠先生。自分は何も気にしていませんから」
なかなか頭をあげようとしない高遠に、俺は本命を持ちかける。
「それでしたら高遠先生。もしも今日のことを気にしていらっしゃるのでしたら、謝罪の代わりに教えていただきたいことがあります」
「教えて欲しいこと?」
「はい」
ようやく顔をあげた高遠に俺は言った。
「自分もどうにかして翠とは仲良くしたいと考えています。ですから、先生に翠のことを教えてほしいんです。どんな些細なことでも構いません。彼女の人となりを知れたら、もしかするとこの状況を打開できるかも知れませんから――」
高校生のとき、ちょっとした事件があった。
当時は中学のときほど内向的ではないにせよ、未だに自分の殻にこもる人間だった俺は、当たり前だが周りの同級生と馬が合わず、孤独な日々を送っていた。
だが、着実に大人への階段を上っていた俺は、生きていくうえで他者とのかかわりあいが必要不可欠であることを自覚せざるを得なかった。だからリハビリというか、徐々に周囲に溶け込めるように、少しずつだが会話をするよう心掛けていた。
そんなときだ。湿った空気がようやく重い腰を上げどこかへと旅に出て、入道雲が空のはるか遠くからゆっくりと近づいてくる。そんな初夏に彼は俺に近づいてきた。
「“虐殺鬼”の息子がよくこんなとこで普通に学校通ってるよな?」
当時二年生だった俺の先輩だったので、彼は三年生だった。今勤務しているような超人科のある学校ではない、どちらかといえば偏差値が低めの子供が集まる高校において、彼は道路で干からびたミミズのようにありふれた不良生徒の一人だった。
「知ってるぜ。お前の父親、昔この街で化け物どもを呼び込んだ張本人なんだろ? なんでそんな奴が普通に暮らせてるかは知らねえけど、俺が言いふらしたらどうなるかなー」
自分の父について知っている同年代の人間とそれまで会ったことがほとんどなかったので、まだ子供と呼べる年齢だった俺は面食らった。路上に捨てられたガムのような話し方をする先輩は、馴れ馴れしく俺に肩を組んできた。
「三日やる。とりあえず五〇万、用意しろ。普通の高校に通えてんだ。それくらいの金は家にあんだろ」
もちろん、先輩の言う通りそれが「とりあえず」であることは明らかだった。俺は沈んだ調子で頷き、帰路についた。どうすればいいのか、俺にはすっかり分からなかった。
母は既に昔の理知性を失い、失意に沈むばかりだったし、祖父は丁度用事があって街を離れていた。だからといって他に頼れるあてもない。初めて酒を飲んだのもそのときだ。ワンカップの酒は苦く、胸に泥のような不快感を与えるばかりで事態は一向に改善しなかった。
結果からいえば、俺はお金も払わなかったし、彼に父親のことを流布されることもなかった。
公園で頭を悩ませていたところに、偶然昔の先生が通りかかったのだ。いや、それが本当に偶然なのかどうかは今となっては分からない。しかし、まだ高校生であるはずの俺が公園で項垂れながらワンカップを呷っている様子は尋常ではないと察したのだろう。先生は何か悩みがあればきくよ、と優しく、そして安心するほほえみを浮かべ、どうしようもなくなっていた俺はあるがままを彼に相談した。
彼は全てを黙って聞いてくれていた。それからゆっくりと、穏やかにこう言った。
「なら、その彼にいなくなってもらえば全て解決するね」
実際、その通りだった。
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