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 また一度(ひとたび)、砂の飛沫が上がった。

 砂の牢獄の壁面に着地したアリスは、不安定な足場に苛つきながら前方を睨みつける。


「アリジゴクは後方にしか進めないと本で読んだ気がするのだけど。まぁ、上位種(ストゥーム)に常識は通じないか」


 アリスがそう呟いた刹那、アリスがいるのとは反対側の壁面が大きく盛り上がったかと思うと、大顎を開いた上位種(ストゥーム)が凄まじい勢いで飛び出してきた。

 アリスの細い体など容易に両断出来そうな鋏の間には、本来ならあるであろう口腔ではなく薄灰色の眼球が鎮座している。



「くっ!」


 咄嗟にその場を飛び退くと、アリスのいた場所めがけて上位種(ストゥーム)が突っ込んだ。

 高く上がった砂の柱を見上げつつ、再び別の壁面に着地したアリスは顔を大いにしかめる。


「砂地から出たり入ったり、戦いにくいったらありゃしない。どんな能力かもまだわからないのに!」

「アリス様!」

「ん、メイ?」


 アリスが声の方を振り仰ぐと、樹上に居たはずのメイの姿が無い。


「メイッ!?」


 そのことに気づいたアリスが狼狽の声を上げたのとほぼ同時に、


「受け取って、くださいっ!」


 どこかからメイの声が聞こえてきたかと思うと、アリスの頭上に大きな影がさした。

 見上げると、そこには空中に浮いた狼型の低位種(シュヴァム)の姿。

 アリスがメイの投げ入れた低位種(シュヴァム)をその細いはずの両腕でしっかり受け止めると、砂の(ふち)から二つの黒い三角耳がちらりと見えた。


「これを囮にっ」

「なーるほど、これであの夜獣(ナハティエ)の能力を看破すればいいわけね」

「いやあのっ」

「ありがとメイ、でも危ないから下がっててね」


 アリスは逃げ出そうとした低位種(シュヴァム)の首を即座にへし折ると、その体をしっかり抱きかかえて真正面にまたしても巻き上がりつつある砂塵を見据える。


「さあ、おいでなさい」


 アリスの声に応えるように、重い地響きを伴って再度アリジゴクの上位種(ストゥーム)が出現した。


「ハァッ!!」


 アリスは上位種(ストゥーム)の鋏のちょうど中間に低位種(シュヴァム)を放り投げると、後に続く形で砂を蹴る。

 空中の低位種(シュヴァム)を踏み台にして軽やかに上位種(ストゥーム)を飛び越えたアリスは、天地逆転した状況に臆すこともなく冷静に目を凝らした。


「さぁ、貴方がどんな力を持っているのか。

とくと私に見せてごらんなさい?」


 しかし、アリスの予想に反して、上位種(ストゥーム)は勢いそのままに低位種(シュヴァム)ごと体を砂面に叩きつける。

 そして、何事もなかったかのように砂中へと潜っていく上位種(ストゥーム)を見て、アリスは眉をひそめた。


「……これは、中々に難しいわね」


 今度は砂ではなく地面へと着地すると、アリスはその場に座り込んで腕組みをし始める。


「あの一瞬で見えた情報を整理しても、完璧に能力を把握できるわけじゃない。場合によっては、私の命運はこの晩に尽きることになるわけなのだけれど」

「アリス樣! ご冗談でもそのようなことは!」

「分かってるわよメイ! 私だって、そんなことになる気はさらさらないもの。まぁ、今のところ勝算も無いのだけれど……」


 そう言ってため息をつくアリスの顔には、たった今命のやり取りをしている最中の者が浮かべるであろう緊迫感や死への恐怖といった感情は一欠片も見当たらず、ただ難題を前に頭を振り絞る学徒のような表情のみが現れている。


上位種(ストゥーム)の姿に隠れて衝突の瞬間が見えなかったのはかなりの痛手よね。

せめて低位種(シュヴァム)の残骸でも残っていれば」


 そこまで呟いたところで、アリスは弾かれたように顔を上げ、目線を上位種(ストゥーム)がつい先程突入した場所に向けた。


「……低位種(シュヴァム)は轢断された筈、よね」


 そう言いながら、アリスは砂地の斜面に視線を巡らせる。

 しかし、どれだけ注意深く観察してみても、低位種(シュヴァム)の死骸どころか血の一滴すらその周辺に残されてはいなかった。


「はーん? ざっくりとだけど、能力が掴めたかもしれないわねぇ」


 アリスは好戦的な笑みを浮かべると、立ち上がってドレスの裾をはたく。

 それまで戦っていた時とは打って変わった悠長な行動だが、上位種(ストゥーム)がアリスに攻撃を仕掛けてくる様子はない。


「やっぱり、自分の陣地に入ってくる獲物以外にはまるで興味を示さないのね。

実物のアリジゴクもそうなのかしら?

本にはそこまで詳しくはかいてなかったけれど」


 そこでふっ、と顔に浮かべていた笑みを消し、アリスは脚に力を込め跳躍の姿勢をとった。


「兎にも角にも、あんまり()()森を荒らしてもらっちゃあ困るの。

厄介者にはご退場頂こうかしら」


 アリスは高く飛び上がると、砂の中心にあらかじめ拾っておいた小石を投げ放つ。

 すると、アリスが予期していた通り、小石が落ちた場所から轟音とともに砂が沸き立ち、ほぼ垂直に上位種(ストゥーム)が飛び出してきた。


「耳や目じゃなく触覚で獲物を判別するのも予想通り。

最初の一回以降に私を直接下から狙わなかったのは、躱されたことを学習してのことなのかしら?

……まぁ、もうそんなことはどうだっていいのだけれど」


 それだけを呟くと、アリスはそのまま重力に従って落下し始めた。

 対する上位種(ストゥーム)も、アリスが降ってくることに気づいたのか垂直の姿勢のまま鋏を開いた。このままアリスが近づけば、ちょうど鋏で迎撃できる寸法である。

 ――しかし、その鋏が再び交差することはなかった。


「カシュッ!!?」


 上位種(ストゥーム)が、驚きの感情がこもった叫び声をあげる。それもその筈だろう、二本の鋏はアリスの体に触れる少し手前で動きを止めていたのだから。


 これがアリスの能力(ちから)

 アリスはある『条件』を満たした者の血液を摂取する事で、一定時間大幅に身体能力が増強されるだけでなく、任意の物体をその場に静止させる魔法じみた芸当も出来るようになるのだ。


 そして、その能力によって大顎を固定された上位種(ストゥーム)は、完全に無防備な状態でアリスを迎え入れることになる。


「――おやすみなさい、良い夢を」


 落下しながら脚を下に向けた姿勢をとっていたアリスは、落下の勢いそのままで上位種(ストゥーム)の眼球に突撃した。


「ギュィィイイイイ!!!」

「あら、ここが『心臓』だったかしら?」


 ぞぶり、と膝上まで沈ませた脚をすぐさま引き抜き、アリスは下の砂地に飛び降りる。

 背後を振り仰ぐと、眼球を貫かれた上位種(ストゥーム)はしばし痙攣したのちアリスのいる方向へ倒れてきた。それが偶然ではなく上位種(ストゥーム)の意図した行為であることをアリスはすぐに見抜き、体を逸らして回避する。

 すると上位種(ストゥーム)は続けざまに、完全に倒れ伏す直前で頭を振り、致命傷を負ったとは思えない程の正確さで顎の部分をアリスに叩きつけてきた。


「あら、往生際の悪いこと」

「キシキシキシ……」


 アリスは特に焦る様子もなく、血潮の如き紅い瞳で()()()()()()上位種(ストゥーム)の顎を凝視した。

 自身の最期の一撃が何も無い空間に受け止められたのを認識した上位種(ストゥーム)は、それがアリスの能力によるものとは思いもよらないのか、なんとかアリスに攻撃を加えようとのたうちまわる。


「殆ど完封に近い形で負けたのが悔しいのかしら?

他の上位種(ストゥーム)ならいざ知らず、あなたの攻撃をわざわざ喰らってあげるわけにはいかないもの、勘弁して頂戴。

なにせ――」


 そこで一旦言葉を切ったアリスは、懐から取り出した一本の枝を上位種(ストゥーム)目掛けて、正確には|上位種の顎めがけて放り投げた。

 放り投げられた枝は硬質な顎に当たり、

 ――――一瞬にして崩れ去った。

 正しく言えば、枝は一瞬にして()()()に変じ、そのまま自重に耐えきれず崩れ落ちたのだ。


「 ――あなたのその、『自らの顎に触れた物を砂へ変えられる』能力は、体の一部が一回当たっただけで即死する代物みたいだから、ね」


 そう、それがアリスが推測したこの上位種(ストゥーム)の能力。

 最初に様子見のため投げ入れた低位種(シュヴァム)は、一瞬で砂中に引きずり込まれたのではなく、一瞬で砂と同化したのだ。

 これなら、この上位種(ストゥーム)が最初は奇襲に特化した戦法をとっていたことも得心がいく。なにせ一度敵に触れさえすれば勝ちが決定するのだ、こんなに楽な事はない。


「ギギギィ……」

「あぁ、やっと諦めてくれた。

それじゃあ次のお仕事に進みましょうか。メイ」

「はい、こちらに」


 アリスが声をかけると、砂の窪みの淵からメイが顔を出した。

 その顔には、先ほどまでの焦りや心配の感情は既に無い。


「『瀉血機(フィルテラ)』を持って降りてきてもらえる?」

「はい、かしこまりました」

「さて、あとは処置をするだけ……って、ちょっとあなた!

無理に動くと余計に怪我をすることになるわよ!?」


 アリスがメイとの会話に気を取られている間に、上位種(ストゥーム)は微かに緩んだ拘束から逃れようと暴れ始めた。

 上位種(ストゥーム)が気づいていた訳ではないが、実はアリスの能力で固定できるのはそれ程広範囲ではない。

 実際に、今も最大の脅威である上位種(ストゥーム)の顎に限定して能力を発動しているだけで、全身を固定しているわけではないのだ。

 そのため、こうして上位種(ストゥーム)が全力で暴れまわり続ければ――


     バキンッ


「あ」


 丁度上位種(ストゥーム)が体を跳ね上げた拍子に、二本の触角が硬質な音を立てて同時に折れた。

 突然解放された上位種(ストゥーム)は、体を持ち上げた状態から空中に固定されたままの触角の上に倒れ込み、

 バシャッ、という乾いた響きと共に砂へと還った。


「あ……」

「アリス様、お怪我はございませんか」


 少し遅れて斜面を下りきってきたメイは、アリスに向け深々と頭を下げる。


「申し訳ございません、私がもっと早く到着していれば。

いえ、そもそも私がアリス様の横に侍ることが出来ていれば」

「……いいえ、これは私の詰めが甘かったのが悪いわ。

私が戦闘の邪魔になるからと『瀉血機(フィルテラ)』を携帯していなかった事も含めてね」


 そう言って、アリスはメイが携えている機器に目をやった。

 注射器に銃把(じゅうは)や引き金を組み合わせたような形状のソレは、名を『瀉血機(フィルテラ)』といい、その名の通り『瀉血(血液を人体の外に排出する治療法)』を施すための器具である。

 しかし、この器具を使用するのは人体に対してではない。

 制圧し、無力化した上位種(ストゥーム)()()する目的で使うのだ。

 上位種(ストゥーム)は、『悪夢の夜(アルプトラオム)』の対策を旨とする機関の研究によって、『血液に特殊な異常を引き起こした人間』がその正体であると判明している。

 その異常を引き起こすトリガーは未だ不明だが、異常をきたした血液を体外に排出することによって暴走状態の上位種(ストゥーム)を沈静化させる事が可能なのは分かっており、その排血を効率的かつ効果的に行えるよう開発されたのが瀉血機(フィルテラ)なのだ。

 だが――


瀉血機(フィルテラ)上位種(ストゥーム)の生命維持器官である『心臓』に突き刺し作動させる事で、異常性のある毒血を抽出し上位種(ストゥーム)を人間態に戻す事が可能、ねぇ……」


 諦観の念と共にそう呟いて、アリスは溜め息をついた。

 言葉だけならこれほど画期的な事もないだろうが、実際に『公務』の一環としてこの作業をやってきたアリスにはその難しさが身にしみて分かっている。

 瀉血機(フィルテラ)上位種(ストゥーム)の心臓に打ち込むためには、まずその上位種(ストゥーム)を抵抗出来ぬよう弱らせなくてはならない。たとえ弱らせることに成功したとしても、先ほどのアリジゴクの上位種(ストゥーム)のように自身の能力で自滅する場合も往々にしてあるのだ。


「本当、なんで私がこんな事で頭を悩ませなきゃならないんだか」

「お気持ちは痛い程分かります、アリス様。ですが……」

「ええ。()()()との約束を反故にする腹積もりは毛頭ないし、第一野放しにした上位種(ストゥーム)に私の家を(あば)ら屋にされても困るしねぇ」


 肩をすくめてから、アリスは頭上を振り仰いだ。

 空に浮かぶ紅い月が、少し色を薄らいだように見える。


「あぁ、もうそろそろ今日の『夜』も終わりそうね。

帰りましょうか、メイ」

「はい、アリス様」


 二人は頷きあうと、森の中心に向け足を踏み出した。



 二人が館の前にたどり着いた頃には、既に空に浮かぶ月は青白い状態へと姿を変え、森は平時の仄暗い静けさを取り戻していた。


「結局、今日遭遇した上位種(ストゥーム)は二体かぁ。

どちらも治療する事が出来なかったし、今日はくたびれ損ね」

「更に多くの上位種(ストゥーム)と同時に会敵する事もおありなのですか?」


 興味本位からか、主人のために館の扉を開けつつメイが尋ねると、アリスはその端正な顔に苦々しげな笑みを浮かべる。


「そういえば、アリスが見た上位種(ストゥーム)はまだこれで三体だものね。

ええ。全くもって不運なことに、それぞれ別種の上位種(ストゥーム)五体とまとめてやりあった事も有るわよ。

その時は、流石に一人ずつ治療している暇が無かったから、残念ながら最後に倒した一人しか助けられなかったわ」

「左様でございましたか……」

「まぁ、その時は『公務』を始めてそう経ってない頃だったし、今ならもっと上手く立ち回れる自信があるけれどね!」

「左様でございますか」

「……ちょっと。尋ねてきた割に反応が薄いのね」

「いえ、決してそのようなことは」

「ふーん……?」


 メイの顔を訝しげに見てから、アリスは思い直した風に声を上げた。


「あぁ、しまったわ。今日は疲れているわよね。あなたの状態にまで気が至らなかったわ、ごめんなさいね」

「っ! いえ、そんな事は――」

「少しばかり待っていてね? よいしょっと」


 アリスは素早く真紅のドレスと黒革のブーツを脱ぐと、ブーツは脇に抱え、ドレスのみをメイに差し出してくる。


「ドレスのここ、少し解れてしまっているでしょう?

ここだけ直してもらいたいの。終わったら休んでもらっていいわ」

「しかし、アリス様がご公務の後必ずお飲みになっているお茶は……」

「紅茶くらい自分で淹れられるわ、気にしないで頂戴。

それじゃあね、ゆっくり休んで」


 それだけ言い残し、アリスはひらひらと手を振りながら肌着で裸足という格好のまま階段を上がっていった。

 メイはその姿が見えなくなるまで階下で見送ったのち、


「……はぁ」


 深刻そうな吐息を漏らす。

 が、顔を振るとすぐアリスのドレスを抱えて歩きだした。

 暫く歩いて自分の居室の前に来ると、メイは扉のノブに手をかけたまま、周りを静かに見回し、ついでに頭の上の三角耳もそばだてて人影の有無を確認する。

 そして、誰も近くにいないことに確信をもつと、素早く扉を開けて中に入り、静かに扉を閉めた。


「……はぁ」


 再び溜め息をついてから、メイは自分の部屋を見渡した。


「アリス様……」


 その部屋は、一言で言ってしまえば『珍妙』だった。

 質素なベッド。飾り気のない机。簡素な棚。

 そのどれもが、大量の絵や人形で溢れかえっていた。

 人形は全て手製らしく細かい違いは有ったが、そのどれもが黒髪のツインテールと真っ赤なドレスの意匠を共有している。

 机の上には、まるで目の前の人物を写生したかのように精巧な、しかもそれぞれ絵の構成も人物の姿勢や表情も違う人物画が、ざっと三、四十枚ほど積み重ねてあった。

 全て同じ黒髪の少女を描いたものである事を除けば、それだけで展覧会が開けるほどの筆致である。

 メイはその紙束を横に遣ると、机の中心にドレスを広げた。


「ええと、ここだったかしら」


 ドレスの解れを探し当てると、メイはこれまた机上に置いてあった裁縫箱から針と糸を取り出し、針の穴に造作もなく糸を通してから、チクチクとドレスを縫い始めた。

 それはもう、目にも留まらぬ速さで。


「――これでよし、と」


 糸を切って体裁を整えたメイがそう呟くのに、然程時間はかからなかった。

 メイは、縫い終わった跡が目立たぬ仕上がりになった事を確認し、綺麗に折り畳もうとして、途中でその手を止める。

 そして、数瞬の間ドレスをまじまじと見つめたのち、


「……申し訳ございません」


 誰に向けて言うでもなくそう呟いてから、手の中のドレスに顔を(うず)めた。

 ドレスに微かに残る主の温もりを肌で感じながら、メイは今日の出来事を回想する。


(……今回は三度目の正直、と思ってたんだけどなぁ。

結局は一回目や二回目とそう違わないざまになっちゃった)


 メイがアリスの『公務』について行ったのは、アリスも言っていた通りこれで三度目。一度目はメイが十三歳のとき、二度目が十五の時である。

 今年数えで十七になるメイは、しかし自身の成長を実感できなかった。


(一回目は、好奇心でアリス様に黙ってついていった結果、流した涙と漏らした尿とでぐちゃぐちゃになって帰った訳だけど。

役に立ってない、っていう点では二回目も今回も大差ない)


 主人(アリス)の役に立てていない事への自責の念に駆られながら、メイはさらに深く顔を埋める。


 メイは、かつてアリスに森で倒れているところを拾われた。

 それも、記憶の一切を失った状態で、である。

 自らの過去の悉くを失い、名前すら思い出すことのできない環境に置かれた当初、絶望の渦中にあったメイは幾度となく自死することを考えた。

 しかし、側でアリスのことを見ているうちに、アリスの美しさと気高さに次第に、最後には完全に魅せられ、自らの身命をアリスに捧げようという考えへと移り変わっていったのだ。

 そして、拾われてから一年経ったある日、『安全な施設に引き取ってもらう』というアリスの言葉を一蹴し、アリスに仕える召使い(メイド)として、以来七年近い歳月をこの館で過ごしている。

 ……が、しかし。メイが感じる無力感は、日増しに大きなものとなっていた。


(私も、アリス様に仕える身として、色んな修練を積んできた。

種々様々な家事だってそう。そちらは、こうしてそれなりに上達を感じることができるまでにはなった。

けれど、戦いに関してだけは……)


 メイは、一回目の公務付き添いの後から、家事と並列して武術や身体能力向上にも励んできた。

 アリスが上位種(ストゥーム)と戦う姿を見て、自分もアリスに仕えるメイドであるためには戦力が必要不可欠であると肌身で感じたがゆえの行動であった。

 その結果として、十全に身体能力は上昇し、武術も女の身でありながらほぼ使いこなせるようにはなっていた。


 ――そう、確かに強くはなったのだ。

 しかしながら、それは人間の範疇での話である。

 幾ら人間の肉体を破壊する技を有していても、上位種(ストゥーム)の甲殻には傷一つ付かない。

 幾ら人間の攻撃を滑らかに受け流すことが出来ようとも、上位種(ストゥーム)の剛力をまともに受ければ挽肉になるのが関の山。


 化物を屠るに足る破壊力と化物の攻撃を受け止め得る防御力が無ければ、結局戦闘面では足手まといでしかない。

 メイはアリスの一助となる為、場合によっては肉の盾となる為、少なくともアリスの横に並び立てる力が無くてはならないのだ。


(その点で言えば、私なんかよりも『あの人』の方が余程アリス様に相応しいと言えるのでしょうね。

……正直、私は余りあの人が得意ではないのだけど)


 メイは、脳裏にとある人物を思い浮かべた。

 全身黒衣に包まれた、巨大な人物像。

 メイより頭二つほど大きい、定期的に食料を持ってきたり瀉血機(フィルテラ)の点検などをしていくその人物は、アリスから「命の恩人である」というふうに聞かされていた。

 アリスの命を救えるほどの実力を持ち合わせているのなら、メイよりは遥かに戦闘力の高い者なのだろう、とメイは常日頃から考えている。


(やはり、女の私と男性であるあの人とでは、元来の身体能力からして違うものなのでしょうか……)


 そこで、アリスと肩を並べ戦っているその人物の像を脳裏に描いたメイは、ドレスから顔を上げ、良くない考えを打ち払うように頭を振った。


「いやいや、あの人ではアリス様とはとても釣り合わないわ!

私がいないと、アリス様はご自分で着替えもなさらないんだから!」


 開き直ったようにそう言ってから、メイは少しだけ眉をひそめる。


「……それに、あの人は何処か胡散臭いし」


 くぐもった低い声と、気さくな態度とは裏腹に隠しきれていない鋭利な気配を漂わせていた姿を思い浮かべ、メイは体の震えを抑えるように自分の肩を抱いた。

 そして、自らの手の中に収まっている紅い布の存在を思い出すと、


「あぁいけない、余計なことを考えすぎね」


 手早くドレスを折り畳んで大箪笥のドロワーにしまい込み、そのままベットの上に腰掛ける。

 途端にメイは、全身がベッドに沈み込むような倦怠感と深い眠気を覚えた。


「アリス様もああ言っておられたし……すこし、くらいなら」


 言い訳っぽく小声で呟いたのを自身が知覚するかしないかのうちに、メイの頭は舟を漕ぎ始めた。

 そして、ぐらり、ぐらりと動く自分の頭の揺れに誘われるように、メイの意識は緩やかなまどろみの底へと落ちていった。


 ……そして、それから暫く時間が経った頃。


 ゴンゴン、というドアノッカーの打ち付けられる音で反射的に意識を覚醒させたメイは、すぐさま音の出所を確認した。


「この硬い音、屋敷の中の音じゃない……ドアノッカー?

あ、ひょっとしたら玄関の前に誰かいるのかも」


 客人の可能性を感じ取ったメイは、耳をひょこひょこさせながら立ち上がり、大きく伸びをする。


「んー……ん、よし」


 その後、部屋の姿見で軽く身なりを整えてから、メイは足早に玄関へと向かい、タイミングを見計らって扉を開けた。


「いらっしゃいませ、ご用け……げっ」

「やあどうも。『げっ』とはご挨拶だな、メイ嬢」

「……申し訳ございません、ドクトル」


 メイが不機嫌さを隠すことなく、寧ろ敵対心を叩きつける勢いで顔を睨め付けると、対する人物はその漆黒のクロウマスクに覆われた頭を不思議そうに傾ける。


「うむ、私は過去君にそこまで毛嫌いされるような行いをした事があったかね?」

「いいえ、過去そのような行為をされた記憶はございません」

「親の仇を見るような目つきで言われてもなぁ」


 黒衣の人物、ドクトルは納得のいかない口調で反論すると、すぐさま一転して親切さが滲み出てくるような声音で尋ねた。


「それで、最近調子はどうかな? 酷い怪我などは負っていないかい?」

「見ての通りですが」

「うんうん、元気そうで結構だ」

「あ、ドクトルじゃない!」


 弾けるような声にメイが後ろを振り向くと、再びネグリジェを身に纏ったアリスが腕組みしながら立っていた。


「貴方ってば、いつもいつも丁度いいタイミングで来るわよね!

最近瀉血機(フィルテラ)の磨耗が目立ってきたから、交換して欲しかったの!」

「お安い御用だ」

「メイ、ドクトルを案内してあげて。私も着替えてくるから」

「え、しかし」


 つい咄嗟に出てしまった言葉をメイが後悔する暇もなく、その言葉を自身への心配と捉えたアリスが笑いかける。


「私の部屋にある適当な服に着替えてくるだけよ。

私一人でもヨユーで着替えられるわ!」

「わ、わかりました」

「じゃあよろしく!」


 そう言って階段を駆け上がってゆくアリスを、今度は最後まで見届けずに、メイはドクトルに向け舌打ちをすると、


「……どうぞ、こちらへ」


 客間の方へ先導して歩き始める。


「……私、本当に何もしてないかなぁ」


 腑に落ちなさそうな様子ながらも、ドクトルもメイに続いて屋敷の客間へと足を向けた。

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