間話二「リンの行方」
「……ここは、どこかしら」
目を開ける前から、リリリ、と耳触りの良い虫の鳴き声が響いている。
そして、鼻をつくような感慨を得る微妙な臭気。いや、正直臭い。
何かにもたれるようにしていた体を起こして改めて見れば、背や尻に敷かれているのは大量の藁だ。
「……ひうっ!?」
生温い感覚と、頬にべちょりと走った体験したことのない感覚にぞわぞわと背筋に悪寒が走った。
「……シカウマ?」
何事かと慌てて振り返ってみると、立派な角を生やした馬と鹿の相の子のような生物が一頭、藁を食みながら暢気な顔でこちらを見ていた。
TTの世界における一般的な移動手段――だが、基本プレイヤーは転移等のワープ手段があるため、滅多にシカウマを使うクエストを受けることはない。せいぜい序盤くらいだ。
「……ばっちい」
濡れた頬を袖で拭う。どうやらこの生き物に舐められたらしい。
「……」
暗がりには、沈みかけていた双つ月の明かりがまばらに下りている。
見上げると天井は隙間だらけ。そこまで立派でもない厩舎の中のようだ。
「あの女……どこに飛ばしてくれてんのよ」
尻に貼り付いた藁の欠片を払い、悪態をつきながら立ち上がる。
近くにいた大きなシカウマが、ぼほふ、と鳴き声ともつかない息を吐いてにじり寄ってきた。
「う、うわあ。何よ。こっち来ないでよ」
シカウマは触らせてこそくれるが、自分から近付いてくるようなタイプのNPCではなかったはずだ。
というか、基本全てのNPCはそうだ。与えられた役割以上のことはしなかった。かつては。
その湿った鼻先を押しのけながら、天井同様隙間の空いた歪な扉を開けて外に出た。
「……」
ざあざあと風を受けて、青々とした草原が延々と続いている。
どうしてか、その光景は不思議と美しく見えた。こんな場所、この世界が夜の内にクエストでも冒険にでも出れば、どこでだって見れるはずなのに。
「……他のみんなは、無事なのかしらね」
フレンドリストを開く。
ベオ、ミヤビはオンライン。無事らしい。
しかし、ノトーリアスはオフライン。ルーベも同じだ。
「あの女……勝手なことばかりして……それでノトーリアスが助けられなかったら意味ないじゃない」
拳を握り、俯く。
血みどろになったノトーリアスの姿が目に焼き付いている。
ルーベとて、オフラインになった理由に不安しか想像できない。
どこかでやられたんじゃないか、知らない間にあの子供二人にやられて……。
「ひやああぁぁ!?」
べちょお、と背中の空いた部分に再び先程の感覚が走り、泣きそうな声を上げながら飛び退く。
ほとんど仰向けに倒れながら身を起こすと、やっぱり間抜けな顔のシカウマが、ぼぼふ、と鼻息を鳴らして見下ろしていた。
「……はあ。怒りも抜けちゃった」
ため息をついて起き上がると、リンはついてきたシカウマの頬を力なく数度はたいた。
すると唇を震わせて、シカウマはべちょべちょと唾液を飛ばしてきた。
「うわあああ!? もー! やっぱムカつくー!!」
「……あの?」
追っ払ってやろうと腕を上げたら、不意に後ろから聴こえた声にその手が止まった。
振り返ると、いかにも村娘、と言った感じのNPCが、心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「……ええと、どちら様でしょうか……?」
「……」
答えに窮する。
クエスト以外で、NPCと会話したことなんてない。
基本、テキストに則った会話内容を、声優が読み上げた音声で再生しているだけの木偶人形。
そうとしか思っていなかった存在が、しっかりと人間味を持って話しかけて来ている。
それは、話し慣れていない人間に声を掛けられてきたことにほぼ同義だった。
少なくともリンにとっては。
「え……えっと、その、冒険者、とでも言えばいいのかしら……」
頭を掻きながら、目線の置き場も分からずふわふわとした受け答えをするリン。
「まあ! 冒険者さんがこんなところにいるなんて珍しいですね! それで……その、我が家のプーちゃんに何か御用があったんですか?」
「……プーちゃん?」
返事をするように、背後でシカウマが「プー」というよりは「Booo!!」と鼻を鳴らすのだった。
―――――――――――
「何もないところですが、ゆっくりしていってください。あ、おかわりもありますので……」
「……はあ」
何故、こんなことになっているのだろう。
リンは――先程の村娘、エミリーと名乗った少女に家へと招かれ、夕飯をご馳走になっているのだった。
ちらり、と彼女の顔を見る。
栗色の髪を三つ編みに、そばかすの多い、お世辞にも美しいとまでは言えない少女だ。しかし、西洋風に鼻筋の通った顔立ちは、中身が日本人であるリンからしてみれば十分に魅力的だし、何よりその笑顔には愛嬌がある。
落ち着きこそしないが、招かれたことに悪い気持ちにはならないリンだった。
「……」
視線を下ろす。
木目の荒い野性味溢れるテーブルの上には、シチューとパンが置かれている。
どの程度まで世界観が練られているのかは不明だが、白いシチューの中に浮かぶ大きめに切られた野菜の諸々は、リンの知る日本の家庭に並ぶような物と似通っているようには見えた。
リンの内心を察したのか、エミリーは慌てたように説明をしてくれる。
「あ、ええと、プーの乳で作ったシチューですよ。ちょっと味は薄いかもしれませんけれど……あ、中のはザガイモとキャロッジ、それにウシブタの肉と、その隣はライのパンです!」
「日本語に英語、それにウシブタって……最後のは……ライ? ライ麦のこと? 思ったより設定雑ね……ていうかシカウマって、そういう使い方もあるんだ……」
「え?」
「あー、ええと、こっちの話……」
知らなかったTTⅡの裏側をここで思いがけず知ることになり、苦笑いでエミリーに返すリン。
さて、と再び食器の中のシチューを見た。別に悪い見た目ではない。
木のスプーン――木のスプーン自体、初めて触った。
と言うか、スプーンに木って使うものなの? という印象すらある。
絵本やファンタジー映画の中でしか見たことがない。
大振りで口に入れづらいそれを、おそるおそる、口に運んだ。
しっとりとした汁の舌触り。塩気と旨味が少ない。ザガイモは、ホロリと溶けて口の中に消えていく。キャロッジからは、色濃く残る甘みと少しの青臭さ。ウシブタの肉は少し臭みが強い気もしたが、筋が少なく程好い噛み応えの良さは悪くない。
なるほど、これは――硬いパンのお供には少しパンチに欠ける味わいだ。
「……薄い」
「あ、あはは。どうにも、シカウマの乳は薄味になりがちで……」
「……でも、悪くない」
「それは良かった!」
顔を綻ばせるエミリーに、リンも少しずつ緊張が解けてゆく感覚があった。
目を落とし、腹をさする。食べている最中に気づいたが、腹の膨れる気がするし、胃が温かいもので満たされる実感もあった。逆に言えば、その内に空腹やその他諸々も感じてしまうのかもしれない。
――まるで、現実のように。
「……どうしました? リンさん」
「ああ、いいえ。何でもないわ。――ごちそうさま」
ほんのり笑んで、エミリーに礼を言う。
「それで、ええと、……エミリー……さん? で良いのかしら」
「エミリーで良いですよ、リンさん」
「私もリンで構わないわ」
「それじゃあ遠慮なく――リンちゃん!」
がくり、と頭を垂れる。
「……どうしました?」
「いいえ、何でもないの。何でもないわ」
思ったより親しげに名前を呼ばれてしまい、リンは気恥ずかしさに体温が上がるのを感じた。
「? そうですか?」
「ええ、そうです。じゃなくて。……ここは、どこだったかしら」
頬を両手で覆いながら、リンは顔を上げて訊ねた。
「ここですか? ここは、ノルンホルンのいちばーん西にある村ですね。あ、ごめんなさい、名前らしい名前はついてなくて……」
「ノルンホルン、か……」
脳内に浮かぶ世界地図の、左上。大陸ノルンホルン。
初心者向けで強力な敵もそんなにいない、穏やかな大陸だ。最西ゆえ、丁度反対側に位置するカラナクラナに対する防衛ラインが存在するが、そこが使用されているという設定は聞かない。
各地に点在する村々のお使いクエストをこなして過ごしていた時期、ここを通ったことがあるかもしれない。
そう言えば、ルーベと出会ったのも初心者クエストをこなしていた時だったな、と思い出す。
「冒険者の皆さんにはいつもお世話になってます。芝刈りを手伝ってもらったりとか、荷物運びをしてもらったりとか、商人さんの護衛をしていただいたりとか……」
「……そんなこともあったかしらね」
あまり記憶にない。そんなクエストあったろうか。
まあ、確かに雑魚モンスターを討伐したり追い払うイベントはこなしていた記憶はあるのだけれど。
選り好みして面倒なのは放置していた気もする。
「それで、リンちゃんはどうしてこんなところに? そんな素敵な格好の冒険者さんなんて、中々見かけたことないですけど……」
「ん……」
今着ている服は、ここで言う冒険者であろうFランクが袖を通せるようなレベルのレアリティではない。
Aランク冒険者でもその内一割程度なら持っているかもしれないが、少なくともノルンホルンを拠点に冒険している初心者が手に入れられる代物とは桁が違う。
風セットと呼ばれる、「ハフリの衣・上下」一式。中々人気だし、気に入ってもいる。
少し、背中辺りの露出が多い気もするが。
「……まあ、偶然よ。ところで聞きたいのだけど、最寄りの主要都市までの移動手段ってないかしら。歩くしかない?」
「主要都市ですか? ここからなら、ル・シェートの街が近いですけれど……」
「……久々に聞いた名前ね」
初心者の頃、拠点としていた街だ。
ルーベと二人でギルドを組んで、しばらくは小さなギルドを作ってそれで遊んでいた。
ランクが上がってきて二人だとしんどくなったので、すぐに街を移した短い期間だったけれど。
「ここからだとシカウマに馬車を引かせてそうですね……一週間と少しでしょうか」
「……一週間」
一週間。その一週間が果たして、本当にTT時間における一週間なのか。
リンとしては怪しいと思っていた。何せ、全ての要素がどんどんと現実味を帯びているのだ。
一週間と言う数字は、丸ごとそれだけの時間が掛かると仮定してもおかしくはないだろう。
リンはフレンドリストを開くと、改めてオンラインのメンバーを確認する。
存在位置が不明なのはベオウルフ。相変わらずウィダーンにいる様子なのはミヤビ。
いつの間にか、それ以外のメンバーはオフラインになっている。無事だと良いが。
「ここからまたウィダーンに戻っても、あの子供がいる可能性がある……」
フレンドから辿れば他の街に飛ぶのは容易だが、それで奴らと鉢合わせて死んでしまっては意味がない。そうなれば、それこそあの女――ミズカの決死の厚意を、無碍にしてしまうことになりかねない。
「腹は立つけど……救われたのは否定できないものね」
親指の爪を噛む。
ゲーム内ではやらなかった、現実側から引っ張られた癖だ。
TTにログインしている間は出なかったものだが、どうにも落ち着かない今は、思い出したように爪を噛んでしまう。
視線を手元に落とせば、爪は噛んだだけ現実と同じように曲がり、傷ついている。
「……あの。よくわからないですけれど、落ち着くまでここで過ごすのはいかがですか? その、お客様なんて久しぶりですし」
「……」
知らず知らずの内に暗い顔をして俯いていたリンの顔を覗き込むように、エミリーが提案してくる。
「その、冒険者さん、よくは来てくれるんですけど、こうしておもてなしをしたのって初めてなんですよね。だから、私もちょっと楽しくてですね」
へへへ、と笑う彼女に、思考を凝り固めていた毒気が抜かれるような気持ちになる。
世話になるのは悪くないけれど、このままで良いのだろうか。
「……何にしても、今日はとりあえず落ち着いた方が良い気が――」
ゆっくりするか、と決めかけたその瞬間。
不意に外からカンカンと響く、甲高い金属音の連続。
「――魔物の襲撃!? そんな、最近は全然襲ってこなかったのに!」
「……何ですって?」
「今鳴ってるの、魔物が襲ってきた時の鐘なんです……! ど、どうしよう……」
何故かフライパンを取って右往左往したり、頭に鍋を被ったりして混乱している様子のエミリー。
それをしばらく呆気に取られたように見ていたが、馬鹿らしくなってため息をつくと、リンは細剣を腰元から抜いて建てつけの悪い玄関扉に手を掛けた。
「り、リンちゃん!? ど、どこへ……」
「決まってるじゃない。――初心者クエストの復習よ」