7 神殿
ハバキは正式に長として立つことをイスルギの前で誓い、神殿完成の儀式に向けた本格的な準備が始まった。その日、いよいよ、五つの里をあわせた新しい国、カツラギが誕生し、新しいカツラギ王と神司がそろって民の前に姿を現すのだ。
このところ続いた凶事をも吹き飛ばすほど、ハバキの姿は今までにない自信に満ちあふれていた。館にはつねにハバキの大きな声が響いていた。ハバキに心酔し、一日も早く彼を王と仰ぐことを夢見ていた若者たちは、神殿完成の日をいまかいまかと待ちわびていた。
「この騒ぎよう、まるで婚礼の準備だな! おまえもとうとう観念したか。ハバキのことだ。きっと力ずくで押したのだろう」
カリハは面白がって、姫夜をからかった。
「そんなことはない。わたしが自分で、決めたのだ」
「ムキになるところが怪しいな。黙っていてやるから云ってみろ、何をされた。とうとう菊花を散らされたか、それとも蛇の室にでも入れられて――」
「だから! 何もされてなどおらぬと云っている。カリハこそ、わたしがまだ間者だと疑うているのであろう」
「はは、おまえのように美しすぎては、間者など無理だ。一度見たら忘れられぬわ」
「まったく、どの口でそのように」
姫夜は頬を赤らめて、言い返した。ハバキが笑いながら割って入った。
「カリハ、そのへんにしておけ」
「存外からかいがいのあるやつよ」
姫夜はあきれたが、カリハの陽気さは、どこか憎めないのもたしかだった。
那智が山のような衣裳を両手に捧げ持って入ってきた。
「カリハどの、随分とのんびりしておられるようだがよろしいのですか。カツラギ王の右腕として、将となるのはあなたなのですよ」
「おれはみなの前で王から剣を受けとり、将として幾久しくつかえることを誓えばいいのだろう。子どもでも出来るわ」
「それだけではないぞ。この儀式が済んだら、すぐにも五つの里から集まった若者たちの鍛錬を始め、いくつかの軍勢にあらたに編成しなおさなければならん」
「小隊の長を誰にするか、おまえと相談せねばならぬのだったな」
カリハも真剣な顔になった。一人一人の性格や向き不向きを見極め、編成するのは戦さの前の大仕事だった。
「カリハ、血生臭い話は外でするとしよう」
「姫夜には聞かせられぬか? おかしいな。どうもおまえは姫夜に甘い」
「いいから来い」
二人は悪童のように小突き合いながら出ていった。
「さてと」
二人が出ていってしまうと、那智は姫夜にむきなおった。
「お顔の色がすこしすぐれぬようだ。お疲れなのではありませぬか」
ハバキは自分がいないとき、もしものことがあった場合にそなえて、那智にだけは姫夜が女であることを打ち明けていた。姫夜も最初にあったときから、那智だけはあざむき通すことはできないと直感していたので、すなおに同意したのだった。
「疲れたなどとは云っておられませぬ。儀式の前にどうしても、できるだけ多くの神から神示をたまわっておきたいのです」
本来なら精進潔斎して、神殿に一人籠もって、この地を守る神々からそれぞれことばをたまわりたかった。しかし神殿も未完成の上、細々とした準備やら打合せやらもあったので、睡眠時間をけずって神と対話していたのだ。
「わたくしの前では、もうすこしくつろがれてかまわぬのですよ。後でクマザサの薬湯でもさしあげましょう」
「お心遣いありがたく――では薬湯よりも、できればささをいただきたいのですが」
「御酒ですか」
那智はすいとほそい眉をひそめた。
「はい、ほんのすこしでかまいませぬゆえ」
姫夜は赤くなった。酒を欲するようになったのは蛇神を封じてからだ。人がどんなに愉しげに飲んでいても羨ましいと思ったことはなかったのに、今では匂いをかいだだけで目まいがし、杯を奪い取って食らいつくしたいような気持ちに駆られるのだ。カツラギはよい米がとれ、酒もうまかった。
「ではのちほどお持ちいたしましょう。さあお立ちになってください」
那智は姫夜に、淡い水色からしだいに色の濃い衣を何枚も重ねて着せていった。最後に、月と星を金銀の糸で縫い取った長い衣をふわりとかける。
「ここへきてからずいぶんと背が伸びられましたね。丈は長くしておいたほうがよさそうだ。今後はますます衣を重ねねばなりますまい」
たしかに鏡にうつるすがたは、やわらかく大人びてきていた。
「よくお似合いです。おぐしにも月と星を飾りましょう。これなら誰もが水の女神その人が降臨したと思うでしょう」
果たしてもう、あの兄と会う日はこないのだろうか――と姫夜は鏡に映る姿に、兄のおもかげを重ねながら心のうちで思った。新しいクニの神司となるといったら、兄はどう思うだろう。立派になったと喜んでくれるだろうか。
神殿完成の儀式は夏至の日に、華やかに執り行われた。集まった民はまず、その神殿の巨大なことに度肝を抜かれた。まずもってみな、このような天空にそびえ立つ高楼を見たことがなかった。これなら神々も一目で自分の降りるべき場所を見分けることができるだろうと誰もが思った。
その高楼にハバキが姿を現すと、人々は大きな歓声をあげた。
ハバキは、白銀の鎧をまとって、碧玉を飾った白いかぶとをかかえ、長剣を腰にはいていた。その異形にも等しい長身は、まさしくカツラギを守る美しい戦さ神として人の眼にうつった。
あたりが青い闇に包まれると、一斉に松明に火が灯され、闇のなかに立ち並ぶ神殿の白い柱が、燃え立つように浮かび上がった。
しゃりん。しゃりん。
澄んだ鈴の音が響き渡り、人々は何事かと顔をあげた。
高楼に、長い衣の裾を引いた姫夜がしずしずと姿を現すと、人々のあいだに大きなどよめきが起こった。
「おお、あれを」
「女神が――」
「女神が降りられた」
人々は袖を引き合って、すこしでも近くから見ようと、駆け寄り、高楼を見上げた。
姫夜の美しい頬はこころもち青ざめ、唇だけがさえざえと朱い。長い髪には真珠を編み込み、頭上には銀の板と碧玉をつないで光の滝のように両脇に瓔珞を垂らした星の冠をいただいている。ハバキと姫夜とがならんだところは、柱のまわりをまわって契り、この葦原の国を生んだとされる男神と女神の姿にも見えた。
そして、まさに新しいクニの誕生を祝うために集まった里長や村人たちに、そのように印象づけることは、那智のねらいでもあったのだ。
ハバキは緊張したおももちで朱い唇を引き結んでいる姫夜に手をさしだした。
「大丈夫か」
姫夜はうなづいて、その手を取った。
二人が人々からよく見えるよう、そのまま手すりのそばまで進み出ると、さらに大きな歓声がわき起こった。
「カツラギ王、万歳!」
「千代に栄えあれ」
「千秋万歳」
ハバキは群衆にむかって高く手をあげ、笑顔をみせた。
「心配はいらぬと云っただろう。さあ、言祝ぎを」
姫夜は空を見上げ、右手で天を指し、左手で地を指した。
「恵みあれ、栄えあれ」
それを合図に琴、笛、太鼓が天上の楽の音を奏で、白銀黄金の花が高楼から振りまかれた。子どもらは嬉しそうに声をあげ花を奪い合い、老いたものもその花を拾っては額に押し頂いている。姫夜がそのようすを見やりながら、感慨を込めてつぶやいた。
「みなの沸き立つ心に大地もふるえている。神殿を言祝いだのはわたしではない。オオミタカラの心が言祝いだ。予言はひとつ成就された」
ハバキは力込めてうなづいた。
「そうだな。だがすべてを予言する必要はない。俺が見たい幻は俺の手で作り出す」
二人はもう一度群衆に手をふると、ゆっくりと後ろの五色の幕のなかに入っていった。まだ歓喜の声が続いている。姫夜はほっと息をついたが、すこし落ち着かなげな表情になって振り返った。
「本当にこれだけでよかったのか? 舞いを舞うこともできたのに」
「舞いはまた別の日にしよう。オオミタカラにとって、神はそう近しいものではないと那智が云っていた」
「そうなのか」
「だが……たしかに俺にはすこしものたりない。おまえの息吹で俺の命を清めてくれ」
ハバキはひくい声で云って、すばやく姫夜を引き寄せ、くちびるを重ねた。つかのま、かすかにふれあったくちびるから甘い吐息が通い合った。