5 蛇神封じ
突然、水ノ江の里が、敵襲を受けたという知らせがもたらされたのは、長たちがイスルギの館で酔いつぶれ、床にもぐりこうとしている明け方だった。
「兵二百が一夜で降伏だと?」
叩き起こされたフナジは、寝ぼけ眼のまま寝床からまろびでた。
「いったい何があったのだ。つ、つまびらかに話せ」
知らせをもってきた兵士の話はこうだった。
敵襲の恐れ有りとの村人からの知らせを受けて、兵二百が慌ただしく逆茂木を巡らせた柵のうちに集まったのが、明け方。ところが柵が閉じたとたん、火矢が雨のようにいかけられた。しかも弓を手にしているのは、当の水ノ江の村人たちだった。あまりのことに混乱し士気を失った兵士たちは、あっという間に降伏したというのだ。
「降伏というても襲ってきたは村人たちなのであろう? それは敵襲とは云わぬ」
フナジは痩せた腕を振り回して兵士をどなりつけた。
「われらとても一体なにが起きたのかと呆然とするばかりで……おれ、見たんです。襲ってきたものたちの中に、父と母がいるのを……」
兵士といってもまだ幼い顔立ちをした少年は涙をこぶしでぬぐった。
フナジは狼狽えてハバキの腕にすがった。
「ハバキどの! カンナギどのはこのことを先見してはおらなんだのか? これはなにかのタタリだろうか――すぐにも占を立てていただきたいッ」
ここは迷っている場合ではなかった。ハバキは即座にうなづいた。
「わかった。姫夜にはすぐ占を立てさせるゆえ持参いただいた比礼をお貸し願いたい」
「ウーム、やむを得まい」
フナジが取り出したのは黄金の細かな鎖で編まれた長い比礼だった。
「だがそのものたちがなぜ襲ってきたのか、真意も突き止めねばならぬ。すぐに兵を率いてたとう。武装した村人たちの数は?」
ハバキは少年兵に質した。
「およそ三百かと」
「三百か」
ハバキがすぐに動かせるのは二百だった。相手はろくな訓練も受けたことのない、ただの農民だ。ハバキの目の色を見て、フナジの痩せた顔が真っ青になった。
「もしや水ノ江の民を皆殺しにするつもりではあるまいな」
「それは、時と場合による」
クラトがなだめるようにフナジの肩をおさえた。
「ここで争っている場合ではござりませぬ。もしこれがわれらの結束を破ろうとするものの仕業なら、それこそ敵の思うつぼ」
「そうだ。一刻も早く真の敵を見定めねばならぬ。フナジどのも来ていただく。すぐ出立の準備を」
ハバキはフナジの比礼を手に、慌ただしくおのれの館に戻り、鎧をつけはじめた。
そこへ姫夜が呼ばれて、かけつけてきた。
「いったい何の騒ぎだ」
「姫夜、水ノ江の里が襲われた。占を立ててほしい」
姫夜はハバキから話を聞いて、おもてを曇らせた。
「嫌な予感がする……もし何者かがクニツカミを穢し奉ったのなら、直ちに封じねば何が起こるかわからぬ」
「やはり、モモソヒメか」
姫夜は沈鬱なおももちで、うなづいた。
「民が武器を手に立ちあがったというが、ワザヲギの里が襲われた時と似ている。ハバキ、占を立てていては間に合わぬ。わたしもともにそこへ連れていってくれ」
ハバキはそのいらえを待っていたというように、比礼を姫夜の肩にかけた。
「すぐに支度をしろ。俺のそばを離れるな」
ハバキが選りすぐりの精鋭を五十、残り半分ずつの兵を、カリハと水ノ江の長フナジが率い、馬で一刻ほどかけて、水ノ江の柵にほどちかいアスカ川の川べりに到着した。
すでに太陽が東の空を曙色にそめている。あたりは川の流れる音ばかりで、反乱が起きたとは思えない不気味な静けさが漂っていた。
「まずは使者を出し、フナジどのから村人たちに武器を捨てるよう呼びかけてもらおう。我らはそれまで谷間に潜んでいる。へたに姿を見せて刺激してはまずい」
フナジはぶるぶると震えながらうなづいた。
カリハが苦い声でいった。
「相手が村人ではやりにくいな」
「ああ。だが万一の時は一気に制圧するぞ」
「ハバキ!」
姫夜の叫びにハバキはふりかえった。
「わたしは水ノ江の亀石を見にゆく。あの山の上だそうだ」
先ほどの少年兵が頬を紅潮させて進み出た。
「ヤギラと申します。わたくしがご案内致します」
「俺もゆこう。カリハ、ここは任せた」
カリハがうなづくと、三人は駆けだした。山の登り口で馬を下り、杉の一本道を抜けていくと男たちの荒々しいおめき声、なにかを叩き壊すような音が聞こえてきた。しげみの影からうかがうと、十人あまりの村人たちが手にした斧や石で祠を打ち壊している。
ヤギラは真っ青になり、ハバキのほうをふりかえった。
「なんてことだ。あれは、たしかに村のものたちです」
「みずから鎮守の祠をあばくとは、いったいどういうことだ――」
ハバキがうめいたとき、後から姫夜が飛びだした。
「やめよ! その岩を動かしてはならぬ」
たちまち姫夜は小刀をもった見張りの男にとらえられた。ハバキは激しく舌打ちして飛びだした。すでに白銀の剣を抜きはなっている。
姫夜を羽交い締めにした男は、薄ら笑いを浮かべ、ハバキをねめつけた。
「何だ、うぬらは」
「俺はカツラギのハバキだ。その者を離せ」
男は嘲笑うように背をそらせて云った。
「カツラギだと。今頃かけつけてももう遅いわ。ひれふすのは貴様らのほうよ」
「遅い? それはどういうことだ」
男はハバキの放っている殺気に動じる様子もなく、ひくひくと笑った。
姫夜が身をよじって叫んだ。
「ハバキ、やめさせてくれ! あの岩に手を触れてはならぬ。あの岩はこの地を守っているのだ。動かしたりすれば怖ろしいことが……」
「ええい、こうるさいガキだ」
男はぴたりと姫夜の喉に刀をあてがった。
ハバキは剣を手にしたまま、じりじりと間合いを詰めながら、いった。
「お前らこそ、神の宿る岩に手をかけて、どうするつもりだ? タタリを怖れぬのか」
「もうこんな岩にタタる力なぞないわ。この世はもうすぐ滅びる。女王さまがまったき光で焼き尽くしてくださるのだからな。われら、女王さまのミシルシをもつものだけが、滅びをまぬがれるのだ」
ハバキは間合いを詰めながらも、男のいうことをひとことも聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。男は狂ったように笑い出した。その声は常軌を逸したように甲高く引きつっていた。ハバキは男にとびかかり剣の柄で殴り倒した。たしかに男の額には墨で、火に似た文字が描かれている。
姫夜は、注連縄のかかった岩にくみついて、満身の力で岩を揺り動かしている村人たちを指さした。
「ハバキ、あのものたちを止めてくれ。だめだ――」
だが、姫夜の声は悲痛な叫びに変わった。
「もう間にあわぬ――!」
ぐらりと岩が動き、怖ろしい地響きを立てて台座から落ちた。
どろどろどろ――
地の底から不気味な耳鳴りのような音がし、大地が揺れ始めた。
「やったぞ。これでおれたちもミシルシを頂ける。ここにはもう用はない」
男たちは肩で荒い息をしながら、ばらばらと逃げるようにかけ出した。
「姫夜、俺たちも山をおりよう」
「クニツカミの怒りに大地が啼いている。ハバキはヤギラをつれてゆけ。わたしは残る」
「おまえを置いてゆけるか!」
ハバキが怒鳴りかえしたとき――。
もうもうと熱い白煙が立ちこめ、激しい轟音とともに岩のあった場所から湯の柱が、天にも届けとばかり高く噴きあがった。
「ああ、あ――」
しげみから這いずり出てきたヤギラは空をみあげて、がたがたと震えながらその場にへたりこんだ。
激しい水煙のなかに、赤い鱗を光らせた巨大なクチナワの姿をした神が立ち上がっていた。
姫夜は昂然と顔を上げ、その神にむかって叫んだ。
「いにしえよりこの地を守りたもうてきた古き神よ、鎮まりたまえ。わが願いを聞きとどけたまえ――」
蛇神はかっと赤い口を開き、牙をむきだして硫黄の臭いのする息を吐きかけた。
先の二つに裂けた長い舌がちろちろと姫夜の体をなぶる。
「わたしは神宝、蛇の比礼をもつもの。この契のあかしに免じて、わが祈りを聞き届けたまえ!」
姫夜は蛇の比礼を高くさしあげた。
蛇神は紅く燃える目で姫夜をにらみ、鎌首をもたげて空にむかって咆哮した。ヤギラはハバキにしがみついた。
「わあっ、殺される」
「慌てるな。姫夜にまかせろ――みろ、カミがなにごとか姫夜に告げたらしいぞ」
ハバキがするどく云った。確かに蛇神は姫夜の顔をのぞきこむようにして、目をきらめかせシュウシュウと息を吐いている。
真剣なおももちで蛇神をみつめていた姫夜の顔色が変わった。
「お待ちください、神よ――!」
姫夜はうろたえたように叫んだ。
ふたたび大地がふるえはじめた。大きな水柱が噴き上がり、蛇神は空めがけて一直線にかけのぼった。
「姫夜、大丈夫かッ」
ハバキがかけよって助け起こすと、姫夜は空を見上げたまま喘ぐように云った。
「神はわたしに封じられることを承知された。だが水ノ江の民はゆるさぬと……」
「この揺れは何だ。いったい何が始まろうとしている」
姫夜は色をうしなったくちびるを震わせ、つぶやいた。
「村を泥沼に沈めると云われた。わたしには止められぬ。水ノ江の長に知らせ――ああっ」
ゴゴゴ……と大地が揺れ、ハバキたちのあしもとが割れた!
「危ない、のみこまれるぞ!」
「うわああっ」
割れ目にとらわれたヤギラの体がずん、と地に沈んだ。
ハバキがとっさにその手をつかんだ。
姫夜のうちで、姫夜だけに聞こえる鳥神ケツァルコアトルの声が囁いた。
(神の子よ。そのものを救うてはならぬ。水ノ江の民はカミを捨てた。助ければクチナワの怒りに触れようぞ)
しかし姫夜はくちびるを噛みしめ、おもいきり手をのばした。
「ハバキ――ッ!」
ハバキがその手をつかんだ。大地の裂け目はさらに音を立てて広がり、大きなあぎとのなかに三人を引きずりこもうとした。
「助け――て……足がっ!」
裂けた大地がうねり、ヤギラの足が岩にはさまれた。
「つかまれ」
叫んだとたん、姫夜の背に、めりめりと肉を裂くような激痛が走った。
「ああっ――!」
姫夜の背中にふたつの突起が盛りあがったかと思うと、するどい骨が皮膚を裂いて現れた。それは両側に広がりながらわさわさと羽根が生え、大きな翡翠の翼に変わった。
ハバキとヤギラは夢中で姫夜のからだにしがみついた。土砂の中に滑り落ちながら、姫夜は二人を抱きかかえ歯を食いしばった。
たちまち――鳥神の翼はやすやすと三人を天空へと運んでいた。
「と……飛んで……」
ヤギラの喉から掠れた声がもれた。
みるみる大地の割れ目も祠も小さくなる。
もうもうとわきあがる白煙の中から、カリハたちのいる谷間を目指し、姫夜は一直線に飛んだ。そしてカリハたちには気づかれぬように、背後のしげみに降り立った。
「ここは危ない、すぐに川沿いから離れるぞ」
しげみの中から姿を現したハバキは、すぐに川から離れ、すこしで高台になった方角を目指して退却するように命じた。
「ハバキ、この地響きは何だ? 何があった」
戻ってきたハバキたちの姿を見つけて、カリハは安堵しつつも慌ただしくたずねた。
だがハバキに説明しているいとまはない。
姫夜の背中の翼はすでに跡形もなく消えていたが、衣だけが大きく縦に裂けていた。ヤギラは青ざめてふるえながら、姫夜の腕にすがりついている。
クラトがハヤテの手綱を引いてきた。
「ご無事でしたか! 空馬が駆けてきた時はぞっといたしました」
「クラト、ヤギラが足をやられた。馬にのせよ」
ハバキは短く命じると愛馬に飛び乗った。
「急げ、川が溢れるぞ!」
ハバキたちは駆けだした。
姫夜は川から遠ざかりながら、つい今し方まで水ノ江の民をうるおしてきた川が、タタリ神となって村に襲いかかろうとしている獰猛な気配を、ひしひしと感じ取っていた。
やがて景色は一変した。
ハバキたちは水ノ江の集落を見おろす山の上で、今までそこにあったはずの川が村も村人も飲み込んで、小さな湖沼に変わってしまったのを茫然と見つめていた。フナジは魂が抜けてしまったようにへたりこんだ。
姫夜はぐっと唇を噛みしめ、湖をみつめた。
(なんということだ。モモソヒメは火だけでなく水までも操るというのか。もう一日、いや半日でも早く、このことに気づいていれば――)
姫夜はハバキのそばに寄り、ひくい声でささやいた。
「ハバキ、わたしはこれから神殿へ行く」
「神殿? まだ楼しかできておらぬぞ」
「それでもかまわぬ。蛇神は今宵、そこに現れる」
姫夜は食いしばった歯のあいだから答えた。