4 化鳥(けちょう)
その夜更け。
姫夜は深い眠りから引き戻され、闇のなかで眼を開いた。頭の痛みは薄らいでいたが、そのぶん芯が痺れたようにぼんやりと霞んでいる。
――ヤ……ヒメヤ
低く、囁くような《声》が館の外から姫夜を呼んでいる。
姫夜は床のうえに起きあがり、ふわりと立ちあがると、白い夜着のまま明かりも持たずに外へ出た。
空には満天の星がかかっていたが、草木みな寝静まって鳥の声も聞こえない。
姫夜は立ち止まり、小首をかしげて闇をじっとみつめた。だが《声》は低く姫夜を呼び続けている。
姫夜は岩を安置した場所の前へきた。
燭の残り火が、ジジ、と音を立てた。
姫夜はそのまま何のためらいもなく二つに砕けた岩の前にすわった。《声》を発しているのは確かにその岩だった。
「われを呼んだはそなたか」
みりみりと、岩が鳴った。
どろり、と岩の割れ目から黒い影がしみだした。姫夜がみつめていると、それはみるみる大きくなり、翼をもち、体は蛇の鱗におおわれた、異形の姿に変わった。異形の神は赤い燃えるような眼で姫夜をにらみつけ、翡翠色の翼を広げた。
姫夜は恐れげもなく、異形のものをまっすぐに見あげた。
「翼もつ神よ。なぜわれを呼びたもうた?」
わさわさと翼を打ち振るいながら、黒い影がこたえた。
――そなたは神の声を聞くもの。われの声はそなたにしか届かぬ。
もうもうと、翠の羽毛があたりに飛び散った。
異形の輪郭がゆらいだ。それは形を保っているのがやっとのようにみえた。
「苦しいのか?」
姫夜がたずねると、影はもだえながら姫夜を包み込まんばかりに大きく広がって、闇を引き裂くような叫び声をあげた。
――グェェェェェー
姫夜はそばにあった米をつかみ投げつけた。
影は急速に元の大きさに縮み、翼ある人の形を取り戻した。ぜいぜいと喘ぎながら影はいった。
――ワザヲギの民よ。これは始まりにすぎぬ。聞く耳のあるものは聞くがよい。……さらに大きな禍が、呼び覚まされようとしているぞ。西に女王が立ち、穢れた霊がひとつとなりて、八十禍津日が甦るだろう。
影は振り絞るような声でいった。
「ヤソ……マガツヒ?」
姫夜はぎょっとしたように呟いた。
(その忌み名は滅多なことで口にしてはならぬ。それは滅びをもたらす神の名、あるいは厄災そのものの名なのだよ)
(その神はどこにいるの?)
(怖がることはない。その神は今、水底で眠りをむさぼっておられる)
(水底に――?)
(そう。その神は世にも麗しい姫神なのだよ。そして女神の真の名を知るものだけが、その神を目覚めさせることも、ふたたび水底へかえすこともできるのだ。その名はわれらワザヲギの民だけに伝えられている。ようく覚えておかなければいけない。その女神の名は――)
(その女神の真の名は――)
鋭い叫びが、姫夜をうつつに呼び戻した。
――……西の女王はこなたらを探しておるぞ。
異形の神の声に姫夜ははっとなった。
「今何と云った。兄が生きているのか! どこだ、どこにいる」
だがいらえはなく、ふたたびゆらゆらと揺れ、うめきだした。
――オオ……このままではわれは漆黒の霧となり果て、未来永劫、荒れ野をさまよい這わねばならぬ……行きとうない……ナイ――
影はもだえ、よじれ、向こうが透けて見えるほどにうすれ始めた。
――オ……ウウ……ミヌチガ焼ケ爛レル……ケガレ神ニハ、ナリトウナイ……
「待ってくれ。その前に答えて。どうしたらモモソヒメの企みをくいとめることができる? 女王はなぜわたしと兄を――」
ぐわりと、影は姫夜の上に覆い被った。昏い声が囁きかけた。
――ワレヲ、食ラエ。
姫夜は息を呑んだ。
――ソナタハ知ッテイヨウ。神トマグワウ方法ヲ。ワガ血ト骨ヲ、ソナタノ血ソナタノ骨トナセ。モモソヒメヨリ先ニ、古キ神々ヲ集メヨ。
「……それで、そなたはケガレ神とならずにすむのか」
――ソウダ、ソウダ! ソレデ我ハ、《ケツァルコアトル》ニ戻レル……
それは異国の神の名だったが、ワザヲギの民である姫夜にははっきりと聞き取れた。
(もしそれで兄さまの消息がわかるなら……)
影は刻一刻と薄れて臭気が甘さを増している。もう迷ってはいられなかった。姫夜は意を決したように立ちあがり、影にむかって一歩進み出た。
――言霊ヲ!
姫夜はさらに一歩前に出ると、右手を手刀の形にかまえ、九つの言霊を唱え投げつけた。
「青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女」
ケェェェェェーー
鳥神はくちばしを開き、両の翼を大きく広げた。
姫夜は母が子を抱こうとするように、もろてをさしのべた。
黒い影は歓喜に打ち震えながらのびあがり、一気に姫夜に飛びかかった。
影は姫夜をおのれのうちに溶かしこもうとするかのように、ざわざわと蠕動していた。
甘い戦慄が姫夜の体を貫く。
その千の触手が顔も体もすっぽりと包みこみ、姫夜の体が大きくのけぞり――
*
部屋に姫夜がいないのに気づいたハバキは、すぐにおもてへ出た。そして姫夜が注連縄を張りめぐらした結界の中に立っているのを見たのだった。
ハバキはあたりを見まわし誰もいないのを確かめてから、姫夜を抱きあげると、館に連れ帰った。
しとねに死んだように横たわっている姫夜の顔を、じっとみおろす。
(あれは、幻ではなかった……)
たしかに翼を広げた巨大な化鳥が姫夜に覆い被さっていた。ハバキが剣を抜いて駆けよった時には鳥の姿は消え、姫夜は倒れていた。
化鳥が姫夜を襲ったのか。それとも――
(姫夜が化鳥を喰らったのか――?)
ハバキは端麗な寝顔をみつめながら、けわしい面持ちで考え込んだ。人の心をとろかし、精を喰らう麗しき民――それがワザヲギの民の真の姿なのだろうか。
そのまま夜が明けた。
気がつくと、まぶしい白い光が板戸の隙間からさしこんでいる。
見ると、姫夜の寝息も安らかなものに変わっていた。むしろあどけないと云っていいような、可愛らしい顔だった。思わず手をのばし、汗で額にはりついている長い髪をそっとかきあげた。
姫夜は小さくうめき、兄さま、とつぶやいた。
ハバキは大きく息を吐き出すと、立ち上がり静かにおもてへ出た。
雨水をためた大甕のそばで、着ているものを脱ぎ捨て下帯一本になると、柄杓でざぶざぶと頭から水をかぶった。
冷たい水が肌の上ではじけ、ハバキは獣のようにからだをぶるっと震わせた。
ハバキは、裸のまま草の上にごろりと大の字になり、手足を伸ばした。
薬草の籠をかかえた那智が梅の木の下に立っていた。那智はハバキのそばにすわって、摘んだばかりの薬草を寄り分け始めた。
「ハバキさま、覚えておられますか。母君が亡くなられた晩のことを」
「母者が? 俺は五つかそこらだっただろう」
「はい。真夜中に一人で館を飛びだして、朝になっても戻らなかった。あのときのクラトどののうろたえぶりときたら――」
「おぼえていないな」
「お戻りになったのは三日目の朝でした。館の外から声がして、出てみると、ハバキさまが喉を裂かれた灰色の狼をかつぎ、燦々と朝日を浴びて、笑いながら立っていらした。イスルギ様がお叱りになると、この狼が母者の御魂を連れ去ろうとしたので殺したのだ、とお答えになった。それで父君は二十回鞭で打つところを十回でお許しになったのです」
「ああ、それで思い出した。あのあと、三日も馬に乗れなかった」
ハバキは笑った。
「まったくあなたさまには手を焼かされたものです」
「――なぜそんな話をする」
那智は風に吹かれながら、微笑した。
「あなたさまはご自分には神に祈る力はないとお考えのようですが、わたくしから見ればそんなことはない、ということです」
ハバキは腕を枕にじっと明るい空をみつめていた。
ざくざくと土を踏んで大股に近づいてくるものがあった。
カリハは、ハバキがおしげもなく裸身をさらしているのを見て軽く舌打ちした。
「ハバキ、そのなりは何だ。相変わらず餓鬼だな。長が呼んでいるぞ」
「親父どのが? こんな朝っぱらから、いったい俺に何の用だ」
「知るか。云うなといわれたのだが、教えてやる。藤ノ森、水ノ江、室生の長も来ているぞ」
ハバキはばねのように跳び起きた。
「それを早く云え」
それにトウノミネを加えれば、カツラギの五つの里の長がそろうことになる。立ち上がって脱ぎ捨てた衣でからだを払った。
「那智、今夜は戻れぬかもしれぬ。すまぬが頼まれてくれ。カリハとともに、姫夜の様子を見舞ってやってくれぬか」
そういうハバキの顔からは迷いは消えていた。
カリハがぶつくさと文句を云った。
「何故おれまで?」
「見張りがいると云ったのはカリハだろう。それからその派手な上着を貸してくれ」
「派手で悪かったな」
ハバキは笑って朱雀の上着を羽織ると、イスルギの館にむかって歩き出した。
✳︎
「このように見苦しい姿をお目に掛けることを許していただきたい」
床の上に起きあがったイスルギは、長たちにむかって頭をさげた。
「あとひと月で神殿は完成する。そのときこそわしはカツラギの長の座をハバキに譲るつもりでおる」
ハバキはカツラギの長であり父であるイスルギのとなりに腰をおろした。すでに、近隣の主立った里の長らは輪になってすわり、ハバキの来るのを待っていた。
室生の里からきた八束は四十を越えた男盛りで、日に焼けて横にどっしりとした丸太のような頑健な体つきだ。水ノ江のフナジは対照的に痩せて顔が長く、ひょろりと細いひげを生やし、ナマズのようなぬめりとした顔をしている。
ぎょろりと目玉の大きな藤ノ森の佐古田はイスルギの腹違いの弟で、ハバキの叔父にあたる。五十を超えて、頭を坊主に剃り、太って太鼓腹になりつつあるが、かつてはイスルギといっしょに戦った仲間でもある。ハバキは幼いころからこの二人の背中を見て育ち、おのれもいつか彼らのような戦士になるのだと思っていた。
だからといって、ハバキには臆する様子は微塵もない。今度の戦さで一番の働きを見せたのはハバキだったし、そのことはイスルギらも認めていたのである。
イスルギの言葉を引き取って、佐古田が云った。
「みなも知っての通り、その神殿はただの飾りではない。隣りあう氏族が一丸となってモモソヒメの軍に立ち向かうための、堅固な砦ともなるものである。われらはそれぞれここに持参してきた宝を神殿に奉納することで、その結束のあかしとする。これに相違ないな?」
宝とは室生の足玉、藤ノ森の生玉、水ノ江の比礼、トウノミネの鈴、そしてカツラギの剣だった。
「応」
長たちはそれぞれに厳しい面持ちでうなづいた。
「トウノミネの長は遅いな」
ハバキが低い声で云うと、佐古田は咳払いした。
「トウノミネの長も高齢ゆえに、沙耶姫が来ることになっておる」
「ハバキどの」
室生の八束は射るような視線をハバキにむけた。
「神殿ができれば神事をとりおこなう神司を決めねばならぬ。その神司はハバキどのが無事見いだされたと聞き及んでおるが、まことかな」
「ああ。その通りだ」
「果たしてこなたが見出したというカンナギは、まことに神司となる神威とわざとをもった者なのか」
「会えばわかる、としか、云いようがない」
ハバキは憮然とした顔で答えたものの、いささか歯切れが悪いのはたしかだった。姫夜は予言はしたが、この里のカンナギになることを承諾はしたわけではない。
イスルギは何を思ってか、皺深いまぶたを閉じたまま何も云おうとしない。
(この程度の修羅場を一人で切り抜けられねば長など、ましてや王になどなれぬと云いたいのか)
その時、足音高く入ってきたものがあった。
目鼻立ちのはっきりした美女である。上背もすらりと高く、剣で鍛えているのか肩幅も女にしては広くがっしりとしている。腰に長剣をさげ、髪もきりりと結い上げた男のなりがよく似合っている。
沙耶は長たちの視線を受け止めて、余裕の笑みを見せると、剣を左手に持ちかえて末席に腰をおろした。
「遅くなり申した」
「これはトウノミネの姫。父君のお加減はその後いかがかな」
イスルギが座を代表してたずねた。沙耶は優雅に頭をさげた。
「ご丁寧な挨拶いたみいる。だが今日ここに集ったのは父の話をするためではない」
沙耶は、凛と声を張った。
「トウノミネの長としてお尋ねする。われらの結束の要となる新たな神殿のカンナギについてである」
沙耶はハバキより一つ年上だが、この場の空気をつかんだやりかたは鮮やかだった。
「どんなおたずねかな?」
イスルギが問うた。
「そのカンナギは、ハバキどのが王となられると予言したと聞いた。すなわち、われら五つの里をまとめてクニと成す、と受け止めてよろしいのか」
イスルギは慇懃にうなづいた。
「その通りじゃ。ここにいる長がたらにはすでに諾との返事を得た。もとより、力をあわせねば、われらに勝機はない。沙耶どのはそのこと、承知か否か」
沙耶は一同を睨めつけ、すこし間をおいて答えた。
「承知、と云いたいところなれど、ひとつだけお聞きしたい」
「なんでござろう」
「西の女王はおそろしき鬼道をあやつるとか。そのカンナギがまことモモソヒメをしのぐ力を持つと判断された、根拠を問いたい」
思いきった問いに、みなちらちらと顔を見合わせた。腹の中では長のだれもが一度はおのれの目で確かめねばと思っていることは、ハバキにもはっきりとわかった。
ハバキは沙耶を睨みつけた。
沙耶はすましてハバキを見返した。
「さあ、返答やいかに」
「さあ」
「さあ」
佐古田がちらりとハバキを盗み見た。ここで即答せぬわけにはいかなかった。
ハバキが口を開きかけたとき、イスルギが太い声で云った。
「たしかに姫夜というカンナギは、まだ齢十四。あまたの戦いを経て女王となったモモソヒメと比べれば、頼りないと思われるのも無理はない。しかし過日、わしはこの目でみたのだ。あのカンナギにカツラギの姫神が降りたもうたのを」
病人とは思えぬ大音声だった。姫神ということばに、みなぞくりとしたように身を震わせ、そっと目をふせた。
沙耶がするどくたずねた。
「カツラギの姫神は――厄災とともにある恐ろしき禍津姫と聞いております。まことにその姫夜に神が降りたもうたとして、それは目出度きことといえましょうや?」
「確かにかのものも戦さのただ中に現れた。だがこう捉えてはどうか。モモソヒメはみずからを日の女王と呼んでいる。そしてカツラギの神は水の姫。日すなわち火をしずめるものは、水。わしは長として、老い先短い命をこの占に賭けてみようと思うておる」
しわがれてはいるが力の溢れる声に、一同はしんと、静まりかえった。
「沙耶どのには、この老いぼれの言葉で得心いただけようか」
沙耶は両手をついて、額を床にこすりつけた。
「ご無礼を申し上げました。なにとぞ、若気の至りとおゆるしくださりませ。ハバキどのにも、長のみなさまがたにもお詫びを申し上げまする」
ほっと、一座の緊張がほどけ、そのあとは旧交を温めあう内々の祝宴となった。
ハバキはすぐにも取って返したいところだったが、年長者をさしおいて早々に立ち上がるわけにもいかず、運ばれてきた酒で一人黙々と飲んでいた。
沙耶も父の病を理由に帰るかと思われたがその場に残っていた。酒も強いのか、いくら飲んでもいっこうに顔色が変わる様子がない。
(こういう強面の女は苦手だ)
とハバキはこっそり思っていた。それが顔に出たのか、八束が揶揄するように云った。
「若長どのは妻問いはされぬのか。わしがそなたの年頃にはもう三人の妻に五人の子を産ませておったぞ」
「戦さゆえ、それどころではありませぬ」
ややむっつりと、ハバキはこたえた。
「戦さというなら、そこな姫などどうであろう。剣の腕も確かと聞くぞ。いくさ場で並んで立てば似合いではないか」
八束はにやにやした。
イスルギが黙っているので、しょうことなしにハバキは答えた。
「沙耶どのとて血を見るのがお好きなわけではありますまい」
「はい。血は嫌いにございます」
沙耶は婉然と微笑んだ。
「なれど戦さは刀や弓矢のみでするものにあらず。我らがキビのごとき大国に立ち向かうには、策も肝要かと心得ます」
策と聞いて、ハバキはあらためて沙耶に視線を向けた。八束が揶揄を含んだ声で質す。
「沙耶どのには良い策がおありと見える。この八束にもお教え願えるかな」
「わたくしならば、間にある国と手を結びます」
沙耶がさらりとこたえると、佐古田がほうと、身を乗り出した。
「地の利からいえば、ナミハヤ国、カワチあたりか。しかし今回の戦さでも兵を出すことに応じなかった国がやすやすと我らと手を結んでくれようか」
「それは我らの力をはかっていたのでありましょう。こたびのハバキさまのお働きによって、彼奴らにも我らがただの寄せ集めではないことがわかったはず」
沙耶はにっこりしてみせた。
ハバキは黙って考え込んだ。
(なるほどな。よく考えている。それにひきかえ親父たちは鼻の下をのばしてだらしのないことだ)
「さっきから見ていれば酒は強いが愛想がないのう。ハバキ、なんとか云ったらどうだ」
佐古田がハバキの脇腹をこづいた。
「イスルギはああ見えて硬いからの。女の扱いについてはとんと教えなんだのであろう。よいか、ハバキ。女あいての戦さには押しの強さも肝要ぞ」
「押し、か」
「そうよ。贈り物もいい。女子どもは髪飾りや花や、やくたいもなきものを喜ぶ」
だが、ハバキはこれ以上、説教にも酔いにも身を委ねるような気分ではなかった。
「酔い申した。風にあたってまいりまする」
ハバキが立ち上がると、何故か沙耶姫も立ち上がった。
「お嫌でなければおとも致します」
「かまわぬが」
ハバキは長たちのはやしたてる声を無視して、悠然と表へ出た。
もうすぐ夏とはいえ、夜風は涼やかで頬に心地好かった。
意外にも、先にすなおな声でわびたのは沙耶のほうだった。
「先刻はいきなりあのような仕儀になり、すまなかった。すぐに長になるもの同士、前もって話しておくべきだった」
「いい。どうせそなたが口火を切ること、親父は承知していたのだろう」
「気づいていたか」
「親父はまだ俺を一人前とは認めていない。まったく余計な助け船を出してくれたものだ」
ハバキは苦笑いすると、沙耶はほっとしたような顔をした。
こうして会って語らうのは八年ぶりだった。それまではたがいに親に連れられて、大人が館で話し合っているあいだ外で遊んだり、時にはつかみ合いの喧嘩もしたりしていたのだが、長ずるにつれて、しだいにそれもなくなっていた。
「よかった。嫌われたかと思った」
「神司の話は別だぞ。俺は誰がなんと云おうと、他のカンナギを立てるつもりはない」
「負けず嫌いも変わっていない」
沙耶はいたずらっぽく笑って、さりげなくハバキと肩を並べた。
「まことに信じているのか? そのものがカツラギに勝利をもたらす姫神だと」
「そうだ」
ハバキの声に迷いはなかった。
眼を閉じさえすれば、即座に姫夜が見せてくれた丘の上の光景がまざまざとよみがえる。たしかにあの丘の上で、自分が王であり、モモソヒメと対峙していた。そして、となりには白馬にまたがった姫夜がいた。
沙耶はちいさくため息をついた。
「その者と会って話してみたかった。どうも損な役回りを引き受けてしまった」
沙耶は小石を拾って、池に投げた。石は水面に完璧な輪を描きながら三度跳ねて、沈んだ。
「そんなことはない。沙耶姫とも早々に轡を並べて戦う日がくる」
「そうか?」
「そうだ」
沙耶はじっとハバキの精悍な横顔を見つめていたが、それで気がすんだのか、さばさばとした口調で云った。
「久しぶりに話せてよかった。次はいくさ場で会おう」
ハバキはうなづいた。沙耶はにっと赤い唇をほころばせると、踵を返し、闇の中をざくざくと土を踏んで館の明かりのほうへと戻っていった。