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20 禍津日

いよいよ大詰めです!

 姫夜が両手でかき抱いたはずなのに、兄の姿は三歩先に立っていた。


「兄さま」


 姫夜が呼ぶと、ケガレ神――伊夜彦はふりかえった。伊夜彦のからだは淡く透き通って、かつて見た、別れたときと同じ美しい兄の姿だった。そのかげに隠れるようにして、少年の姿に戻ったヤギラがいた。ヤギラはうっとりと伊夜彦を見上げている。


「ここがどこかわかるか?」


 伊夜彦はやさしい声でたずねた。姫夜はあらためてまわりを見まわした。

 暗い坂だ。うすい靄がゆっくりと流れている。

 この風景には見覚えがあった。姫夜はつぶやいた。


黄泉比良坂よもつひらさか……」

「そうだ。黄泉へと続く、現世うつしよとあの世のあわいにある坂だ」


 伊夜彦はゆっくりと歩き出そうとした。


「お待ちください。なぜ兄さまはケガレ神になられたのです? あのあと何があったのです。モモソヒメは――」


 姫夜が我に返って叫んだ。その性急さをたしなめるように伊夜彦は立ち止まって微笑むと、ふたたびすべるように歩き出した。姫夜はあわてて後を追った。

 伊夜彦は云った。


「あの日、わたしがケガレ神を封じにいったのは覚えているね。ケガレ神となって地をさまよっていた神はひとつではなかった。わたしはそれらを封じるのに幾日もかかってしまった。そしてようやくすべてこの身に封じ終えたときには、もう力尽きかけていたのだ」


 伊夜彦はことばを切って、姫夜をみつめた。


「そのまま黄泉へ下って行くはずだった。ケガレ神も黄泉で安らえば、清らかな息吹を取り戻し、いつかまた、生き直すことができる。だが――モモソヒメはそうさせなかった。あの女王はわたしを黄泉から引きずり戻したのだ」

「まさか、そんなことができるはずが――」

「あの女は死返まかるがえしの玉をつかったのだ」


 死返の玉。神宝のうちのひとつだ。姫夜はぞっとしたように身をふるわせた。冷たい風が頬を撫で、ふわりと髪をなびかせた。


「わたしはあの女王のもとでふたたび息を吹き返した。だが、からだはケガレを内にとどめておくことができず、なかば喰われ、み崩れた。それがおまえたちの見たあの姿だ。わかるだろう――? どうしても、わたしは黄泉へ行かねばならぬ。それには、そなたの力を借りる必要があった。だから、モモソヒメの命ずるままに神門をくぐってカツラギの地へと降り立ったのだ」


 伊夜彦のことばは怒りも悲しみも、死すらも超越したように淡々としていた。


「わたしの力? どういうことです、なにをおっしゃっているか、わたしには――わかりませぬ」


 姫夜の声はふるえた。


「そなたはもうわかっているはずだ。姫夜」


 伊夜彦が立ち止まりゆらりと振り返った。

 あたりを包む闇はいっそう深くなっていた。


「もうこのあたりまで来ればよいだろう。教えたはずだね。その名を唱えるときがきたのだ。すべてを祓い流し去ることのできる女神の御名を。女神を呼び出す祝詞のりとを――」


 姫夜は全身の血の気が引いていくような思いに激しくあらがって叫んだ。


「どうして――なぜ、兄さまが逝かねばならないのです。せっかくこうしてお会いできたのに――それに、この厄災はモモソヒメが生み出したもの。それなのに何故! わたしには……できない、わたしには――」

「姫夜、聞きなさい」

「いやです! 生きていれば、ふたたび相まみえることができると、わたしはそのことばだけを信じて――」


 二人のまわりの闇がさざなみのように揺らいだ。何かがこの空間に干渉してきたのだ。姫夜ははっとしたように兄の袖にすがった。


「姫夜――!」


 それはハバキの声だった。ふりかえって姫夜は大きく目を見開いた。

 たしかにそこに立っているのは、白くかがやく白銀の鎧をつけたハバキだった。同じく光り輝く抜き身の剣をひっさげ、けわしい顔つきで姫夜と伊夜彦をにらみつけている。伊夜彦やヤギラの姿は向こうが見えるぐらい透き通っているのに対し、ハバキの姿はくっきりと、手をのばせば触れられそうなほどはっきりとして、熱さえも発しているかに見えた。


「どうしてここに……?」


 あえぐように姫夜が云った。伊夜彦が微笑してささやいた。


のものがそなたの王だからだ。見よ。蛇神が守っている」


 たしかにハバキを取り巻いている光のなかにうっすらと、鎌首をもたげている堂々たる蛇の姿が見えた。蛇のからだはうねうねと限りなく細く上へ、上へとむかって伸び、その光の帯の先ははるか地上へと続いていた。


「蛇神がここまで導いたのか……」

「姫夜、そいつから離れろ」


 ハバキはけわしい声で云って、きらめく剣を両手に握り、かまえた。姫夜は懇願した。


「これは兄だ。どんな姿になろうともわたしの兄なのだ」

「そうだろう、だがこの世のものではない。思い切れ」

「いや! お願いだから、ハバキ……」

「なにを願う。兄の命か。死んでも生きてもおらぬおぞましき姿でさまよわせておきたいのか」


 伊夜彦はしずかにハバキを見つめている。


「おまえが渡せぬなら俺が引導を渡してやる」

「いけない!」


 姫夜が叫ぶのと、ハバキが激しく剣を繰り出したのとは、同時だった。

 伊夜彦とハバキのあいだに割って入った姫夜のからだは、白く輝くハバキの剣に貫かれていた。


「ハ……バキ……!」


 ハバキは、驚きにゆがんだ顔で姫夜を見つめた。かすれた声で問う。


「なぜだ」


 ゆっくりと崩れ落ちてゆこうとする姫夜のからだを伊夜彦がゆらりと両腕に抱きかかえた。


「さあ、今こそ云うのだ。八十禍津日やそまがつひと呼ばれた姫神、瀬織津姫せおりつひめを呼び出す祝詞を」


 伊夜彦が姫夜の上にかがみこんで耳元でささやいた。

 姫夜は急速に乳白色の霧におおわれてゆく意識のなかで、その言霊ことだまを息吹にのせた。


「上津瀬ハ瀬速シ。下津瀬ハ瀬弱シ」


 ――と。どこからかこんこんと湧きだす水の音が聞こえた。

 それは剣がささったまま横たえられた姫夜のからだから、聞こえていた。そして、みるまに大きな音を立てて澄んだ水が青い滝のように溢れ出した。それはみるみるかさを増して、さかまく大河となった。


 姫夜はうすれゆく意識の中で必死に目を見開いた。


(最期にひとめ、ハバキの姿を)


 最期に願ったのは、兄ではなく、ハバキの姿だった。そう知ったら、ハバキは許してくれるだろうか。

 激しい流れのむこうにハバキが立ちはだかり、声を限りに叫んでいるのが見えた。

 ハバキは無事だ。

 姫夜は微笑し、目を閉じた。あとは冷たい流れに身をゆだねればいい。力強い水の流れがおのれをからだを包むのを姫夜は感じた。

 甘い懐かしい、匂いがする。

 死とはこんな匂いがするものなのか。


(兄さま)


 せせらぎの音に心まで洗われ、やわらかな母の、あるいは女神の胸に抱かれたように体が軽くなった。

 このまま黄泉へゆくのか。おのれが空気のように軽く、透明になってゆく。もう血も戦いも見ることはないのか。果てしない心地よさの中でそう思ったとき、伊夜彦の声がした。


(そなたの予言は成就していない。そうだろう)


 兄は何を言っているのだろうと思った時、唐突にあの幻視が脳裏によみがえった。

 

 小高い丘の上。

 熱い風に、一面、緑の草がなびいている。

 ハバキは輝く白銀しろがねの兜をかぶり、漆黒の馬にまたがって、はるか遠くを見晴るかしていた。そのすぐかたわらには白馬にまたがった姫夜がいた。


(使い魔たちを現世うつしよに残してきてしまった。そなたにまかせる)


 やさしい兄の手が姫夜の額にはりついた髪をそっとかきあげるのを感じたように思った。姫夜は、ありったけの力を振り絞って、おのれの手首から生玉をはずし、兄の手に握らせた。


(兄さま、この玉を)


 伊夜彦はかすかにうなづいたように見えた。

 全身から力が抜けて、体が泡のように透き通ってゆく。


(ハバキ……すまぬ。帰ると誓ったのに。やっぱりひどく怒るだろうな。わたしの王は……)

(――夜)


 遠のく意識の向こうでかすかに呼ぶ声がする。


 と、激しい水の流れが意思あるもののように姫夜の体を力強く、だがそっと岸辺におしあげた。

 すべてが白い闇におおわれた。


   ✳︎


 姫夜はハバキの力強い腕のなかに守られ、抱きかかえられていた。

 聞き覚えのある若者の声がいった。


「ハバキさま、砦から助けを求めるのろしがあがっております――きっとあのケガレ神が放った妖しが砦を――」


 違う。あれはケガレ神などではない――姫夜は叫ぼうとして、目を開いた。


「姫夜、戻ったか!」


 ハバキは満面を加賀屋がせて、姫夜を強く抱きしめた。


「ハバキ……」

「死んだかと思ったぞ。もうに度とあの坂から引き返すことはできないのかと――」


 ハバキはおそれにふるえる声を隠しもせず、云った。

 姫夜はもう一度まばたきして、しっかりと周囲を見ようとした。川も坂も消えていた。そして伊夜彦の姿も。あの甘い匂いも消えていた。あたりは乾いた汗と血潮と、鍛えられた鋼、火矢の焦げるにおいでいっぱいだ。懐かしくもおぞましい、この現世うつしよに姫夜は戻ってきていたのだった。

 ハバキが気遣わしげにたずねる。


「立てるか?」

「ああ……」


 ハバキに助けられ、姫夜は立とうとした。だが大地をふみしめていることができず、ぐらりとよろめいた。

そばに血だらけの那智がぐったりと横たわっているのを見つけて、姫夜はぎょっとした。


「俺をかばったときに、あの妖しにやられたのだ」


 ハバキがひくく云った。

 あちこちで兵士たちが倒れ伏し、血を流しながらうめいている。怒濤のように現実が押し寄せてきた。使い魔を残してきたと伊夜彦が云ったのは、このことだったのだ。ふいに覚醒するように、姫夜の身体に力がみなぎってきた。

 姫夜は那智のそばにひざまづき、心の臓が動いているのをたしかめ、立ち上がった。炎に焦がされ赤く燃える空を見上げ、しっかりとした声で云った。


「ハバキ、行こう。行って使い魔たちを封じよう」

「もう動けるか」

「ああ」


 ハバキの姿を、昇り染めてきた日が照らし出した。白銀の鎧が朝日にあたって燦然と輝いた。


「ならば行こう」


 姫夜はうなづいた。

 モモソヒメがもたらした厄災を、終わらせなければいけない。すべて。この手で。

 二人は、ハヤテとイザヨイに飛び乗って朝日の光のなかにむかって駆け出した。

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