1 幻視
「いつからそこにいた」
鋭い声が姫夜を覚醒させた。顔をあげようとして、硬直した。目のまえに、血濡れの鎧を着た男が立っている。頬にぴたりと白銀の剣がおしあてられていた。
一瞬、神門を《跳ぶ》ことに失敗したのかと思い、すばやくあたりの景色をたしかめた――姫夜は大きな石の柱に、ぐったりと背をあずけるようにしてすわっていた。それは石室ではなく、天を衝くようにそびえたっている一本の柱で、そのまわりをぐるりと取り囲むように、細長い石が地面に放射状に敷きつめられている。
ヒュウガで神門にとびこんだ時は夜明けごろだったのに、日は空の西に傾きかけて青い闇に包まれていこうとしている。見えている山々の形も配置も違う。ヒュウガでは空は広く、山はなだらかだったのに、ここでは山が折り重なり、青垣のように見える。
ここへ来てから気を失っていたのか。
空気は夜気をふくんで、しっとりと冷たく、吸いこむと緑の匂いでむせ返るようだ。
「答えよ。俺がここに来た時には、水の女神にかけて人の姿はなかった」
男がするどく繰り返した。
姫夜は自分のうちにわきあがってくる狼狽をおさえるのに必死で、こたえることなどできなかった。ことばはわかる。
だが、男の剣の柄に彫られた唐草の文様も、刃の反りも形も、姫夜が知っているものとは違っていた。いったい、ここはどこなのか。
じわりと手のひらに汗がにじんだ。
男は云った。
「おかしい。酒を喰らって眠りこけていたのならともかく、俺はずっと眼を覚ましていた。空を飛んできたというなら話は別だが」
折しも山間に沈んでゆく金色の夕映えの光が、男の姿をくっきりと浮かびあがらせた。
男が身にまとっているのは白銀のさねをつないだ、精巧な鎧であった。どっぷりと血に染まってはいるが、傷はなく、返り血らしい。
男は怖ろしく背が高かった。優に六尺近くある。異形といっていいほどだ。鎧の下には無駄をそぎ落とした筋肉が、はりつめている。もし姫夜が不審な動きを見せればその剣はただちに一撃で獲物の首をはねとばすだろう。その鎧といい、荒々しさのなかに見える気高さといい、この男が雑兵でないのは確かだ。
見るものをまっすぐに射抜く鋭い眼は、水のごとく澄んで、深い輝きをたたえている。
姫夜はしばし呆然と、その輝きに見入った。
かれは、姫夜の瞳のなかに敵意ではないものを、敏感に感じ取ったらしかった。そして、大胆に姫夜のほっそりしたおとがいをつかんだ。
するどい目が、このあたりの童にはありえない、透き通るような白い肌、長いまつげにふちどられた大きな瞳、美しくくしけずられた長い髪、そして衣服にあてられる。
男は手を離して、微笑した。
「このあたりでは見かけぬなりだな。そなたはカンナギか?」
姫夜の着ているものが、高貴なものだけが身につける薄くなよやかな衣であり、手首の玉も輝きや形が並みのものではないのを見てとったらしい。男はあっさりと、剣を革鞘に落とした。
「安心しろ。俺の他はたれもおらぬ。しばらく誰も来るなといってある。いささか殺しすぎたのでのぼせを冷ましていた」
男はがちゃりと鎧を鳴らしてそばの岩に腰をおろした。
「嘘かまことかは知らぬが、この磐座は神が作ったものとか。もしそなたが神の使いなら、この戦さの先行きを占うてはくれぬか」
姫夜に伊夜彦のような強い霊視の力があれば、ただちにこの男が何を好み、なにを恐れ、なにを望んでいるのか、知ることもできたろう。だが姫夜の力は、芽吹き始めた双葉のようなものだった。予知はたまさか夢に現れるだけで、神意を問うには精進潔斎し、いくえにも玉垣をめぐらせ光を閉ざした宮に、何日も籠もらねばならなかった。
それよりは父や母や兄の前で、無心に舞いを舞っている方が好きだった。
(――それでも、ここは神門。占だけならできるかもしれぬ)
ふと、そんな思いがよぎった。
神を喚び降ろすには鈴、鏡、剣など憑代となる神宝が必要だが、ここは神域であり聖地である。占を行うにこれ以上ふさわしき場所はない。そう思えた。
姫夜は思いきったように顔をあげ、はじめて言葉を発した。
「わたしは姫夜。そなたは名はなんという」
男は先に名のった姫夜を驚いたように見た。
そして、整ったおもてをひきしめ、右のこぶしを心の臓にあてて云った。
「俺はカツラギの将、ハバキ」
姫夜は目眩をこらえるように眼を閉じた。
カツラギの一族はカツラギ山のすそので、大きな力を持ちつつある豪族の名だった。が、むろん姫夜は知らぬ。
「――目指す敵の名は?」
「キビの王、イズモの王、そしていずれはその先にいるヒュウガのモモソヒメだ。今はまだ直接攻め込んできてはおらぬが、あまたの西の王を次々と平らげ、女王として名乗りをあげたと聞く」
姫夜は愕然とした。モモソヒメはすでにヒュウガの女王と目されているのだ。
だが、この戦神のような若者の表情は、怖れなど微塵もなく、生き生きとしている。
みすみす滅ぼされるのを待っているわけではなさそうだ。
姫夜は凛とした声で云った。
「占は神のことばだ。一度占えば、大なり小なりそなたの運命は占に縛られることになる。どんな結果が出ても悔いぬと誓えるか」
ハバキは、深く澄んだ瞳でじっと姫夜をみつめた。その口もとに不敵な笑みが浮かんだ。
「悔いたりなどせぬ。何故かはわからぬが、そなたは信じられると俺は思う。そして俺は俺の直感を信ずる」
熱く、まっすぐな言葉だった。
姫夜は立ちあがった。
「いいだろう――ハバキとこの戦さの行く末を神に問おう」
神門に神は降りたもう。
姫夜は石の柱にむかって叩頭し、瞑目した。
ハバキはそのそばにひざまずき、こうべを垂れた。
姫夜はかつて、父と母から教わった通り、波だった心の水面がないでゆき、すっかり鎮まってうつろになるまで、細く、深く。息を吐き、吸うことをくりかえした。
「かけまくもかしこきアマツカミ、クニツカミ、八百万の神たち、その従え給う千五百万の神たち……」
くりかえしとなえるうちに、じんわりとあたりの空気が熱を帯び、姫夜の体はほのかにうす紫の微光を放ちはじめた。姫夜は神降ろしの言霊を唱えつづけた。
涼やかな声が寄せては返す。
その言霊に身を委ねるうちに、ハバキの体もわずかに前後に揺れだした。
姫夜もまたおのれでも気づかぬうちに、同じように上半身を揺らしていた。
磐座全体がかすかにうなりをあげていた。
だが二人はあまりにも深く、祈りに入りこんでいたので、気づかなかった。
磐座の中心にそびえ立つ石の柱が、白い光を帯びた。ぶーんという、蜂の羽音のようなうなりにあわせて、その光は下から上へと走った。姫夜はひたすら祈り続けた。
みるみる光は速度をまし、はじけて、二人を包んだ。
足下の大地がぐらりと大きく揺れ、消えた。
二人は声にならぬ叫びをあげて、虹色の光のただなかに放り出された。
とっさに二人は激流のなかで離ればなれにならぬようにたがいの腕をつかみあった。
そのまま二人の体は虹の瀧のなかを《落ちて》いった。
なんの前触れもなく、二人の前にゆらめく幻が現れた。それはそびえたつ真木柱と巨大な高楼をもつ宮であり、その高楼の上には、白銀の鎧をつけた背の高い男神と、長い裳裾をなびかせた女神と見まがう人影があった。
と、幻は光のなかにかき消え、二人はふたたび落ちていった。
しかしどこへ向かっているのか。流れはどこまでも果てしなく続くかと思われた。
そして唐突に目も眩む光が消え――
二人は小高い丘の上にいた。
熱い風に、一面、緑の草がなびいている。
ハバキは輝く白銀の兜をかぶり、漆黒の馬にまたがって、はるか遠くを見晴るかしていた。そのすぐかたわらには白馬にまたがった姫夜がいた。
そして二人の両側には見渡すかぎり、槍や矛をたずさえた兵と、色も形もさまざまな兜をつけた騎馬の兵とが並んでいた。
夢と呼ぶにはすべてがくっきりとして鮮やかすぎた。草の一本一本は翠玉のごとくきらめき、鎧の放つ光は目を焼いた。
幻のなかのハバキが、するどい声でなにかいった。
その指さした先に、二頭の馬がひく天蓋のない馬車に乗った、朱い鎧の女が立っている。
その女――モモソヒメとハバキとは遠くから、たがいに睨み合っていた。
湿った風が平野を渡ってゆく。灼熱する陽射しが容赦なく大地を焼いて、かしこに蜃気楼が揺らぎ立っていた。
ハバキは天にむかってすらりと剣を抜き放った。
その瞬間――ふたたび景色がぐにゃりと歪んで、虹色の光の波がすべてを押し流した。
二人は、もといた石の柱のそばに折り重なるように倒れていた。
ハバキがうめきながら、身体を起こそうとした。
「くそっ……体が、ばらばらになったようだ……。今のは、いったい――」
いいかけて、おのれのたくましい身体が華奢な姫夜を押しつぶしそうになっていることに気づき、なんとか地面に手をついて、ごろりと横に転がった。
「あの宮、丘の上の兵たち――おまえも見たか」
「見た……夢ではない。たしかにあれは、神の見せたもうたものだ……こんなことは、初めてだ……手をのばせば、触れられそうなほどに……」
姫夜は磐座の石を枕にしたまま、血の気の失せたくちびるでこたえた。ワザヲギの民に生まれたとはいえ、それは初めての体験だった。四肢が千の破片に砕け、またつなぎあわされたようで、頭の芯は強烈な酒をしたたかにくらったようにとろけていた。姫夜はふたたび、今見た幻のなかに引き込まれてゆきたいかのように、うっとりとまぶたを閉じた。
ハバキははっとし、姫夜の腕をつかんだ。
「おまえ!」
姫夜はその手の熱さに、目をみひらいた。大きな手から流れこんでくる力――まぎれもない命の熱と実在感が、姫夜を現の世に呼び戻した。
「大……事ない」
姫夜は端麗な顔をしかめ、なんとか石柱にすがりながら立ちあがった。
ハバキは、しばらくじっと姫夜をみつめていたが、やがて、深くなりまさっていく山あいの闇へ目をむけた。
「あれがまことなら俺はいつかモモソヒメと直にぶつかるということだ。そうだな?」
云われて姫夜はその意味に気づいた。二人は時を渡って先の世を見たのだ。
「そうだ。あれは王と王の戦さだった。勝敗まではわからぬが」
驚きに満ちた声で姫夜がこたえると、ハバキは目を輝かせた。その長身から、白熱する闘志が白い炎のごとくに燃え上がったのを姫夜は見た。
強靱な志を持つものには、降りた神の言葉をよみとき、正邪を判断する審神者は必要ないのかもしれぬ。
ハバキは莞爾として笑った。
「それでいい。むしろそのほうが有難い。――姫夜、俺とともに来い。ここから馬で一刻ほどのところに俺の館がある。戦さ続きでろくなもてなしはできぬが、酒なりと用意させよう」
姫夜はまばたきした。涼風が吹きすぎるように、はっきりとわれにかえった。
「礼にはおよばぬ。わたしは……神意を伝えただけだ」
にわかに狼狽え、じりじりと後ずさろうとした姫夜のほそい手を、ハバキがすばやくとらえた。
「おっと、逃がしはせぬ。お前もあの幻を見たはずだ。俺のとなりに確かにお前はいたではないか」
姫夜は眼をしばたいた。たしかにその通りだった。
しかし相手の占に占者自身の姿が現れるなど、聞いたことがなかった。
伊夜彦がいれば、即座にその意味を解き明かしてくれただろう。
だが、彼はここにはいない。
ハバキは姫夜の狼狽などおかまいなしに云った。
「神など信じぬ俺がここへ来る気になったのも何かの巡りあわせだ。それともお前には、帰る場所があるのか? よく見れば取るものも取りあえず、逃げてきたというなりだ。キビの軍は容赦ないぞ。兵を殺すにあきたらず略奪し、田畑も焼きつくす。おまえほど美しければ男だろうとただではすまされまい」
姫夜は息をのんだ。
(そうだ……わたしは、逃げて――きたのだった)
姫夜の父も母も敵の手にかかるより火の中で自害して果てる道を選んだだろう。
一族の堅固な結界に守られているはずのワザヲギの里に、なぜ兵士が踏み込んできたのか。みな殺されたのか。それとも散り散りになったか。もしかしたら、無事に逃げおおせたのは姫夜だけだったかもしれない。
(兄さまは……兄上はどうなったのか。一人で戻られて、もしやあのまま……)
全身の血が凍りつき、姫夜はくちびるを噛んでうなだれた。その場にくずおれて泣き出してしまいたかったが、紅玉を握りしめ、どうにか必死におのれを保っていた。
(まことに兄上は、生きておいでなのだろうか。……兄上)
ことばを失った姫夜を見て、ハバキは顔をしかめた。自分のいったことが図星だったとわかったのだ。
ハバキは無造作に手をさしだした。
「悪いようにはせぬ。来い」
✳︎
ハバキは姫夜を森につないであったおのれの馬に乗せた。山をくだってゆくと道が開け、十人ほどの兵士たちが休んでいるのが見えた。いずれもハバキのような鎧ではなく、籠手や革のすねあてのみをつけている。中から隊長らしいものが馬に乗って駆けてきたが、自分の主が従者のように手綱をひいているのを見て、眼を丸くした。ハバキはきびきびといった。
「クラト、他の者たちは無事に砦に戻ったか」
「は。一と二の砦から、先ほど戻ったとの報告がありました。若、こちらの方は――?」
「神の使いだ。姫夜という。俺が王になると予言した」
ハバキは姫夜をちらりと見て、瞳をきらめかせた。
「なんと」
「詳しくは帰ってから話す。取りあえず先触れを出して宴の用意をさせよ。もうくたくただ」
そういって笑ったハバキの顔には、疲れは微塵も見えなかった。