16 蛇と剣
姫夜は川で禊ぎし、一糸まとわぬ裸身のまま、高楼にこもった。ひたすら暗闇のなかで瞑目し、おのれの心を清らかな鏡の状態にたもち、神が降りてくるのを待った。
ワザヲギの民は一族だけに伝わるやりかたで神とまぐわうことによって、神示を得る。
闇のなかで、神のやさしい手が愛撫を始めるのを待ち続けた。
しっとりと、なにかが唇をなぞった。
熱い吐息がまぶたに、頬にかかる。
大きな逞しい手に腕を撫で上げられ、からだの芯がとろけそうになる――
(姫夜……)
聞き覚えのある声に、姫夜はハッとして目をみひらいた。
ハバキ。
羞恥と驚きに全身がカッと熱くなった。とたんに神気は消え失せた。
(なぜ……なぜハバキが)
ふたたび目を閉じたが、いくら心を無にして待ち続けても、もう誰も応えなかった。
あとはおのれで決着をつけるしかない。
姫夜は覚悟を決めて、高楼から降りた。
謁見の間で、クラトたちと膝をつき合わせるようにして話していたハバキは、姫夜を見て顔をあげた。鎧をつけたカリハとカヅノも一緒だ。那智も同席している。
「神示は得られたか」
姫夜はさっと頬を赤らめ、横にふった。
夢の意味をうかつに口に出せば、間違っていてもそれが意味を持ってしまう。
「そうか」
一の砦にはカリハが、二の砦にはクラトがつき、三の砦はカヅノが守ることとなっていた。ハバキは選りすぐりの兵百を従えて、磐座を取り囲む。だがカヅノは不安げだった。
「もしあらわれた敵が人ではなかったら、どう戦えばよいのでしょう」
ハバキの熱がなかなか下がらぬことも不安を余計に大きくしていた。しかもモモソヒメが何らかの呪術を使ってくるかもしれないと聞かされて、カリハも渋い顔をしていた。
「無闇に怖れずに心を鎮めてかかるのが肝要です。まじないとはそうした心の揺れに付けこむもの。とにかく心を乱さぬことです」
那智が噛んで含めるように云った。
「そうだ。予測はできないが、われらにはカツラギの神の守護がある。それを信じて戦うしかない」
満月の夜を越えて、無事に朝を迎えることが出来さえすれば――。
姫夜は星で埋め尽くされた空を見上げた。今宵の空には下弦の月がかかるだろう。
*
月が西に沈む頃、ハバキが眠っている神殿の寝間に、そっとしのび入ってきた人影があった。夕方になって、また熱が高くなってきたのでハバキは早めに休んだのだった。
すぐ手の届く所においてある彼の愛用の剣に、その人影が息を詰めて手を伸ばした瞬間、ハバキはその腕をつかんで、ぐいと引き寄せた。
姫夜はあげそうになった悲鳴を飲み込んだ。
「姫夜、なんの真似だ」
ハバキは眠そうな声で、むっとしたように質した。
「あ……わたしは……」
姫夜は口ごもったが、観念したように、すなおにこう云った。
「そなたの剣に、守りの呪を封じ込めておこうと思ったのだ。驚かせてすまぬ」
ハバキの熱い手には、姫夜の肌はひんやりと冷たかった。ハバキは手をはなした。
「驚いてなどおらぬ。たとえ熱にうなされていようと、おまえと寝首をかきにきた刺客の区別もつかぬほど俺は間抜けではないぞ」
ハバキはしんどそうに起きあがって、あぐらをかいた。
「そんなことなら昼間のうちに云えばよかったものを」
暗闇のなかでハバキはじろりと姫夜をにらんだ。
「いってみろ。何故こんなことをした」
「……」
姫夜はしゅんとなった。ハバキは笑い出し、明かり皿を引き寄せて、火をともした。
「さてはクチナワだな。蛇神を俺の剣に封じ込めるつもりだったのだろう」
姫夜は図星をさされて赤くなり、必死に言い訳をした。
「ほかの神は承知してくださらなかったのだ。蛇神だけが、そなたの剣に宿ってもよいと云ってくれた。でもハバキは蛇神のことを嫌っているようだったから……」
「だから俺に黙って、やろうとしたのか」
ハバキはため息をついた。
「俺はクニツカミの力に頼るつもりはない。それにクチナワは、いざというときおまえを守るだろう。剣に封じるなどとんでもない」
「でも、神宝はわたしが身につけてしまう。それではハバキを守るものが何もない」
「俺の心配はするな。子どもはもう寝ろ」
姫夜は美しい瞳をあげて、果敢に云い返した。
「ハバキ、こんなときだけ子ども呼ばわりするな。ワザヲギのわざにかけてはわたしのほうがハバキより上だ。頼むから剣を貸してくれ」
「断る」
「ハバキはなぜそう蛇神を嫌う? 蛇はそなたを守護するものだろう」
「俺を守護するだと。なにを根拠にそのような」
ハバキは鼻にしわをよせた。
「そなたの名だ。ワザヲギのことばでは、ハハとは蛇を意味する。だからそなたの名前を初めて聞いたとき、蛇の木だと思った。那智どのに聞いたら、たしかにそなたの母君はそなたを産むときに、すこやかな子が生まれるように、蛇神に捧げものをして安産を祈願したといっていた」
ハバキにとっては初耳だった。だがそんなことがあったとしても不思議ではない。たしかに他の神に比べて、蛇神の声はよく聞こえもする。
あらためて座り直すと、じっと姫夜をにらんだ。
「蛇神だけが承知したと云ったな」
「そうだ」
ハバキはしばし考えてから、こう云った。
「聞きたいことがある。すこしの間だけ、クチナワと二人で話をさせろ」
いつもはおのれを明け渡すなと云われているだけに姫夜はいぶかしげな表情になったが、すぐにうなづいた。そして目を閉じた。
目を開いた時には、虹彩は蛇のそれになっていた。
「何の用だ。カツラギの王よ」
「何のきまぐれで俺の剣に宿る気になった」
ハバキは前置きもなくたずねた。
「気まぐれではない。姫夜がそう望むのだ」
「人には縛られぬのではなかったか」
「ワザヲギの民は、神を力で縛ることはない」
「まさか願いをかなえるかわりに、何か姫夜から奪おうというのではないだろうな」
ハバキがするどくたずねると、蛇神はうっすらと笑った。
「命まで取ろうと云うのではないから案ずるな」
つかみどころのない謎めいた答えに、ハバキは姫夜の瞳の奥底の蛇神をにらんだ。
「そなたが俺の剣に宿ると姫夜はどうなる?」
「カツラギの王よ。われらにとっては、宿るのが剣だろうと、人の子の体だろうと大差はない。だがそなたらがわれらに呼び掛けるには、憑代が必要だと云うことだ」
蛇神のいうことはわかるようでわからなかった。いらだたしげに、問い返した。
「なにも変わらぬ、ということか?」
蛇神は瞳をきらめかせ、こたえた。
「ひとつだけ、そなたにとってよいことがある。われがそなたの剣に宿ったならば、万が一、姫夜がこの地から消えたとしても、そなたにはこの者がどこにいるか感じ取ることができる」
「今なんといった」
ハバキははっとし、熱でぼんやりしている頭を狂ったように働かせて、蛇神のことばを咀嚼しなおそうとした。
「そなたがずっと心にかけていることだ。カツラギの王よ。そしてこの者もそうだ。たがいにひとつことを考えながら通じ合えぬとは、さてもさても。ヒトとはわからぬもの」
クチナワごときにわかられてたまるか、といい返したかったが、ハバキは押し殺した声でこういうにとどめた。
「まことに姫夜がどこにいても、わかるというのだな」
「黄泉であってもな。だが、わかるからと云って追っていけるとは限らぬ」
蛇神は意地悪く云った。これ以上話していると、余計なところでこじれてしまいそうだった。ハバキはさっさと話を切り上げた。
「わかった。姫夜にそなたを俺の剣に封じ込めるよう云おう」
「その必要はない。今ここでそなたの剣を抜け」
ハバキはしかたなしに黙って剣を抜いた。姫夜が両手で、衣の衿を大きくくつろげたのでハバキは仰天した。
「なにをする気だ」
「その剣をわが胸に」
蛇神である姫夜は、ハバキの剣の切っ先に手を添え、おのれの胸にあてがった。
「そのままつらぬけ」
ハバキはごくりと唾を飲み込んで、両手にわずかに力をこめた。
白い胸に一筋、赤い血が流れた――剣は白い光を放ちながらあっというまに姫夜の胸のなかに吸い込まれた。
姫夜は目を閉じ天を仰ぐように顔をあげた。そのおもてに恍惚とした笑みが浮かんだ。
「……これでよい」
蛇神は光を放つ剣をこともなげに引き抜いて、柄の方をむけてハバキに差し出した。
ハバキはその剣を受け取って呆然と姫夜をみつめた。
姫夜の頭ががくりと前に垂れ、ふたたび顔をあげた。
姫夜はおのれの胸元をみつめ、ハバキの手にある剣を見て、微笑した。
「もう移ったのだな」
「――ああ」
ハバキは探るようにじっと姫夜をみつめた。たしかに剣は輝いているが、本当に蛇神は移ったのだろうか。
姫夜はその視線に気づいて、じっとハバキをみつめかえした。
「ハバキ……?」
ハバキは剣を鞘におさめると脇へおいて、しとねにごろりと横になった。
「今度ひとりでしのんできたら、夜這いだと思うからな」
「わかった」
姫夜はくすりと笑みをもらした。




