14 まが夢
姫夜――
暗い坂道のかなたから、かすかに呼ばう声がする。
姫夜は首にかけている紅玉を握りしめる。紅玉が心の臓そのもののように震えている。
暗い坂道を、姫夜はわきめもふらず、歩き出した。
この先に兄がいる。
どこまでも続く坂道はどんどん細くなってゆく。
ふいに道が途切れ、深い谷が姿をあらわす。
その谷のむこうに、切り立った崖が見える。そこに人影が立っている。
長い鳥羽玉の黒髪。
死人のように青ざめた美しい顔。
かすかに開いたくちびる。
兄上――!
姫夜は叫んだ。
一歩踏みだそうとすると、足もとの岩が崩れ、姫夜はハッと後ずさった。
崩れた小石は深い裂け目に落ちてゆく。
姫夜の腕を誰かが鉄のような力で掴んだ。
振り向くと、ハバキがけわしい形相で立っていた。
ハバキは長剣をかまえた。燃えさかる真っ白な炎にあたりが明るくなる。
すがりついて叫んでも、ハバキは微動だにしない。うねるように筋肉が肩に盛り上がる。
ハバキ。
繰り出された剣は白蛇となってうなりをあげ、伊夜彦の胸にむかって飛んでいく。
砕け散った水晶のかけらが四方に飛び散る。そして――
姫夜はおのれのあげる叫び声に覚醒した。
その声にハバキが反射的にそばにあった剣をひっつかんで跳ね起きた。
姫夜は息をのんで、ハバキを見つめ、ついで館のなかをみまわした。
「ここは……わたしは、いったい……」
「気がついたのか」
ハバキは姫夜の顔を大きな手で包みこみ、瞳の奥底をのぞきこんだ。その手の熱さに姫夜は声をあげた。
「ハバキ! 手が燃えるようだ」
「たしかにおまえだ」
ハバキは大きく息をつき、体の力を抜いた。
姫夜は手をのばしてハバキの頬に触れた。どこもかしこも燃えるようだ。
と、おのれが紅玉を胸にかけただけの一糸まとわぬ姿で、縄でハバキとつながれていることに気づいてぎょっとした。
「なにゆえ、こんな……?」
「おぼえて――いないのか。ゆうべヤギラに毒矢で射られたのを」
ゆっくりと姫夜は目をしばたいた。
「毒矢」
「だが毒もおまえには効かなかった。クニツカミがおまえを守ったのだろう。ヤギラは獅子の足、蛇の尾をもつ化け物に変わった。おまえはそれを殺そうとした――」
ハバキは肩で浅い息をつきながら云った。
姫夜はあらためておのれのからだを見おろした。肩から胸にかけてぬめるように銀色の疵痕が残っている。
「ヤギラは今、どこに?」
「今は館にいる――すでに人の姿に戻っている」
ハバキはためらうように押し黙った。それから低い声で云った。
「人に戻る前に、ヤギラの口を借りてモモソヒメが云った。伊夜彦をとらえていると」
「そうだ――!」
姫夜はとびおきた。縄がぴんと張りつめ、ハバキは顔をしかめてうめいた。
姫夜は縄をつかんで叫んだ。
「これをほどけッ。すぐに行かねば――」
「だめだ。これは罠だ。みすみすモモソヒメの手に落ちたいか」
ハバキは姫夜の肩を両手でつかんだ。
「まだある。奴は次の満月の日に、神門を使えと云った。いったいどういう意味だ」
姫夜は一瞬たじろいだが、唇をかみしめて顔をあげた。
「満月を待ってはいられない。今すぐ行かなければ――」
板戸が開く音がして、姫夜はびくと振り返った。
「薬湯をお持ちしました」
入ってきた那智はハバキを見て眉をひそめた。
「疵が開いている。姫夜さまもしずまられよ」
姫夜は振り返ってハバキの肩をみた。巻かれた布に鮮血が滲んでいる。
「それは――あの妖しが?」
「大したことはない」
「ハバキさま、横におなりください。疵を清め、布をとりかえます」
有無を云わさぬ声だった。
姫夜はさっと顔を赤らめ、ハバキと那智に背をむけた。
那智は黙って布をとき、疵の上に酒をかけた。ハバキは低くうめき声をあげた。
「ヤギラは……どうしている?」
那智はかすかに顔をしかめ、首を横にふった。
「――できるかぎりのことはいたしましたが、まだ目が覚めませぬ」
「そうか」
重苦しい沈黙が流れた。布を巻き終えると、姫夜が口を開いた。
「ハバキ、これをといてくれ」
「とく。だがその前に出ていかぬと神に誓え。たかが縄だ。その気になればいつでも断ち切れる」
「ハバキ!」
二人はにらみあった。
「――那智、しばらく二人にしてくれ」
ハバキは押し殺した声で命じた。那智は新しい衣を姫夜の前におくと、出ていった。姫夜が衣に手をのばすと、ハバキがするどくたずねた。
「以前にもたずねた。神門とは何だ」
姫夜はびくりとして、ハバキを見た。
「神門と聞いた途端、おまえは飛び立とうとした。磐座を目指したのだろう」
「…………」
「おまえがまだ俺に告げていないことがあるのは知っている。俺は、それでもかまわぬと思っていた。だが出ていくつもりなら、まことのことを云え。神門とはなんだ」
姫夜は黙って衣を胸におしあて、これ以上神門の秘密をハバキに隠し通すことはできないような気がしていた。
「たしかにあの磐座は神門のひとつだ。だがそれ以上は……ハバキにも云えぬ」
「どうしても行くというのか。モモソヒメの大軍相手に何ができる? たしかに鳥神に変化しているときなら、おまえはヤギラを引き裂くこともできたろう。だがあのときのおまえはおまえではなかった。あのまま戻れなかったかもしれぬのだぞ」
姫夜は頬を打たれたようにぎくりとした。だが、歯を食いしばって云った。
「そうかもしれぬ。だからといって兄を助けないわけにはいかない!」
「ならば俺も連れてゆけ」
「だめだ。それはできぬ」
姫夜は無意識のうちに胸の紅玉をさぐって握りしめ、ハッとした。
紅玉から伝わってくる命のひびきが少しずつ弱まっている。
それは兄が刻一刻と死に近づいている証しに他ならなかった。心の臓が喉元までせり上がり、足もとから地面が崩れてゆくような気がした。
姫夜はなりふり構わずハバキの腕に取りすがった。
「ハバキ――! 頼む。こうしている間にも兄が……」
みるみる姫夜の美しい目に涙があふれだした。
ハバキは驚いたように姫夜を見た。
「お願い。ハバキ……兄が、兄さまが死んでしまう」
ぽろぽろと頬の上を涙の粒がころがり落ちるのを見て、ハバキは顔をしかめた。
「泣くな。モモソヒメは次の満月の日に来いと云った。おまえをおびき寄せるのが狙いなら、それまでは生かしておくはずだ。昨日は朔だった。次の満月までちょうど十五日ある」
「で……でも……」
子どものようにしゃくりあげる姫夜を、ハバキは辛抱強くなだめた。
「よく考えるんだ。どうすればおまえの兄を救えるか」
「救う……?」
姫夜の目が大きくなった。姫夜は我知らず、神司の威厳も誇りもかなぐりすてて、ハバキに子イヌのようにすがりついていた。
ハバキは困ったような声で云った。
「満月の日までうかつな行動は取らぬと誓えるか。一人で行ったりしないと。そうすれば俺が――助けてやる」
姫夜の見開いた目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。やがてこっくりと頷く。
「ち、誓う。ハバキ、本当に、助け、て――?」
「そうだ。だからもう泣くな」
姫夜は目をこすって頷いた。
ハバキは黙ってけわしい表情のまま縄をほどいた。
だが、涙はすぐにはおさまらず、姫夜はまだ肩を震わせてしゃくりあげていた。
ハバキは片膝を立てて、あぐらをかいた姿勢のまま、むっつりと考えこんだ。
満月まであと十五日。いや、正確には十四日だ。
それだけでいったい何ができるだろう。
伊夜彦に会わせる。そのかわり、何を姫夜に要求する気なのだろう。もしモモソヒメが弓矢の効かぬ相手なら、姫夜を守っているクニツカミの力だけが頼りになる。だがその力は姫夜にとって、諸刃の剣でもある。
「姫夜、ひとつたずねたいことがある」
「なに?」
「毒矢で射られたあとおまえは鳥神に突き動かされていたが、そのときのことは覚えていないのか」
姫夜は口惜しそうに首を振った。
「覚えていない」
「いつもはどうなんだ。今は? 封じたクニツカミたちはどこにいる。おまえのなかにいるのを感じるのか?」
姫夜はハバキがなにをたずねようとしているのかわからぬままに、首をかしげ、おのれのうちをさぐるように目を細めた。そして答えた。
「今は――鳥神はいない。小さい神々も。眠っているのかもしれぬ」
「クチナワは……」
クチナワというぞんざいな呼び名に、姫夜はちょっと顔をしかめた。
「蛇神は……いつも深い湖の水底にいるように感じる。でも今は水面近くまで泳ぎ出てきている。そういえば蛇神は、ハバキがそばにいるときは、割合近くにいるような気がする」
「おまえが話しかければ答えるのか」
姫夜はふたたび黙りこんで内に意識をむけた。
「すぐそばにいる……けれど……わからない」
ハバキはがしりと姫夜の両肩をつかんで、瞳をのぞきこんだ。
「わからないでは駄目だ。これは大事なことだ。もう一度呼び掛けろ」
いわれた通り、蛇神に呼びかけた。沼に引きずり込まれるように姫夜が意識を失いかけたとき、ハバキが噛みつくように口づけした。
「姫夜、クチナワにおのれを明け渡すな。俺を見ていろ」
姫夜はうなづき、懸命にハバキの目をみつめた。
「……いる。すぐ、そばに」
「どれぐらいそばにだ」
「ハバキと同じぐらい、そばに……わたしにぴったりと寄り添って、鎌首をもたげてそなたを見つめている」
姫夜はあえぐように答えた。
(体が……おかしい)
ハバキに触れたかった。
手を伸ばせば、すぐそこにハバキはいる。いつでも引き寄せることができる。
姫夜はぎゅっと目を閉じた。
「たずねろ。満月の日に何が起こるのか」
「カミは答えぬ。ただ……感じる。心の目と耳に。それにいろんなにおいも。厩にいる馬たちの鼻面の濡れたにおい。蜘蛛が巣を作る音。森にいる狼の吐く息」
「もっと遠く――西に何を感じる」
「はるか遠くに禍々しい、黒い気。わからないが怖ろしい……」
うめくように姫夜は云った。
クニツカミの力ですべての感覚が研ぎ澄まされているに違いない。
ハバキは励ますように姫夜の手を握った。
「わかった。あまり遠くに心を飛ばすな。だがいつでも近くに蛇神を呼び出せるようにしておけ。俺の剣が役に立たぬなら、これはおまえにとって大事なことだ」
姫夜は、こくりとうなづいた。
次の瞬間、熱をもったハバキのからだに抱き寄せられていた。ハバキは、一度だけぎゅっと抱き締めた。姫夜はふるえるように吐息をもらした。




