11 蛇神
「――まかせてよかったのか」
姫夜は向かい風に負けぬように声をはりあげてたずねた。
「ああ。あんなことは那智とクラトは、親父の代からやっている。俺がいなくても大丈夫だ。もっともすべて手放して任せられるのも、今のところあの二人ぐらいだがな」
ハバキは荒々しく笑った。
せっかく二人きりになっても、思うように姫夜の口からことばは出てこなかった。
遠乗りと云ったが、ハバキはさほど遠くまでは行かずに、草深い山の小道をくだって、馬をとめた。
せせらぎの音が聞こえる。
ハバキは先に馬から飛び降り、姫夜を抱き下ろした。
「その岩のかげだ」
姫夜は草むらをかきわけ大きな岩を回り込んで、あっと声をあげた。
ちょうど岩や茂みに囲まれるようにして、白い濁り湯が、湧き出ている。
「さっき試した。いい湯加減だ」
姫夜はそっと手を浸した。こんこんと湧きだしている湯は細い川の水と混じり合って、ちょうどいい加減だった。
「山鳥を追っていて見つけた。ここで待っているから先に入れ」
どうして湯につかりたいと思っていたのがわかったのだろう、と姫夜は思った。
「佐古田どのの所に立派な湯殿があったろう。俺の館にはないが、いずれ作らせる」
カツラギの男も女も、ふだんは行水をするのに隠れたりしない。
だが、姫夜はそういうわけにはいかなかった。いつも人目をしのんで、すばやく行水をすませているのをハバキは知っていたのだ。
「どうした。夜が更けてしまうぞ」
たっぷりした湯に体をひたし、手足をのばすことを想像しただけで、贅沢さにめまいがした。姫夜はごくりと唾をのんだ。
「では――先に入らせてもらう」
姫夜はいさぎよく足許に衣を脱ぎ捨てて、長い髪をまきあげ、手頃な枝をかんざしがわりに刺して留めた。
おそるおそる爪先を湯に浸す。ぴりっと心地よい熱さに目が覚めるようだった。今までうち沈んでいたことも忘れて、わくわくし、思い切って体をしずめると、熱い湯に全身がちくちくしたが、思わずためいきがもれた。それほど深くはなかったが、腰を下ろすとどうにか首までつかることができた。
「獣も時々入りにくるようだ。俺が入ったときはサルもいた」
「サルは追い出さなかったのか」
「向こうが先客だからな」
姫夜はハバキがサルと肩を並べているところを思い浮かべて、くすりと笑った。しだいにからだがもみほぐされて、たまっていたものが溶け出していくようだった。
「俺をさがしていたのだろう」
いきなり踏み込まれて、姫夜はどきりとした。
「クラトに聞いた。なにか話があったのか」
「……」
なにをどのように云えばいいのかわからなかった。だが誰にも聞かれずに、打ち明けられるのは次はいつになるかわからない。ためらいがちに姫夜は切り出した。
「そなたが捕らえてきた山鳥が、わたしに告げたのだ。わざわいが近くにひそんでいると。カミは裏切りを示唆していた……」
姫夜の声は小さくなり、途切れた。
「裏切りか。ともかく、大軍が押し寄せてくるというわけではないのだな?」
ざぶ、と姫夜は湯をはねかして振り返った。
「ハバキ、たとえ山鳥でもカミのことばはあなどれぬぞ」
「裏切りというからは、裏切られるのは俺かおまえだ。俺なら寝首をかかれぬように気をつけていればいい。おまえのことは俺が守る」
声がふいに近くなったので、姫夜は慌てて湯に身を沈めた。
ちらっと横目で見ると、岩によりかかっているハバキの、たくましい背中と筋肉の束のような腕が見えた。
いつのまにか濡れた衣を脱ぎ捨てている。
ハバキは湯に背をむけて、星の瞬き始めた暗い空をみあげていた。日が沈んで、うなじを撫でていく風が心地よかった。
「話したいのはそれだけか」
「まだ、ある」
「なら早くしろ。そろそろ体が冷えてきた」
「ハバキが勝手に脱ぐからだ」
「おまえが迷っているからだ」
姫夜はためいきをついた。
「では、入ってくればいい。こっちを見るなよ」
「そうか」
ハバキはこれ幸いと、ざぶりと湯に沈んだ。
「ああ、生き返る」
ハバキはくぐもった声で嬉しそうに云った。姫夜のほうが先に浸かっていたので、頬も手足もほてって真っ赤になっていた。姫夜は早口で云った。
「カリハが妹の縁づく先をさがしているそうだ。だから、そのことでハバキに――」
「ああ、そのことか。だから歌垣をすると決めたんだ。アゲハはあれで兄のカリハよりしっかりものだ。自分で相手をみつけるさ」
「そうだったのか。だから歌を……」
「歌がどうした」
「アゲハに……歌を見てくれないかと頼まれたのだ」
「そんなことを頼まれたのか。そういえば、アゲハはおまえと年も近かったな。――たまにはおまえでも、乙女に戻りたくなる時があるのか?」
「ばかを云え。たとえそうでも、わたしはもう神司だ。それにモモソヒメが――」
姫夜は憮然としていいかけ、口をつぐんだ。その名を口にしただけで、あたりの空気が重くなったようだった。
それをはねのけるようにハバキが明るい声で云った。
「なに、そのすがたならもう二三年は敵の目もあざむけるさ」
ざばっと湯をはねかして、姫夜が立ち上がった。
「見ていたのか!」
「ちがう」
ハバキは振り返ろうとして動けなくなっていることに気がついた。
「待て、姫夜。なにをした」
湯のなかの体はびくりともしない。動かせるのは口だけのようだった。
「わたしが仕度をすませるまでそのままでいろ」
姫夜は憤然と湯からあがって、被るための衣でからだを拭いてしまうと、さっさとうわぎと袴をつけ、長い髪をうしろに払った。
「だてにわたしも神を封じてはいないぞ。これぐらいのことはできる。心の臓が動いているだけでもありがたいと思うんだな」
「姫夜」
ひんやりとした人差し指と中指が、ハバキの首筋にぴしりと触れたとたん、呪縛は解けた。ハバキは大きく息をついて、肩や首筋を動かした。
「俺ともあろうものが、油断した。今のもワザヲギの民のワザか」
「知らぬ。もう行こう。きっと那智どのが心配している」
「濡れ衣だ」
ハバキは湯から上がって、うわぎでからだをごしごしこすりながら、文句をいった。
「俺は断じて見たわけではないからな」
ハバキは袴をつけ、濡れたうわぎは腰に結んだ。
上半身裸のまま、姫夜を抱き上げ、ハヤテの上に放り投げるようにして乗せた。
姫夜は悲鳴をあげた。
「ハバキ、また縛されたいか」
「やってみろ。振り落とされたいならな」
ハバキは笑って馬の腹に蹴りを入れた。
「姫夜さまのご気鬱もお晴れになったようで、よろしゅうございました」
戻ってきたハバキと姫夜を見て、那智はにっこりした。姫夜はやや憮然としてこたえた。
「晴れてなどいない」
「そうでしょうか? 先ほどは暗い青の気をまとっておいででしたが、今はハバキさまと同じ、燃え上がるような赤にございます。きっと気が馴染まれて――」
「那智、それ以上云わぬほうが身のためだぞ。息の根を止められたくなかったらな」
ハバキはにやりとした。
ヤギラが干したアワビをあぶったものを運んできた。一歩、部屋にふみこんで、姫夜の美しさに打たれたように目を伏せた。
「まだ起きていたのか?」
「はい。お役に立ちたく……。何をお持ちいたしましょうか」
ヤギラは真っ赤になって云った。ハバキはしつらえてある仕度を見わたした。
「酒が足りぬ。浴びるほど飲んでやるからもっと持ってこい」
「ただいま」
ヤギラは見るからに生き生きとして、厨にとんでいった。
ハバキは姫夜に、自分のよりも一回り大きな瑠璃の杯をわたした。
その杯に壺からなみなみと注ぐと、姫夜は白いのどをのけぞらせて一気にのみほした。くちびるからこぼれた酒が、のどを伝い落ちる。
「おまえは怒らせたほうが楽しいな」
姫夜は頬を桜色に上気させ、ハバキをかるくにらんだ。
ふと、とまどいを含んだ声で云った。
「わたしはいつもそんなに沈んだ顔をしているか?」
「いきなりその歳で、見知らぬクニの神司となったのだ。無理もない」
姫夜はうつむいた。しっとりと濡れた髪が肩に落ちかかる。
「クラトどのにも云われた。ハバキと野遊びにでも出かけろと。おまけに那智どのにまで」
「それほど占が気にかかるのか」
ヤギラが肩で息をつきながら、酒の壺を運んできたので、ハバキは口をつぐんだ。
「そういえば、カリハどのから姫夜さまに文を預かってございます」
那智が手箱からたたんだ文を取り出して、差し出した。即座にハバキがからかう。
「文をもらう相手を間違えていないか」
「先刻話したアゲハだ」
姫夜はそれでも赤くなって、ハバキに背をむけ、文を盗み見た。
「なんと書いてある」
ハバキが後ろからのぞき込んだので、胸元に押し当てた。
「だめだ。もしアゲハの想い人がハバキだったら――見られたくないだろう」
「なかなか思いやり深いことだな。だが見当はずれだ」
「どうして?」
「俺はアゲハの思い人が誰だか知っているからだ」
というのがハバキの答えだった。ハバキは杯を差し出した。
「飲もう。今宵は断らせぬぞ」
姫夜はハッとしたように目を上げた。
ハバキの後ろの空に、美しい冴え冴えとした細い月がかかっている。
姫夜は黙って杯を受けとった。姫夜がそれを飲み干すと、ハバキはすぐに酒で満たした。二杯三杯と杯を干してから、姫夜はいぶかしげにたずねた。
「ハバキ、なにを考えている?」
「なにか、とは」
「贈り物だといってカミをつかまえてきたり、出で湯に連れていってくれたり……」
「俺がおまえに優しくしては、おかしいか?」
姫夜はとまどうように黙り込んでしまった。那智は無言で両手をつかえ、しずしずと出ていった。だがヤギラはまだ部屋のすみで体を硬くし、かしこまっていた。
ハバキは下がっていいというように手を振った。
「ヤギラも休め」
「でも、まだご用を――」
「もうよい。下がれ」
ヤギラはそれでもまだ何かいいたげに、すがるようにハバキを見た。
だがハバキは黙っていた。ヤギラはあきらめたように両手をつき、さがりぎわに、一瞬、姫夜へ燃えるようなまなざしを向けた。姫夜はハッとしたように顔をあげたが、そのときにはもうヤギラの姿は廊下の闇のなかに消えていた。
「姫夜、なにか舞いを見せてくれ」
「いいとも」
姫夜はほっとしたように立ち上がった。扇を手にし、歌いながら舞ううちに、頬にほんのりと血の気がさし、晴れ晴れと顔が輝きだした。
ハバキは脇息に寄りかかって、姫夜のなかにわだかまっていたものがほどけていくのを、驚きの目で眺めていた。
「不思議だな。ずっと昔からお前とこうしていたような気もするし、そんなふうに芯から楽しそうなお前を見るのは初めてのような気がする」
「わたしも、カツラギへくるまで、こんなに舞いが好きだとは思わなかった」
姫夜はかすかにうわずった声で云って、ハバキのそばに座った。
「舞うのは楽しい。誰のために舞っても、神のためであっても、そなたのためであっても」
ハバキは自分の杯に、最後の一滴を壷から注ぎきって、それを姫夜に差し出した。
「――これで酒も終わりだ」
姫夜は両手でそれを受け取った。それを一気に飲み干し、すっくと立ちあがった。
「歌ができた!」
先刻隠したのも忘れて、嬉しそうに云ったので、ハバキは一瞬あっけにとられた。
「上の句はこうだった。朝露の消やすき命誰がために――でもこれでは、すこしはかなすぎる。だから下の句はこうだ――千年もがもと我が思はなくに」
ハバキは言葉の響きを味わうように口のなかでつぶやいた。
「激しい恋の歌になったな」
姫夜はふっと遠い目になり、胸の紅玉を握りしめ、低い声でうたうように云った。
「ものごころついた時から、兄のそばにいることが多かった――。忙しい父や母の代わりでもあったし、舞いと歌の師としてはつねに厳しく、冷たくさえあった……今、兄はどこでどうしているのだろう?」
「お前には兄がいるのだったな」
淡々とハバキはたずねた。
「占を立てているのだろう。神はこたえてはくれぬのか」
「神は……すべてをこたえてくださるとは……限らぬ。おそらくわたしが知るべきでないことは……」
かく、と姫夜のからだが前に揺れた。ハバキはとっさに抱きとめた。
「応え……ぬ……」
ハバキの腕のなかで、姫夜の声が低く、かすれた。
姫夜は思い詰めたような瞳でハバキを見上げた。
ハバキの肩に手をまわし、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「そのへんにしておけ、クチナワ」
うなるようにハバキが云った。姫夜はするりと、ハバキの腕からのがれた。
「気づいていたか」
姫夜――の姿をした蛇神――はくく、とのどの奥で笑った。ハバキは顔をしかめた。
「それだけ飲ませたのだから、応えてもらおう」
「なにが聞きたい?」
おもしろがるような声音だった。
「裏切るのは誰だ」
「それは云えぬ」
「ではなぜ半端な予言で姫夜を惑わす」
「あの予言を発したのは鳥神ぞ。鳥神はそもそも異国の神。われらとは相容れぬ。それに予言に惑うは、このものの勝手ぞ」
「ならば問いを変える。モモソヒメが姫夜を狙うのはなぜだ」
姫夜は座しているハバキを尊大な目つきで見下ろした。
「おまえに教えなんだか? 人の身でおのれを器として神を封じられるものはそう多くはいない。封じても大抵はその大きさに耐えきれぬ。西の姫も同じ力を持っている。強大だが老いつつある器と、若くやわらかき器。西の姫が新たな器を欲するのも道理ではないか」
「極限まで器が満たされたら、何が起こる」
「怖れているのか、王の気を持つものよ」
姫夜はつと手をのばしてハバキの頬に触れた。ハバキはこたえなかった。られなかった、と云ったほうが正しいかもしれぬ。
姫夜はハバキの耳元にくちびるをすりつけるようにして、ささやいた。
「まことは何が起こるか、ではなく、どうすれば砕け散らぬかを知りたいのだろう……」
「知っているのか、クチナワ」
「その呼び方はやめよ、色気のない。したが……吾が欲しいものを与えてくれるなら、考えてもよいぞ」
姫夜の双眸が、舌なめずりするように、妖しくきらめいた。
「なにが欲しい?」
姫夜はあでやかに微笑んで、立ち上がり、肩から衣をすべり落とした。
白くまぶしい裸身がゆれる燭の明かりのなかで露わになった。冴え冴えと、首からさげている紅玉だけが、ほのかなふくらみの間で光っている。
「この器は《気》が足りぬ。我彼の境目が透き通ってあいまいであるがゆえに、カミを自在に封じられるのではあるがな」
姫夜はひたとハバキを見つめながら、ひたと歩み寄った。
「だがそなたの逢うたことで、この器も変わりつつある。闇が光にこがれるように、そなたの燃え上がるような白い命に憧れているのだ。――そなた《気》を、命をこの器に注げ。触れただけでこの身が焦がれそうな、天の火を……」
姫夜はかすれた声でささやき、手をのばして、恍惚とハバキの逞しい肩から腕に手をすべらせた。
「ことわる」
ハバキははっきりとした声でいって姫夜を押しのけた。
姫夜は目を見開いた。
「――なぜ? ハバキはわたしが欲しくはないのか」
むじゃきな声に、姫夜が一瞬、正気を取り戻したかと思い、ハバキはぎょっとした。
「兄のために占はもう立てぬ。わたしの占も歌も舞いも、すべてハバキのためのものだ」
「やめよ」
言下にハバキはこぶしを姫夜のみぞおちにあてた。むろん相当にかるく加減はしたのであったが、姫夜は声もなくくずおれた。長い黒髪が乱れて扇のように広がった。
「……」
ハバキはしばし、そのほっそりした裸身を、切なさと戸惑いと憤りの綯いませになった表情で見つめていた。
やがて、ためいきをもらし、上に衣を着せかけてやった。
「そういうことは白面のときに云うものだ」
月が隠れた。
廊下の闇のなかで――うずくまり、目だけを見開いて息をひそめているものがいた。
ヤギラだった。
ヤギラの目は昏く、光の抜け出ることのできぬ深い洞のように、虚ろだった。




