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9 木妖

(こんなところに母上がいるはずがない――)


 だが母もまたワザヲギの民だ。神門を使って、姫夜と同じように逃れたのかもしれない。

 姫夜は震えながら、口をつぐんだまま、そこに立っている幻を見つめた。口をきいたら消えてしまいそうで恐かった。


「母上……?」


 だが目の前の幻は消えず、むしろ輝きを増した。


「姫夜」


 白香姫は姫夜によく似たほっそりした両手をさしのべた。

 姫夜は何も考えずにかけよって、その膝にすがりついていた。


「母上――母上、ご無事だったのですね」


 どっと業火に焼け崩れる宮のようすが脳裏によみがえり、姫夜は身震いした。

 白香姫は姫夜をかき抱いた。


「姫夜、そなたに逢いたかった」

「母上――」


 姫夜はあとからあとからこみあげてくる涙にそれ以上何も云えず、ただただうなづき、かすむ目で白香姫の顔をみあげた。

 とろり――と、闇が濃くなった。


「ずっとそなたを探していた。そなたと離ればなれになり、母は気が気ではなかった。なぜすぐ探しにきてはくれなんだのか……」


 白香姫が姫夜の頬をなでると、たちまち涙はその手に吸いこまれていった。


「もうしわけ……ありませぬ。母上は亡くなられたものとばかり……」


 姫夜ははっとした。


「父上は――父上はどうなされました?」


 白香姫は静かに首を横に振った。


「父上はモモソヒメの兵の手に掛かって、根の国へ神去かむさられた。父上だけではない。生き残ったワザヲギの民もいくらかは奴婢となったが、それを拒んだものは眼をつぶされ足を切られ、モモソヒメの神殿の礎として生き埋めにされた――」


 白香姫は細い声で切れ切れにいって、姫夜をぎゅっと抱き締めた。


「母上……」

「怖ろしい……わたくしはもう二度と、そなたをあんな怖ろしい目にあわせたくない。姫夜、母がそなたを守る。モモソヒメの追っ手に見つかる前に一刻も早く逃れなくては――」


 白香姫はぞっとしたように身をふるわせた。


「ここは怖ろしい。血とくろがねの臭いがする。土にも木にも血の臭いが染みこんでいる」

「でも……どこへ逃れるというのです?」


 姫夜はすがるような声で云った。白香姫は溶けるようにやさしい笑みを浮かべた。


「ここではない、遠いところへ。でも案ずることはない。母は知っている。誰も争わず、苦しまず、憎むことも悲しむことも、飢えることもないクニを」

「憎むことも、悲しむことも……?」

「そうじゃ。また昔のように舞いを見せておくれ。歌っておくれ。そこでまた、あの楽しかった日のように、ともに暮らしましょうぞ」


 姫夜はわずかに身を引いた。なにかを、忘れてはいまいか。姫夜は必死にそれを思い出そうとした。


「でも――兄上はどうなるのです? 兄上をおいてはいけませぬ」

「兄?」


 白香姫のほっそりした眉がつりあがった。

 姫夜はいった。


「兄上もきっと神門から逃れたはず。今頃はわたしを探しておられましょう」

「姫夜、兄のことは忘れよ。あれはもう、この世のものではない」


 白香姫の声がひび割れ、ぞっとする響きをおびた。


「母上、どうしてそんなことをおっしゃるのです」


 姫夜はぎょっとして叫んだ。


「わたしにはわかります。兄上は生きている。わたしは兄上に誓ったのです――」


 白香姫は激しく遮った。


「忘れるのです! あれが生きていたとしても、もうそなたの知っているあれではない」


 白香姫はふたたび強く姫夜を抱き締めると、いとおしげに髪をなでさすった。その瞳がゆっくりと、昏さを帯びてゆく。


「もう離しはしない……どこへも行かぬと誓っておくれ。わたくしの可愛い子……」

「母上……」


 姫夜はそのやわらかな胸を押し返すことができず、抱かれたまま茫然としていた。

 白香姫は赤子を抱くようになんども頬ずりし、ひたいに、頬に、朱いくちびるをすりつけて懇願した。


「母とゆこう。そこではだれも殺さず、犯さず、呪うこともない。だれも涙を流さず……やすらかに、心乱されることないクニへ……」


 白香姫の手がくりかえし、姫夜の髪を、背をあやすように撫でる。

 まぶたが重くなった。

 やわらかな声は低いまじないの歌のように、とろとろと姫夜を包みこみ、ここではないどこかへ、連れ去ろうとしていた。今やどこまでも続く底のない闇さえも柔らかさを帯びて、あたたかく、慕わしかった。

 姫夜はうっとりと眼を閉じ、かすれた声で問うた。


「母上……そのクニは、どこに……?」

「そなたがゆきたいと望むならば、もう、すぐそこに」

「…………」


 姫夜はもう、口を開いてこたえることができなかった。

 白香姫の笑みをふくんだ声があやすように続けた。


「おお、よしよし……もうなにも怖がることはない。母は二度とそなたを一人にはしませぬぞ……ともにゆこう。わたくしの可愛い子……」


 ――と、その漆黒の闇を宿した瞳が大きくみひらかれた。


「お、お」


 白香姫はゆっくりと、おのれのからだに眼を落とした。脇腹にみるみる真っ赤な血が大輪の花のように広がってゆく。


「姫夜を、はなせ」


 低くうめくハバキの声を姫夜は聞いた。ハバキの手に握られた剣が、白香姫の脇腹に深々と刺さっている。姫夜は叫ぼうとしたが、舌がのどに張り付いて声が出ない。


「お、お……こなたは――」


 白香姫の顔が醜くひき歪んだ。まなじりはカッと張り裂け、髪の毛は逆立ち、体中から妖気を立ちのぼらせてハバキをにらみつけた。


「愚かな――おのれの……したことをわかっていやるのか? おまえからは血の臭いがする。おまえの体は返り血に染まっている。わらわには見えるぞ。そなたの後ろに恨みをのんで死んでいったものたちの姿が」

 ハバキは歯を食いしばり険しい形相で白香姫をにらみかえした。


「そんなことは、わかっている」

「お……のれ……」

神去かむされ!」


 ハバキは柄にかけた手にえぐるように力をこめた。


「ヒ――ッ」


 ――白香姫のからだからなにかがほとばしった。それは血ではなかった。無数の銀色の糸だった。あたかも精気が蒸発したかのように肌はみるみる乾き、かわりにその肌を突き破って八本の黒い剛毛の生えた足がのび、頭には無数の赤い眼がきらめいた。

 女の下半身は巨大な蜘蛛の体と化した。妖しは、銀の糸を吐いて姫夜を巻き取った。

 剣をふりかざそうとしたハバキの体を大木のような脚が、ビシッと音を立ててはねとばした。


「ヒメ――ヤ――ァアア……!」

「う……」


 姫夜のあおざめた唇から苦しげなうめきがもれた。


「姫夜、しっかりしろッ。お前を抱いているのは母などではない」


 必死に叫ぶハバキの声に、姫夜はうっすらと眼を開いた。


「ヒメヤ……愛しい……子……母と、ともに……」


 銀の糸は猛烈な勢いで絡みつき、姫夜の体を繭のように覆いつくそうとしていた。

 ハバキは飛びついて、黒曜石の刀で繭を切り裂こうとした。だが銀の糸は雨のようにハバキの上にも降りそそぎ、二人をもろともに包みこもうとしていた。


「姫夜ッ」


 切迫したハバキの声が山肌にこだました。

 その瞬間、姫夜が眼を見開いた。


「――」

「眼の前の妖しを見ろ! おまえでなければ駄目だ。呪はおまえを縛っている」 


 ハバキは力を振り絞って、黒曜石の刀を姫夜の手に握らせた。

 蜘蛛は唾液を垂らしながら、姫夜にむかって大きく口を開いていた。

 姫夜はその妖魅の眼に黒曜石の刀を突き立てた。その瞬間、細い絹を裂くような女の悲鳴が、闇をつんざいた。

 銀の糸はするすると蜘蛛のからだの中に吸い込まれ、八本の黒い脚はみるみる細くなり、体は小さく縮んでいった。そして残されたのは、姫夜の手のひらほどの大きさのジョロウグモの死骸だった。

 ハバキはぞっとしたように体を震わせて立ち上がると、まだ黒曜石の刀を握ったまま呆然と宙をみつめている姫夜の肩をゆさぶった。

 ぽとりと刀が手から落ちた。からだは横さまにくずおれた。


「母……上……」


 姫夜があるかなきかの声でつぶやいて目を閉じた。姫夜の手足は氷のように冷え切っている。


「くそっ、たかが蟲ごときに――」


 ハバキは手当たり次第に、あたりに落ちている枯れ葉や枝を焚き火の中に投げこんで、火を大きくし、姫夜の手や足をさすった。

 だが、くちびるは血の気が失せたままで、いっこうにぬくもりがよみがえる気配がない。


「ばかな――」


 ハバキは焦って闇雲に姫夜の手足をこすった。


 ――酒ヲ。


 それはあの蛇神の声だった。

 ハバキははっとして、そなえてあった酒の壺をひっつかむと、姫夜を抱き起こした。壺をくちびるにあてがったが、酒はむなしくこぼれた。

 業を煮やしたハバキは、とうとう唇をかさね、酒をのませた。

 びくり、と姫夜の体が震えた。

 姫夜はヒュッと音を立てて息を吸い込み、それから激しく咳き込んだ。


「ああ……わたしはまだ……生きているのか?」


 ハバキのこめかみに血の管が浮き上がった。怒鳴りたいのを必死に堪えるように体はぶるぶると震えている。

 ハバキは低く、云った。


「なぜカンナギであるおまえが呪にかかった」


 長い沈黙ののちに、姫夜はこたえた。


「あれは妖しだったが……母でもあった」

「――」

「モモソヒメが、母の死霊を蜘蛛の妖しに封じ込めたのだ」


 姫夜が目を閉じると、涙がこぼれ落ちた。


「……母に詫びたかった。わたしは母をおいて、逃げた。見殺しにした……だから……妖しとわかっていても……」

「食われてもいいと、思ったのか」

「わ、わからない……どうしたかったのか」


 姫夜は激しく声をわななかせ、両手で顔をおおってしまった。

 ハバキはゆっくりと眼を細め、そばに落ちていた黒曜石の刀を拾った。


「それほど母が恋しいか?」


 やさしいとさえいえる、低い声でハバキはいった。


「ハ――」


 冷たい刃がのどに押し当てられていた。姫夜はおびえたように目をみひらいた。

「それほど恋しければ、俺がこの手で黄泉へ送ってやる」

「――――!」


 姫夜は弱々しく首を振ろうとした。


「わからぬだと。もう一度、母に請われればおまえはどうする。黄泉へ下るのか?」

「…………」

「どうなんだ!」


 ハバキが叫んだ。

 姫夜は恐怖に全身を貫かれて体をこわばらせた。


「このまま俺に殺されても、それさえもおのれのさだめと受け入れるつもりか? おまえはモモソヒメを倒す日、俺の隣にいるのではないのか――!」


 ハバキは刀を投げ捨て両手で肩をつかんで、激しく姫夜の体をゆさぶった。

 姫夜のからだはなすがままに、がくがくと揺さぶられた。

 四肢がばらばらになってしまったように、姫夜はハバキの腕に身をゆだねた。


「もしおまえをあの世へ連れ去ろうとするものがあれば、それがおまえの母だろうと父だろうと俺がこの手で殺してやる」

「…………いい」


 姫夜は、ほとんど聞きとれぬほどのかすかな声で、いった。


「殺されてもいい……ハバキになら」


 ハバキの大きな体がびくりと震えた。

 姫夜はなぜ自分がそう答えたのかわからなかった。

 それでもそう答えた瞬間に、心は安らいでいた。

 ハバキはくちびるをかみしめ、姫夜を抱いたまま、闇をにらみつけていた。

 耳が痛くなるほどにあたりは静かだった。山には鳥の啼く声もなく、星もまたたくことをやめたようだった。

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