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幻惑  作者: 天野 進志
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第四章 弦 3

老人は流れる雲を見つめ、「ふぅ」と大きく息を吐いた。


「40」


老人は自己紹介もしていない40の名を呼んだ。


「そうだ、40。お前さんはその竪琴に魅入られた。そして、竪琴がお前さんを選んだのだ。何かの流れの中にお前さんも入っとるという事だ。その流れに人の手は及ばん。残念だがわしらに出来る事はない。ただお前さんが弦の毒にあたって死なん事を祈るばかりだ」


老人の口調はその表情そのままに険しかった。


「アッシュにバート、それにお前さんもか…」


老人はつぶやいた。


そして40に、諭すように話しかけた。


「『人喰いバート』以前の話を知っとるかな。神学以外では表に出ん話だ。知っとる者も少ない。が、『人喰いバート』に限らず前史から狂気に走る者はおるのだ。狂気は人を滅ぼす。故に狂気に憑かれた者は人ではない。禁忌(きんき)とされとる人斬りも、狂気に憑かれた者においては不問となる。アッシュが半ば不問になっておるのも、バートが狂気に走った者だったからだ。40よ。お前さんは今、その流れに入っておる」


老人はもう一度念を押すように言った。


だが、その「流れ」が何なのか40にとってはどうでもいいことだった。それよりもその「流れ」が常人には触れられぬものだと言う事、それこそが重要であった。例えそれが滅びにつながろうとも、40は胸が湧き踊るのを押さえられなかった。


「じいさん、するってぇとこの竪琴は?」


「分からん。先にも言ったようにお前さんが選ばれた証なのかも知れん。またそこへ(いざな)う道標なのかも知れん。わしには分からん」


老人は首を横に振り、どうにもならぬと言うように大きくため息をついた。


「わしの、いやわしと弟子の話をしてもいいかな」


老人は話題を変えた。しかしその話も老人にとっては、したくない話のようであった。


かまわねぇと言う40に、老人はゆっくりと話し始めた。


「気付いとると思うが、わしは司祭だ。もう冒険に出ることもないがな。わしは今までに幾人かの若い者を育ててきた。その中の一人の話だ。その者は若い頃、力に魅入られた。強い力が欲しいと。その気持ちは分からんでもなかった。婚約者がおってな、美しい娘だった。その娘のために自分は強い力を持って守りたいと思ったんだろう。それがどこでどうなったか。あのバートと同じアーベルの滴を手に入れよった。力も何もない者が一生かかったとしても、見つけられぬものをな。迷い悩みはしたのだろう。しかし、力の誘惑には勝てんかった。誰にも知られぬようそれを体内に混ぜてしまいおった。その者の変化に真っ先に気付いたのは、婚約者の娘だった。娘はわしの所に来て、その者の変化を、変わり様を語り、一体どうしたのかと聞きに来た。わしらは驚いた。その者にそんな変化など全く見られなかったからだ。わしらは細心にその者を観察した。その者はわしらの前では注意深く自らに起こった変化を隠しているのが分かった。先にバートの一件があったところだ。わしらにはその変化、兆候の意味するところが分かった。わしらは娘を呼びそれを告げた。その者が狂気に走り始めている事。そして狂気に走った者は人ではなくなる事。即ちその者に人として残された時間が、間もなく尽きるであろう事を。娘は救う術はないのかと聞いてきた。当然の事だ。幸か不幸かその者は狂気に走り始めたばかり、正気と狂気の境にいた。わしらは娘に告げた。助ける手だてはあると。狂気と正気の境は生と死の境に似ておる。今、亡くなったばかりの者の血をその者の体内に混ぜれば、死の鎮魂作用によって狂気を鎮める事が出来ると。プリーストの力と言ってもこんなものだ。いくら秘術を駆使した所で命をもって命を長らえることしかできん。わしらがそのことを娘に告げると、娘は即座に答えた。私の命を使って下さいと」


その時の苦汁と決断がまざまざと思い出されたのだろう。老人の表情は(いわお)のように険しかった。


「そうと決まれば早い方がいい。わしらは秘密裡に準備をすませると、その者、ティスを呼び出した。いかにティスの力が強くなったと言っても、まだわしらの方が強かった。わしらはティスの力を封じ、眠らせ、娘の鎮魂の血をティスの体内に混ぜた。死すべきはむしろ老いたる者の方が相応しいはず。しかし、死の鎮魂と同時に生の息吹を宿らせるのはより若き者の血。娘は全てを知った上で自らの命を婚約者に差し出しのだ。ティスが再び目を開けた時、娘の命は途切れておった。わしは全てをティスに話した。ティスの嘆きは深かった。婚約者のためと力を得ようとした結果が、その命を奪う事になってしまったのだからな」


40はティスが狂気に走っていた事に驚いたが、それを顔には出さなかった。


言い終えた老人は、長い間押し黙っていた。


あの時の苦悩は今も老人と共にあるのだろう。その嘆きは今も続いているに違いない。


40は老人の顔に刻まれたしわの中にそれを見た。


「じいさん。そんな思い出話をして、この俺にどうしろってんだ?」


40は思っていることとは違うことを言った。


老人は(こうべ)を上げると、その黒い瞳で40をまっすぐに見つめて、首を振った。


「どうもせん。アッシュ、ティス、お前さんの三人が組んだのは必然だったのかも知れんと思ってな。ティスもまたアッシュと同じく狂気に関わっとる。お前さんも今、弦に魅入られ、いつ狂気に走るか分からん。いや、そうなんだて」


狂気に走るかも知れないと言われて、40は否定しようとした。しかし、ティスの師は物言いは穏やかだったが、40を強く否定した。


「今話したようにプリーストの力は限られとる。お前さんが狂気に走ったとて助けてやれるとは限らん。ティスの場合は(まれ)な例だ。発見が早く命を差し出してくれる者がおったからな。一度冒険に出れば、いつ帰れるか分からんお前さんたちにとって、狂気に走れば助ける者がそこにいるとは限らん。ティスはその(すべ)を探してはいるが、見つける事は出来なかろう。冒険に出る、と言うこと自体が狂気と取れん事もない。しかしその狭間でお前さんたちは生きとる。死ぬでないぞ」


ティスの師はそう言うと立ち上がり、言うことは言ったと杖をつき、振り向きもせず帰って行った。


「喋るだけ喋って、帰っていきやがった」


40は独り毒づいたが、ティスの師の言わんとしている事は分かった。


40はその姿が見えなくなると、再び竪琴を弾き始めた。


なるようにしかならねぇなら、なるようにさせるだけだ。弦に魅入られたとしても、それはそれで面白ぇ。


40の奏でる竪琴の音が、うつろな街外れの中に流れては消えていった。

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