第三章 惑 2
奴はそう言うとひたりと当てた剣を、ゆっくりと引いていった。肌に触れた刃が、吸い込まれるように消えていった。鈍い嫌な音を立てて、首が地に落ちた。転がった首は魅入られたままの表情だった。死んだことに気付いていないのか、死すら喜んでいるようにも見えた。首をなくした体はそのままの姿で立ちすくんでいた。その切り取られた首からは、血がどくどくとあふれるように流れていた。奴は指先に血を少しつけると、口に運んだ。女が紅をさす仕草に似ていた。それと同時に立っていた仲間の死体が崩れ落ちた。『必要な食が自らやってくる』。顔を隠していたフードが軽い音を立てて後ろに流れた。奴の顔が薄明るいランタンの灯に映し出された。美しかった。切れ長の目にどこまでも澄んだ瞳。白い肌に真っ直ぐに流れる金色の髪。細面の中性的な容貌。たった今舐めた、仲間の血がついた唇でさえ、美しかった。俺は魅入ってしまったと言っていい。一歩も動けなかった。そこに俺は伝説のエルフを見た。今も伝説に残る美しさを。『アッシュ』。奴がそんな俺を真っ直ぐに見つめたまま言った。『道を開いてくれたお前の言葉に敬意を払い、今日は見逃そう。が、二度はない。もっとも、お前が望めばこの身の要を教えてやらぬこともない』。奴は冷たく唇ゆるませた。奴は俺に人を越えろと勧めてきた。俺はそう思った。冷たい何かが再び俺の中で目覚めた。奴が今までに何人の人を殺してきたのか。正義を気取る訳じゃない。しかし、俺はそれが許せなかった。奴は俺が動かないのを見ると、フードをかぶり踵を返し、俺に背を向けた。そこに俺は美しさではなく、残忍さを見ていた。俺は手にしていた剣を持ち上げた。体は自由に動いた。もはや奴に魅入られてはいなかった。『バート』。俺の呼びかけに奴は振り向いた。その時の奴の顔が今も脳裏に焼き付いて離れない。美しかった。あどけなく、俺の知っている昔のままの奴の顔があった。どこまでも真理を探究しようとする真っ直ぐな顔だった。『バート!』。俺は奴の名を叫び、全てを振り払った。俺は一気に踏み込み、振り向こうとする奴の無防備な背中を、斬り上げた。手応えがあった。今もこの手、体に残る何とも言えぬ嫌な手応えが。罪悪感そのものと言ってもいい。俺はすぐに後悔した。奴が俺に何をしたというのか。それを俺は、俺を信じて背中を見せた奴に向かって、剣を上げたのだ。人としてのバートを斬ったのだ。俺は呆然と立ちつくしてしまった。奴は笑っただろうか。斬られた後の奴の顔を、思い出すことが出来ない。俺は奴が笑ったように思えた。そして奴はそのまま闇の中に消えた。今も俺は奴の死を信じることが出来ない。しかし、あの時奴に負わせた傷が、致命傷になっていることも疑わない。俺は、人斬りだ。この手に、体に残るあの手応えが今も俺に語りかける。目をそらすな、と。奴は今も生きているかも知れん。奴がまだ人の血を必要とするのならば、俺は斬らねばならん」
アッシュは眉間にしわをよせた。それはバートを斬らずにすませる理由などないことを表していた。
「俺のまいた種だ。これ以上人斬りの罪を、俺以外の者に背負わせたくない」
ティスは、そうつけ加えたアッシュの「背負う」と言う言葉に、その荷の重さを深く感じた。
生まれたときより染みついている人斬りの罪の重さ。プリーストとしてその重さを常人以上に厳しく戒められ身にしているティスには、アッシュの背負わんとしている辛さがよく分かった。
人斬りの罪を猶予されていようとも、その手に、心に、それは常に残っているのだ。自らの罪とアッシュは言ったが、その重さに耐え続けられる者がどれほどいるというのか。アッシュはだからこそ全てを自分で終わらせようしているのだ。
ティスは自らを振り返り、それでもアッシュの重荷を軽くしようと呼びかけた。
「アッシュ」
ティスは小さく首を振った。
「あなたの罪は罪でないのかも知れません。あなたが斬らなければ今も誰かが彼の元に呼ばれ、命を落としていたのかもー」
「いや」
アッシュは強く頭を振って否定した。アッシュにとってそれは、別の問題なのだった。
しかしティスのその気づかいは嬉しかった。
「俺はそのために行くんだ。俺の犯した行為の結果を捜すために。いや、長々としゃべったな。それよりも次のことだ」
ティスはまだ何か言いた気だった。40もまた深く考えている様だった。だが、アッシュは努めて明るく振る舞った。
「当たり外れは怪しいが大きな情報がある。そこに行こうと思っているんだが。40、乗るか?」
40はアッシュの意を汲み、口元で笑って見せた。
「当たりは好きだが、ハズレは好きになれねぇな。だが一か八かってのは嫌いじゃねぇ」
40は一枚の銀貨を取り出すとピンと跳ね上げ、手の甲で受け取る同時に反対の手をその上に重ねた。
「どっちだ?」
アッシュに聞く。
「表だな」
「じゃ、裏だ」
40が言って、手を上げる。
「かぁっ。これで浮いた宿代がパーだぜ」
40の悔しがりように、ティスがつられて笑った。
「アッシュ。もっといいもの頼んでおくべきでしたね」
「全くだ」
三人はまたいつものように飲み、語り出した。
やがて40は夜の街に消え、ティスには女が一人寄り添ってきた。女がティスから離れる頃には、アッシュは離れて席を取っていた。
その日アッシュは、いつまでもグラスを離すことはなかった。