第二章 眩 2
三年もした時にはその辺の者に負けぬ技量を身につけ、さら数年経った頃にはもはや敵う者など誰一人としていなかった。その頃には奴は俺から離れていた。俺から離れた時、すでに奴は人間としての魔術、剣技の限界を見極めていたのかも知れない。そしてそれは奴の求める境地ではなかったのだろう。いつしか奴は自分の限界に行き詰まっていたようだった。かつての明るさはなくなり、頬はこけて暗い影を落とすようになった。人は次第に寄りつかなくなり、孤独を深めていった。やがて奴を知っている者ですら、別人かと見間違えるようになっていった。それからさらに数年が経った頃、奴に変化が起きていた。それがいつからか分からない。しかし気がついた時には奴は、元の色白の健康的な姿に戻り、今までになかった思慮深さも持ち合わせるようになっていた。姿はより中性化し、どことなくエルフの様相を呈しているように見えた。今から思えばそう言える。しかしその時に気付いた者はいなかった。俺は気付くべきだったのかも知れない。久しぶりに会った時だった。俺は奴の目に、静けさと同時に奥深くつけ狙う闇を見たように思った。思わず警戒した俺に、奴は不敵な薄笑いを浮かべて言った。『アッシュ。何を恐れているんだ。いくら警戒したって剣は魔法に及ばない』。妙だと思った。物言いも態度も何かがおかしかった。『何をしたんだ』。俺は漠然とした不安を隠せなかった。『何をしたんだ、か。別に何もしちゃいない。ただ自分の人間としての限界に気付いただけさ。残念ながら人間には人間としての能力の限界があるんだ。私はそれに気付いただけだよ。それと同時にそんな自分も嫌になったがね』。俺が黙っていると、奴は続けた。『アーベルを知っているか。幻の花さ。切って枯れることなく、百年かけて花を開かせ、そのまま咲き続けるというあれさ。植物としての価値もさることながら、どんな財宝と比べても劣らない価値を持つ』。妙な馴れ馴れしさと、猫なで声が俺の気に障った。背中に悪寒が走った。奴はそれに気付かず続けた。自分に酔っているようだった。『しかしそんな価値も所詮は人間レベルだと言うことなんだ。アーベルがどれ程の力を秘めているか考えたことはないか。百年かけて花を開く、人の時を超えた力。切って枯れることのない生命力。それが魔法の力ではないと言うんだ。自然そのものの力と言うんだ。まさに人間を超えた力、能力だ。この花の真の力を人間どもが理解した時、人間はこの花に跪くのだ』。俺は一刻も早くその場を立ち去りたくなった。奴はもはや瞳の奥の闇を隠してはいなかった。最初に感じた思慮深さは影をひそめ、変わって狂気に満ちた闇が全身から発せられていた。口と目ばかりが異様に目立っていた。目は鋭く光り、写るもの全てを吸い取るかの如き眼差しをしていた。口には殺したばかりの、血をしたたらせる獲物に食いつかんとしている獣の様な残忍さを見せていた。俺は恐怖した。これが人間か。人間を離れた魔物ではないか。『所詮は幻さ。伝説の上のありはしない植物さ』。俺はこの話を切って捨てた。そうでもしなければバートの魔に食われそうだった。『アッシュ。それが人間の限界なんだよ』。奴は見下した調子で言った。奴が元の思慮深い姿に戻っていくのが分かった。それでも奴は憐れみとからかいを混ぜた調子でこう言った。『もしお前が生きているうちにアーベルにお目にかかれることがあったら、よく見るがいい。その花びら一枚一枚に、人間を超える能力が隠されているんだ。そう、花びら一枚から取れる、一滴にも満たない花液を口にすれば、人は人間を超え…』。そこで奴は口を閉ざした。次の一言を言うか言うまいか考えているようだった。だが、奴は内から湧いてくる何かに抗しきれなかったようだった。言葉が奴の口から出た。『そう、人間を超え魔法と剣技を極められる存在になれるのだ。かのエルフのようにな』。奴はさらに何か言いたそうにしていた。それは狂気と正気が奴の中で争っているような姿だった。その勝負は正気が勝ちをおさめた。奴は完全な落ち着きを取り戻すと、『そんな話があるんだ。気にしないでくれ』、と自分で話を打ち切り、自らの姿を隠すように去っていった。俺はしばらくそこを動くことが出来なかった。バートの行動、、それこそが狂気だったのかも知れん。狂気の姿を隠す狂気…」
アッシュの口から出るバートの姿は、今まで耳にしたあらゆる姿よりも生々しく二人を包んだ。そこにいないはずのバートが口元を不気味にゆるませ、アッシュの背後に現れているかのごとき錯覚すら覚えさせた。
ティスは胸元のプリーストの紋章を軽く握り、静かに口を開いた。