第一章 幻惑 2
下から声が聞こえなくなった。どうやら40エールと宿屋の主との交渉が終わったようだ。
アッシュ達は交渉と名がつくものは全て40エールに任せてある。まず相手の言い値の分を40に渡す。ここから交渉によって浮いた金は40の懐に入る。万が一、交渉によって言い値よりも上がった場合には、当然40がその分を被ることになる。いきおい40は、交渉が自分の懐に関わるため、真剣にならざるを得ない。アッシュがアッシュと分かると、そうなることもしばしばあるからだ。
アッシュはこの世界で「人斬り」の罪を負っている。人口が減りゆく今、殺人は何よりもの大罪である。その「人斬り」の罪をアッシュはかつて犯したのだ。人斬りは例え一人であっても人界追放が法である。が、アッシュは証拠、他の証言がない事を理由に、その罪を特に猶予されていた。
とは言え人々の間でそのような特例が広まらぬ筈はない。「人斬りアッシュ」の名は、その顔は知らぬとも罪を背負うべき者として忌避されているのである。
今日の交渉はうまくいったようだ。
階段の下で待っていた40を見つけてアッシュは声をかけた。
「待たせたな。行こうか」
40エール=クロウ、この国でも変わった名前である。何故40と言う数字がつくのか。もちろん俗称であることは確かである。40杯のエール(ビールの一種)を飲むだとか、40の何かがあるなど取って付けたような話もあるが、果たしてどうなのか。
年は四・五十代に見えるだろうか。肌は浅黒く、灰色に近い色である。アッシュと比べれば見劣りすらする程細い。頬はこけ、全身必要最小限の筋肉だけしかないように見える。しかし、その筋肉の一筋一筋が引き締まってい、40のくぐり抜けてきた跡を示している。身長は150センチないかも知れない。ティスよりも色の濃いマントをはおり、革製の半鎧を身につけている。短い灰色の髪、高い鼻、目は深くくぼみ奥底が知れない。申し訳程度に下げたような短剣の他、シーフ道具以外に持ち物らしい持ち物はほとんどなく、身一つが自分の全てであるようだ。シーフとしての腕は確かで、集中力も並はずれている。それだけのものに加えて、心構えについてクセがある。一度頼まれた解錠は何が何でも開けるというものだ。
これはシーフとしてごく当たり前のことのように感じるかも知れないが、こと冒険中となると変わってくる。いつ身に危険が降りかかってくるか分からない冒険の最中、例え解錠中であろうとも自身の警戒を怠れば、死に襲われるのである。それで幾人のシーフが命を落としたか知れない。40の解錠にかける集中力は、守ってくれる者がいなければ死んでしまう諸刃の剣であった。そんな40をシーフ仲間は裏で「匠」と呼んでいる。半分は尊敬、半分は揶揄を込めてである。自分の技、仕事に集中が過ぎ、まともではないと言う意味だ。
しかし40の腕は解錠だけにあるのではない。洞窟の隅々に仕掛けられた罠を発見し取り除き、パーティーの安全を保証する。また戦力としても、その短剣で並の戦士以上の働きをする。そのため冒険中40を見捨てるパーティーはない。が行動を共にするにはその信念が邪魔になる。刻一刻と情勢が変化する中、解錠に時間をかける事は、時として死を招く事と同義なのだ。それは当然仲間との軋轢を生み、時経ぬうちに離れることになる。結果、アッシュのパーティーと出会うまでに、40はいくつものパーティーを転々とせざるを得なかった。
アッシュのパーティーと知り得たのは、まさしく幸運のなせるわざであったのかも知れない。
そんな職人肌とも言うべき40エールを、アッシュは嫌いではなかった。むしろ、ただ生きのびるために、財宝のために汲々と生きている者より、はるかに人間らしいと思っていた。
「何枚だ?」
アッシュは40に尋ねた。宿屋との交渉の結果を聞いている。
40は銀貨を一枚、指に挟んで見せた。
「さすが」
ティスが静かに頷いた。
「主が泣くぞ」
アッシュが口元をゆるませた。
「これからはこの宿屋をひいきに頼むぜ」
40がその眼をいたずらっぽく光らせる。
「なるほど」
三人が皆、笑みを浮かべた。
「まずは生きて帰らんとな」
アッシュが自分自身に言い聞かせるように言った。
そこはいつも死地への第一歩である。生死をかけたあげく傷ついた体だけで戻ることもある。それでも三人はその道を選んだのである。40の肩を叩き、アッシュたちは宿屋を後にした。