最終章 3
40が全身の力を振り絞りアーベルにわずかずつ這い、にじり寄る音だけが聞こえる。もはや息づかいさえ聞こえぬほど、40に力はない。
だがアッシュは40が間合いに入った時、逃げることなく40を見据え一切を断ち切るその腕を振り下ろした。
どちゅり
40の首が胴から離れ、地に転がった。
びゅる
一度だけ、弱々しく血が噴き出した。
40の命が消えた。
40の血だけが、アーベルへと流れていった。
40の遺体を見つめ、微動だにすら出来ぬアッシュ。
そのアッシュに近づき、ティスはようやく呼びかけた。
「アッシュ。あとは、私の、仕事です」
切れ切れの声で言うと、ティスは40の元に跪いた。
40の血はアーベルへと向かい、その根本に広がる布ーローブに吸われていた。
「!」
ティスは驚き、目を見開いた。
血で染まるはずのローブにその色はなく、赤い線だけがただ一本、ローブの端からアーベルへと伸びているのだ。それ以外に赤い色、40の血の色はなかった。アーベルがローブに含まれる血を吸っているとしか考えられなかった。気のせいか薄黄緑の花のつぼみに紅が差したかのようだ。
ティスの額には汗が浮かんでいた。アーベルは血を養分とするのか。ティスは絶句した。
その40の体の下から弦の切れた竪琴が覗いていた。
『弦は幻に通じる』
かつて聞いたことのある言葉が浮かんだ。
この国で曲を表立って奏しない理由。それはこの弦と幻の共振にあるのかも知れないと、ティスは思った。
「40は、アーベルに、呼ばれたのかも知れません」
そう言いながらティスは、幻の花の根本にある灰色のローブに『V・L・P』の刺繍文字を見つけた。バート=リュリーの頭文字だった。
もしそうだとするとこの花そのものがバートであり、アッシュの人斬りの罪そのものであった。
アッシュも共にその刺繍を認めたようで、無言でわずかに頷いた。
その顔にはあの酒場で見た苦悩があった。
ティスの心が痛んだ。
バート、40の死を負ったアッシュにもう一つ、背負ってもらわねばならなかった。
「アッシュ」
ティスは片耳にかかっていた、滴型の水色の透き通った耳飾りを外し、アッシュに差し出した。
「これを、我が師に、渡して下さい。私も、ここまでなのです」
手を出しかけたアッシュの動きが止まった。
「今にも、狂気に、走り出しそうなのです。狂気に走り、ここを抜ければ、多く血を、貪るに違いなのです。私は、次に法術を使えば、間違いなく狂気に走ります。いえ、分かるのです。アッシュ、私が、最後の法術を使ったら、私の命を、消して下さい。お願いします」
バートを斬った事に苦悩し続けていたアッシュ。そして今、40を斬りティスまで斬らねばならない思いはいかばかりなのか。それでもティスはアッシュに全てを託さねばならなかった。これ以上イーメル、自分のような者を出したくはなかった。
全身に冷や汗がにじんでいた。体が震えてくる。まさに時間が迫っていた。
アッシュはそんなティスの覚悟を受け止めたように頷いた。
そして耳飾りを受け取ると、もう一度小さく頷いた。
アーベルの横に40の亡骸を横たえて、ティスは全ての力を合わせて詠唱を始めた。
それは今まで聞いたこともない詠唱で、そして滅多に使われることのない『消滅』の法術だった。その静かな詠唱が終わるとティスは40に触れ、アーベル、バートのローブ、そして自らに手を当てた。
ティスが最後にしたのは、狂気を元に戻すことではなく、狂気の元を消し去ることだった。狂気を発するのが人である以上、狂気がなくなることはない。しかし、狂気を呼び起こす元、アーベルは消し去ることは出来る。それがティスの取った道だった。自身狂気に捕らわれている身をも消し去ることが。だが、唯一の心配は消滅の法術が効果を現す前に、狂気に捕らわれることだった。アーベルに呼ばれたかのような40ですら、突然魔法を使ったのだ。ならば法術を知る自分が再びこの場で狂気に捕らわれれば、一体何を起こすか分からなかった。
ティスがその手を自身から離した。
「人斬り」と呼ばれる宿命とすれば、あまりにも過酷であった。憎むべき者を斬るのではない。長きにわたる仲間を二人続けて斬らねばならぬのである。
ティスの詠唱は遺言のように響いた。アッシュへの詫びのようであった。人斬りの名とその罪を背負い再び戻る。それは想像すら出来ぬ辛さだ。
が、躊躇は出来なかった。
もしティスの言う通りにティスが狂気に走れば、アッシュは止めることは出来ないであろう。40との戦いでそれは充分に思い知らされた。アッシュ自身ここから抜けられるかも、もはや分からない。
しかしー。
アッシュは振り上げた死を、その首に下ろした。
時を置かず40、アーベルが白き灰のように変わり、光の塵となり、バートのローブもティスも共に全て消えていった。
そこは、もはやランタンの灯では照らしきれぬ空間だけになった。
ただ一人だけ残されたアッシュは剣を収めることすら出ず、跡形もなくなった大地を黙と見つめ続けた。