本食系彼女
のどかな秋口の昼過ぎ、本棚を眺める浩司の口からあくびがこぼれる。読書の秋なんて柄ではないのだが。
この棚には主に実用書の類が置かれているようだ。浩司はなんとなく目に入った小さめの背表紙に指を引っかける。
その本には草食系肉食系なんたらと長ったらしい題名がついていた。世間というのは本当に妙な造語を流行らせるのが好きだなと思いつつ流し読みする。
この言葉でたとえるなら、浩司は自分を肉食系男子というやつだと思う。語弊を気にせず言うと欲望に忠実だからで、診断テストをするまでもない。
ただ世の中にはこの分類にはまりきらないような人間もいる。たとえば現在ひとり用ソファに腰かけて読書している浩司の恋人――文乃は草食系でも肉食系でもないだろう。
彼女は食事と同義くらいに読書を嗜む。常に本を持ち歩き、本を糧に生きているのではと思う時すらある。読書家なんて健全な表現では足らない、言葉にするなら本食系女子、この方がしっくりくる。
浩司は本を差し戻し、すっかりミス・マープルになりきっている文乃の元へと向かった。
「おい文乃。まだ終わらないのか」
老嬢探偵だった女は本を閉じると、さえない女子大生宮沢文乃の顔に戻った。
「ごめんね、寺山くん。つい」
「まあ、どこに行きたいかって聞いたのは俺だけど」
これでも一応デートの最中だ。今日はたまたまふたりして取ってる講義が午前で終了し、こうして市営図書館でくつろいだりなんかしている。
平日昼間の図書館は新聞を読みに来た老人がいるくらいで、ほとんど貸切状態である。文乃にとっては温泉にひとりで入ってるみたいなものだろう。浩司はちっとも気持ちよくなんてないが。
「喫茶店にでも入らないか。腹減ってんだ」
「うん」
文乃は思いのほか素直にうなずくと、火曜クラブなる短編集を本棚に戻し閲覧室の出口へと歩く。
かと思えば、名残惜しそうに本棚をちらちら振り返っている。
「借りてけば」
見かねた浩司はそう持ちかけてみたが、
「返す時にきっとどっさり借りちゃうから」
と苦笑した。本食系女子もこれで自制しているらしい。健気なんだか何なんだか。
文乃と出会ったのは、進級して間もない春先のことだ。
週に何度か講義が一緒になる彼女は、常に窓際の最後部席をキープしひとりきりでいた。隅っこ学生ってやつか。
放りっぱなしみたいな黒髪に、化粧っ気もなく、寝ぼけ眼みたいな垂れ目がある意味印象深い女子だった。お洒落する間も惜しいほど勉学に励んでいる人種、そんな風に映っていたかもしれない。
ある日、眠りへといざなう教授の声色に耐えかねた浩司は、彼女のいる斜め後ろの席に目を向けた。真面目な勤勉女子の受講姿でも見て暇つぶししようと考えたのだ。
ところが彼女は参考書、ではなくカバーのかけられた本を堂々と読んでいた。がくっとした。自分と大差ないじゃないか。
ただ、きりりと口を引き結んだその表情は真剣そのもので、戦に赴く一兵のようでもある。――戦記でも読んでいるんだろうか。
あまりの熱心ぶりに引っ張られ、浩司はその読書姿を観察することにした。
ふと、彼女の表情が苦痛そうに歪む。撃たれたか?などと勝手に内容を推察するうちに、その黒目からひと筋の雫が頬を伝っていた。
ほんの退屈しのぎのつもりが、浩司はすっかり目が離せなくなっていた。
やがて潤んだ瞳に徐々に明るさが差していく。彼女は講義が終わる頃には、目元をぬぐいながら満ち足りた表情で本を閉じていた。
今時子供でも本を読んで泣くなんてあるだろうか。そう冷静にことを見ている自分と、見とれてしまっている自分がいた。
翌日から、同じ長テーブルに鎮座し間近で観察するようになった。早い話、あの表情に惚れてしまったのだ。
「あのお」
「あー、俺のことはいいよ。続けて。つーか読め」
「はあ」
彼女は浩司に従い、ふたたび読書へと戻っていく。
そしてまた無防備な表情を本へと向けるのだ。ある時は恋する乙女、ある時は悩める文豪、またある時は漂流者――。
こんなやりとりからしばらくたった頃、浩司がつきあってほしいと告げると、彼女はそんなこと言われたの初めて、小説みたい、とのんびりした口調で快諾した。
ナポリタンをフォークに巻きつけつつ、真向かいに座る文乃の顔を覗き見る。
カバンに本を持ち歩いている文乃は、料理が来るまでは実にしあわせそうに読書をしていた。文乃の説明をかいつまむと、中年女性作家によるなんでもない恋愛小説らしい。
そして今、さっきまでの面影はかけらもない。旨いもまずいもないようなぼんやりさでキリマンジャロコーヒーを啜り、作業的にホットケーキをカットしている。
この文乃という女は、本に対しては百面相する癖して実生活では表情に乏しめだった。大抵このようにぼけっと眠そうな顔をして、マイペースに日々を生きている。
我ながら変なやつに恋してしまったものだ。
「あっつっ」
もう少し置いておけばよかったか、と浩司は火傷した舌をなめずる。
「ふーふーしたの?」
「しねえよ、そんなん」
子供じゃあるまいし。そう続けようとした時、今しがたホットケーキを突き刺していた文乃のフォークが鉄板にのびる。
文乃は浩司よりもいくらか器用にパスタを巻き取り、ふうふう息を吹きかけていた。
「おい……」
その仕草に、ごくりと思わず唾をのみ込みかけて――がくりとした。
「お前な、人のパスタ食ってんじゃねえよ」
「えへ……あんまりおいしそうで」
へらっとはにかみ笑いみたいなものを浮かべ、文乃は浩司のフォークをつついた。
「ふーふーしてあげよっか」
「そう言いつつ食う気だろ。姑息なやつ」
浩司は本ばっかり読んでいるこの文乃にからかわれたような気がして、ほんの少し悔しかった。
「で、次はどこ行くよ」
さっき妙なことをされたおかげで、浩司は若干いかがわしげな気分だった。それとなく腰に右手を回し、そのやわらかさを堪能する。
どこから見てもインドア派な文乃の体はいい具合にふくらかで、触れていて心地がいい。彼女のとりえと言ってもいいだろう。
「ほら、俺の部屋とか」
「本屋さん」
浩司の私欲にまみれた台詞にそうかぶせると、文乃は昔からある個人書店を指さした。
「お前、またかよ」
「図書館に新刊はないもん」
文乃は浩司の腕をすり抜け、ふわふわした足取りで自動ドアの先に消える。浩司は肩をすくめ、文乃とは別方向の雑誌コーナーへ向かった。
文乃から本を取り上げることなど不可能なのだ。
隅っこに積まれた成年雑誌をめくってみるが、いまいち満たされない。
しかし一度こういうことを考えたら引っ込みがつかないのが男ってものだ。やっぱり文乃のあのふわっとした体でないと。
浩司はそのまま戻すのも癪で、禿げ頭の老人店主を揺り起こし会計を済ませた。少し遅れて紙袋を抱えた文乃が自動ドアから出てくる。
「あれ、寺山くんが本買ってる」
「エロ本だけどな」
「ふーん?」
リアクションの薄い文乃に対し、もう少し効果的なセクハラはないだろうかと我ながら馬鹿なことに思考力を傾けていると、
「寺山くんの部屋で読んでもいいかなあ」
との不意打ちを受けた。
浩司が暮らしているアパートの殺風景な一室で、文乃は言葉通り黙々と読書をしている。浩司はいつも通り観察に徹しているが、これなら別にここでなくてもいいような気がしてきた。
「文乃さ、どういう本買ったんだ」
本食女子最大の楽しみを邪魔して悪いとは思いつつも、かまわず話しかけた。これだってデートの続きに違いない。一日文乃の行きたいところについていってやったのだから、自分のことも少しは汲んでほしいものだ。
「ど、どうしたの?急に」
らしくもなくどもっている文乃の背中に張りつき、本を持った手を掴んでぐいと引き寄せる。
「きゃ……寺山くん、この本は……」
「暇なんだよ、俺にも読ませろ。えーなになに、彼女の蜜壺からはとめどなく愛液がしたたり……げほ、ごほっ」
官能小説、それも駅前で男が買うようなハードな文章が目に飛び込む。あまりに予想外で、浩司は盛大に咳き込んだ。
「お前、俺よりスケベな」
「わ、わたしだってね。こういうの読みたいときくらいあるよ」
頬を紅潮させながらも、いつものぼやっとした彼女らしからぬ強気な態度で文乃は小説を奪い返してきた。
「本は疑似体験だったり、一日の指標だもん」
「はあ?」
急に哲学じみたことを言い出す文乃に、浩司はぽかんとした。
疑似体験はまあわからないでもない。何しろ読書中に泣いたり笑ったり苦しんだり忙しいやつだ。登場人物になりきっているんだろう。
それはともかくも、大学帰りのなんとなくのデートに指標が必要なのか、それも小説で。
「だって私、男の子とつきあったの寺山くんがはじめてだし、デートって本の中のデートしかわかんないから……だから本を参考に……」
「つまりあれか、お前。恋愛小説の気分になった上で、エロ小説みたいなオチで締めたかったと」
マープルはよくわからないが、華麗に事件を解決したい願望でもあるんだろうということにしておく。
「う……あってるような……あってないような……」
浩司はにやと口元を歪め、文乃を傍らのソファに押し倒した。
「そりゃちょうどいい。俺もそういう気分だったんだ。なんせ俺も、エロ本読んだばっかだからな」
本ばかり読んでいる本食系女子は、今この瞬間は確かに、本に向けるようなとびきりの可愛らしい表情を自分に向けてくれているのかもしれなかった。
「あとな。いいかげん寺山くん呼びはやめろ」
文乃はやや悩ましげに、浩司くん、とつぶやいた。