日没
「おお、これは凄い!」
目の前に広がる絶景に、部長が快哉を上げる。
町並み保存地区の東、丘陵の斜面に隣接するように建てられた西方寺普明閣。
京都の清水寺を模して建立されたここは舞台作りになっており、竹原の町が一望できるスポットとして有名である。
奇妙な怪談話もいいけど、やっぱりまずは観光だよね。というわけで、お腹も満たされた僕たちは、こうして江戸時代の横町の雰囲気を思いっきりエンジョイしているというわけだ。
もちろん、ガイド役を買って出てくれたのは衣笠先輩である。
「でしょ、でしょ! ここは小学生の頃からよく通っていた、私のお気に入りの場所なの。眼下に広がる町並みを眺めていると不思議と気持ちが落ち着くというか。まるで風に乗って、往時のざわめきが聞こえてくるみたいで」
古い建造物が壊され、新しく生まれ変わる町が多い現代でも、ここだけは変わらない。
竹風鈴の音色も。瓦葺きの屋根も。菱格子の出窓も。酒蔵の匂いも。
すべてが昔の姿で残っている、と衣笠先輩は語る。
「それにほら、瀬戸内の島々と朝日山が織り成す景色も綺麗でしょ?」
竹原を訪れた人は必ずここにのぼる、という理由の一つがまさにそれだろう。
舞台の左手には、夕陽の光を反射して燃えるような黄昏色に染まった瀬戸内海。
また右手には、ずっしりと腰を落ち着けて町を見守る朝日山。
瀬戸内海を光の波と形容するならば、朝日山は大地の波といったところだろうか。
まさに荘厳にして雄大な眺め。
これまで多くの人を惹きつけてきた竹原の魅力がぎゅっと詰まった、とても素敵な場所だ。
しかし、そんな空気を読めない人が約一名。
「ふむ。向こうに見えるのが竹原港か。波も穏やかで、そう入り組んでいるようには見えないが、もっと別の要因があるのかもしれない。あの近くまで行くことはできるのか、衣笠玲奈」
部長……。せっかく良い眺めなんですから、もっと楽しみましょうよ……。
「そうは言うが、古澄君。君もなかなか一つのことに熱中しやすい性格だと思うよ。ここに来てから今まで一体いくつ写真を撮ったのかね?」
「え、えっと、ちょっと覚えてませんね。あはは……」
痛い所を突かれた僕は、曖昧に笑って誤魔化す。しかし先輩たちの追撃は止まらなかった。
「いやぁ、ついに古澄君もキャラ壊れたのかと思いましたねー」
ぐさっ。
「まったくだ。二歩進むごとに『写真撮りたいので待ってください!』だからね。正直、何度置いていこうかと思ったことか」
ぐさっ、ぐさっ。
「まあ、古澄君のカメラは一昔前のフィルム式だし仕方ないよ、マッキー。現像しないと上手く撮れているかわからないから、念のために枚数撮っておきたいのだろう」
「いや、あれは純粋に舞い上がっていただけだと思うが。鳴瀬君も覚えているだろう? 笠井邸の二階へ上がらせてもらった時、身を乗り出し過ぎて窓から落っこちそうになっていたのを」
うわーっ! その話はやめてー!
「ああ、あれはびっくりしましたね。急に姿が見えなくなったと思ったら、『大変じゃ! はよぉ助けんと!』って老人が駆け上がってきて、そのまま窓の外へ出て行こうとするんですもん」
「偶然、服と足が屋根に引っかかっていたから良かったものの、そうでなかったら今頃はあの世だったかもしれないぞ、古澄君」
「……はい。以後、気をつけます……」
笑い事ではないので、僕は素直に頭を下げる。でも撮りたい風景があると、どうしても体が反応してしまうんだから仕方ないじゃないか。
「うーん、そんなに良い写真が撮りたいなら、ポストカードを参考にしてみるというのはどう? 私もたまに道の駅で見かけるんだけど、あれもプロのカメラマンが撮影したものだからなのかな。大自然の迫力が間近に感じられるようで、いつも圧倒されるんだ」
「ポストカードが売っているんですか!? それは是非!」
自分の腕を磨くには、他人を参考にすることも必要だぞ。――常日頃から父さんに言われ続けてきたことだ。写真部に入ったのも、フォトコンテストやイベントで色んな作品に触れて、感化されようと思ったからでもあるしね。
「それじゃあ、途中で道の駅に寄りましょうか。あそこならフレンチレストランや産直市もあるし、花火大会までの時間潰しにも打ってつけだと思うから」
西方寺を離れて、再び本町通りに戻ってきた。
波打つような大屋根。うぐいす色の漆喰。切り絵のような羽目板。
大壁造りの豪邸もあれば、商業の神が祀られた小祠も人々の目を楽しませる。
もちろん建築物だけでなく、修景広場のような竹と一体化した空間も見所だ。
「そういえば、さっきも気になったのだが」
竹鶴酒造の前を通り過ぎ、本町の入口まで引き返した所で、部長がふと足を止めた。
何事かと振り返ると、部長は観光コースから横へ伸びる細い路地を指さしながら、
「向こうに大勢の人が集まっているみたいだが、あれは何だね?」
と衣笠先輩に訊ねた。
ちらっと路地の奥へ顔を向けると、確かに人だかりができている。
「あ、そっちにはお祭りで使う道具を仕舞うための土蔵があるのよ。普段は鍵がかかっていて入れないんだけど、今日は花火大会の日だから必要な物を運び出しているんだと思う。お姉ちゃんは何度か準備に参加したことがあるらしいけど、私は詳しくは……」
申し訳なさそうな顔をする衣笠先輩に、部長は慌ててフォローを入れる。
「いや、少し気になっただけだから、そう気に病む必要はない。それよりも先を急ごうではないか。もうすぐ日が暮れてしまう」
実際に花火が打ち上げられるのは竹原から一駅離れた大乗駅周辺であり、日が沈んでからは場所取り激戦区に様変わりすると言う。良いポジションで見ようと思ったら、早めに現地へ到着する必要があるのだ。
しかし僕たちは喧騒と混沌のまっただ中に身を投じるつもりは全くなかった。
被写体に接近すれば確かに迫力は増すのだが、花火のような巨大なものが対象だと、逆にフレームに収まらない可能性が出てきてしまうからだ。
さらに最大の障害がなんと言っても人混みで、あまりに人数が多いとカメラを構えることさえ難しくなる。また、良い絵が撮れたと思っても、確認してみると隅っこに人の頭が写り込んでしまっている例も少なくない。ようするに不安定要素が多すぎるのだ。
そこで僕たちは、やや遠くから望遠撮影する方法を選ぶことにした。
ただ見るだけならこれから向かう竹原港でも申し分ないとのことで(視界を遮るものがないからね)、怪談の調査ついでに花火鑑賞もそこですることに決めたのだった。
本町からさらに南下し、道の駅へ。
そのまま国道沿いに歩くと、すぐ竹原港へと出た。
「へぇ、けっこう活気ある港なんですね。フェリーや高速船をあちこちに見かけますし」
鳴瀬先輩の言うように、比較的狭い港湾にはボートやフェリーが数多く停泊しているが、漁船はあまり見当たらない。純粋に海上交通の拠点として役割を果たしているのだろう。
ちなみに湾の対岸は工業地帯になっていて、町唯一の煙突からは白い煙がもくもくと立ち上っていた。
「うん。と言っても、ほとんどが大崎上島と下島を往復する便だから、行ける場所は限られちゃうんだけどね。ちょっと前までは今治を結ぶ航路もあったのに、なんで廃止になっちゃったのかなー」
「一番の原因は2006年に尾道・今治を結ぶ西瀬戸自動車道が完成したことでしょうね。高速利用者の増加は、そのままフェリー利用者の減少に繋がりますから。そのせいで廃止になった航路も一つや二つじゃないと聞きます」
「そっかぁ。高速道路かぁ……」
それをどう感じ取ったのか。
衣笠先輩はしんみりと何かを呟いたが、それは力強くも儚いフェリーの音へと吸い込まれていった。
「さて、まずは現場風景を写真に収めることから始めようか、古澄君」
竹原港の桟橋に着くや否や、部長は早速愛用のカメラを構えて鼻息を鳴らしている。
本当にこの人は……。
「写真を撮るのは構わないですけど、まだ完全には日が沈んでいませんよ。怪談の真偽を検証するなら、もう少し待った方がよくないですか?」
「チッチッチ。わかってないなぁ、古澄君は。三つの怪談がどれも深夜に起きているのは事実だが、原因までそこにあるとは限らない。例えば、干潮・満潮の違いが関係しているのかもしれないし、昼と夜では島の輪郭を視認できる範囲も当然変わってくるだろう。ありとあらゆる角度から突き詰めてこそ、真実は見えてくるんだよ」
はいはい……。撮ればいいんでしょ、撮れば。
「でも、マッキーの指摘もあながち間違ってはいないと思うよ。これは直感だけど、僕も“現場は海上でも、原因は陸にある”と思う。見ての通り、ここは中国山地と四国山地に挟まれた瀬戸内海だ。太平洋や日本海ならまだしも、天候や海流が直接影響を及ぼすとは考えにくい。きっと、何かあるんだ。島に囲まれたこの地ならではのカラクリが」
「流石だ、鳴瀬君。君のような優秀な助手がいてくれて、僕は幸せだよ」
「さっきも言ったが、僕はマッキーの助手になった覚えはない」
肩に置かれた手を、邪険に払いのける鳴瀬先輩。
シクシク……と(嘘)泣きし出す部長を気にもとめていない。
「そうか……。鳴瀬君はそんなに冷たい奴だったのか……。今まで我々が築き上げてきた友情はなんだったのか……」
「一人ミュージカルやってないで、部長も早く撮影に加わってください」
「古澄君までそんな毒舌をどこで覚えたのかね!?」
朱に交われば赤くなる。他でもない部長本人から学んだのですよ?
ともあれ、僕はカメラを通して、四角く切り取られた世界を覗いてみる。
海面に踊る光の粒。そのレールの先には、大崎上島へ落ち行く夕陽が淡く輝いている。
山の頂上に一定間隔で立っているアレは送電塔だろうか。まるで避雷針のように先端を天へと伸ばすそれらは、低く垂れ込める雲を支えているかのようだった。
ほかには気象台らしき建物も見て取れるが、遠すぎて詳細は判然としない。
四角い窓は、続いて対岸の工業地帯を映し出す。
あとから衣笠先輩に訊ねたところ、この辺りは金属工業や製鉄業で成り立っているらしく、尾道と違ってクレーンは一つも見当たらない。煙突がやけに高く見えるのも、周りに比較するものがないせいだろう。
しかし輸出入は頻繁に行われているのか、エリアの最も端に位置する工場からは大きな桟橋が延びていた。
「あれはおそらくコンテナ船専用の桟橋だろうね。旅客ターミナルとして機能するこの桟橋と完全に分離することで、作業効率をよくしているのだろう」
ようやくショックから立ち直った部長が、突然フレーム内に侵入してきて解説する。ばっちりカメラ目線をキープしているところは流石だが、はっきり言ってすごく邪魔だ。
「………………」
「………………(カメラ目線)」
そのまましばらく待っても一向にフレームアウトする気配がなかったため、僕は諦めて聞く。
「何かわかったんですか、部長」
「いや、正直に言ってさっぱりだよ」
じゃあ一体何がしたかったんですか、あんたは!?
僕の心の叫びに気付いているのかいないのか、絶賛テンション迷走中の部長は上機嫌に続ける。
「しかしだね。謎というものは、わからなければわからないほど面白い。――そうは思わないかい?」
逆光になって部長の表情はわからない。でも僕には、なんだか笑っているように見えた。
解けない問題を前にしてなお部長は笑っているんだ……。
「簡単に解けたらつまらないじゃないか。でもそれはトリックの複雑さという意味ではない。本当に面白い謎とは、トリックを隠す巧妙さに長けている問題だよ。すぐ目の前に答えがあるのに、客はそれが正解だとは気付かない。いつまでも見当違いな方向へ模索してしまう。もしかしたら、今の我々がまさにそうなのかもしれない」
見当違いな方向……?
「トリック自体はシンプルで構わないんだ。それに気付かせない技術さえあれば、ね。瀬戸内の自然はそういう意味で完璧だよ」
ただ、と部長は指を立てる。
「我々も負けてはいない。現に“仮説くらいは思いついたからね”」
「え、ほんとですか!?」
「ほう。それは是非聞かせてもらおうか、マッキー」
僕と鳴瀬先輩は部長に詰め寄った。
しかし部長は僕らを片手で制すと、くるりと背を向けて言った。
「残念ながら確証がない。まだ君たちに話す段階ではないよ。でも夜になれば――」
どこか遠くを見つめたまま。まるでそのときが来るのを待っているかのように。
部長はそれ以上語ろうとはしなかった。
僕も色彩が失われつつある瀬戸内海を見遣る。
――闇が、すぐそこまで迫っていた。




