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写真部の活動 前編

 ――さて、僕自身もどうして自分が学校の屋上にのぼって、向かいの教室の席に座っている女の子にカメラを向けているのかわからないけど、ひとまず物語を始めよう。

 季節は梅雨明けの七月中旬。夏も本格的に感じられるようになり、空には巨大な入道雲がいくつも浮かんでいる。試験週間中はぴりぴりしていたクラスメイトも、今では目の前に迫る夏休みに皆浮き立っているようだった。ただ一人、僕を除いては。

「部長。どうしてこんな蒸し暑い日に、わざわざ学校の屋上に侵入してまで盗撮まがいなことをしているのか、未だに理解できないのですが……」

 僕は止めどなく流れる汗を手でぬぐいながら、隣でカメラを構えている部長に聞く。真夏の太陽に晒されたコンクリートは火傷しそうな熱さになるうえ、照り返しで上空の空気も温められる。プールサイドみたいに水を撒ける環境ならまだいいが、生憎ここにはホースも何もないのである。ゆらり、と不規則に揺らぐ陽炎が、茹だるような暑さを存分に物語っていた。

「やれやれ、君の記憶力の低さには感心しないね。顧客の依頼内容を忘れる写真家がどこにいる」

 呆れたように部長が呟く。その返答で、部長との間に論点のズレが生じていることを悟った僕は、単刀直入に言い直す。

「いや、内容はさすがに覚えてますよ。ただ、この炎天下で撮影を続けるのは些か無謀ではないかと……」

 と言うより、間違いなく熱中症を起こして病院に運ばれる羽目になるだろう。自分の命が大事な僕は一刻も早く校舎に避難したいが、部長が制服の袖をがっしり掴んでいるので逃げられない。

「まあ、待ちたまえ。君もプロの写真家を志すのなら、まずは被写体をカメラに収めることを最優先に考えるべきだろう。文句や愚痴をこぼすのはそれからでも遅くないと思うがね」

 眼鏡をキラリと光らせて説教する部長にも一理あるが、僕は素直に頷けない。せっかく撮影しても、その場で力尽きてしまったら元も子もないのである。

「“心頭滅却すれば火もまた涼し”だよ、古澄君。心を強く持てば、どんな苦痛も苦痛ではなくなるさ」

「……でもそれを唱えたお坊さんって、焼死していませんでした?」

「細かいことを気にしている場合ではない。無駄口を叩く余裕があるなら、さっさと彼女の写真を撮りたまえ」

 親指で例の少女を示す部長。はいはい、わかりましたよ……。

 僕は改めてカメラのファインダーを覗く。途端、世界が四角く切り取られる。

 この感覚だけは何年経っても新鮮だ。そこにはいつでも新しい発見と違った表情が顕れる。

「ふむ。ここからでは少し遠いな。おまけにカーテンが邪魔で、横顔をきちんと収めるのは至難の業だ」

 僕も望遠機能を使って、少女に接近する。部長の言うとおり、彼女はカーテンの陰に半分隠れるような位置に座っている。強い日差しを遮るためだろうけど、こちらにとっては望ましくない状況だ。……まあ、屋上から盗撮しようとする人間なんて、僕らを除いてほかにいないだろうけど。

「部長、どうしましょう?」

「ふむ、そうだな。ここは一つ鳴瀬君に頑張ってもらうとするか」

 部長は制服のポケットから携帯用無線機トランシーバーを取り出すと、鳴瀬先輩に繋いだ。ちなみに先輩は現在、実験棟の屋上で待機しているはずだ。

『はい、こちら鳴s――』

「駄目だなぁ、鳴瀬君。そこは暗号名コードネームで応答しなければならないと、昔から決まっているんだよ。もしこの会話が生徒会役員に盗聴かれていたらどうするつもりだね」

『……いくら生徒会でも無線を傍受する装置なんて持ってないと思いますが……』

 不機嫌そうな先輩の声。通信を切断したいのを必死に我慢しているんだろうな……。

 もちろん、そんな反論をしたところで、自分の世界に浸りきっている部長には届かない。

「まあ、いい。とにかく次からは気をつけたまえ。――ところで、君に一つ頼みがあるのだが」

『何ですか?』

「うむ。予定では僕のカウントに合わせて、三人で一斉に制圧”写”撃を仕掛けるつもりだったのだが、こちら側に問題が発生してね。被写体がカーテンの陰に隠れてしまって、フレームに収めることが難しい。そこで、だ。君には二年六組の誰かとコンタクトを取り、その人物に、少しの間カーテンを開けてもらうように指示してほしい。あとは僕と古澄君がなんとかしよう」

『だったら何も六組の連中に頼まなくても、僕自身が行けば――』

「いいや、駄目だ!」

 部長が鋭く遮る。そして心底怯えたような表情で続けた。

「忘れたのかい? あの教室には生徒会のナンバーツー、衣笠きぬがさ玲奈れいながいるってことを」

 トランシーバーの向こうで、鳴瀬先輩も息を呑む気配がした。

「衣笠玲奈の鼻はピカイチだ。少しでも怪しい動きをすれば、職質は避けられない。もし彼女に捕まったとき、君は何て言い逃れする気だね」

『……素直に六組の奴らに頼むことにします』

「うむ。では、任せたよ」

 ふぅー、と息を吐きながら、部長は無線を切る。

「これでよし、と。我々は対象に動きがないか、引き続き見張っていることにしよう」

「……前々から疑問に思ってたんですけど、ここ本当に写真部なんですよね?」

「なに言ってるんだ、古澄君。我々はもう三ヶ月も苦労を共にした仲間だというのに」

 やれやれ、と言うように首を振る部長。僕はこの三ヶ月の“苦労”を思い起こす。

 学校裏の坂道を利用して、ダッシュにおける瞬発力・加速・敏捷性・持久力の強化。迷彩服を着用しての匍匐前進。高層ビルの展望台に上って、高所恐怖症の克服および望遠ショットの訓練。夜間写撃の成否を左右するフラッシュ撮影の技術向上。対生徒会役員を意識した、迎撃および逃走シミュレーション。最低限の護身術の習得。レンズの交換およびカメラの分解・組み立てにおけるタイムラグの縮小など、以下多数。

 ――どう見ても、自衛隊か特殊部隊の訓練メニューにしか思えないんだけどな……。まあ、小学校のときから苦手だった体力測定の結果が、D→Aに急上昇したのはうれしいけど。

「大丈夫。我々はプロだ。今回もきっと上手くやってみせるさ」

 ウインクする部長に、僕も黙って頷き返した。


 さて、鳴瀬先輩が独自の任務に当たっている時間を利用して、もう少し詳しく状況を説明しよう。

 そもそもの始まりは一週間前の木曜日。部長の下駄箱に入っていた手紙に書かれた依頼内容だった。

『突然のお手紙申し訳ありません。ですが、どうしても写真部の方々に頼みたいことがあるので、こうしてペンを執らせていただきました。

 唐突ですが、俺には好きな娘がいます。でもその娘、今年の夏には北海道に転校してしまうみたいで……。この前思い切って告白しようとも思ったのですが、振られた時のことを考えるとどうしても勇気が出なくて結局……。いえ、すみません。なんだか恋愛事の相談みたいになってしまいましたね。本題を書きます。

 正直、彼女のことは未だに俺の中で整理できていません。告白できなくても、それはそれで俺の気持ちの表れなのだと思っています。でも、せめて転校する前に一枚だけ、彼女の写真を撮ってもらいたいんです。情けない臆病者だと思われるかも知れませんが、俺が彼女を愛したことだけはいつまでも忘れたくないので。

 ――すごく私的な事情に付き合わせてしまって申し訳ありません。それでは、お返事お待ちしています。 二年三組 橋本圭吾』

 僕たちは手紙をテーブルに中央に広げて、定例会議を始めた。

「初めて個人的な依頼が来ましたね。今まではクラス単位がほとんどでしたから」

 鳴瀬先輩が手帳を開きながら言う。そこには、主に遠足の時期に殺到した撮影依頼がびっしりと書き込まれていた。あの時期は本当に大変だったなぁ……。

「うむ。この橋本君とやらの願いを叶えてやるためにも、我々が一肌脱ごうじゃないか」

 どこぞの総司令官よろしく、組んだ手の甲に顎をのせている部長も乗り気のようだ。そして視線を手紙から僕に移す。

「古澄君も異存はないね?」

「はい。ようやく写真部として本腰を入れられそうですし」

 実際の所、身体強化トレーニングはもう勘弁して欲しかったからね。

 よし、と頷いて部長が立ち上がる。

「写真部本格始動だ! 古澄君、早速彼に承諾の意を伝えてきてくれたまえ。時間はそうだな……来週水曜日の放課後なら、期末試験も終わって少し余裕ができるだろう。そこで依頼主の橋本君も交えて、改めて具体的な話と今後の段取りを話し合おうではないか」

「場所は写真部の部室でいいんですか?」

「ん~、いや、『シェルシュ』にしよう。あそこなら学校から少し離れているし、生徒会の連中から目を付けられる心配もないから安全だ」

 ちなみに『シェルシュ』は、昔ながらの喫茶店だ。紅茶やサンドイッチなど、定番のメニューのほかに、昭和の味を再現した料理も数多くあるので、学生だけでなくサラリーマンやお年寄りにも人気がある。

「じゃあ、そのように伝えておきます」

 僕は先輩たちに敬礼してから、部室を出て二年校舎棟へと向かった。


 そして昨日の放課後、予定通り『シェルシュ』に集まった僕たちは、依頼主の橋本圭吾さんと面会し、彼から詳しい事情を聞く運びとなった。

「――なるほど。つまり、こういうことだね」

 カプチーノを、ズズ……と優雅にすすって、部長は切り出した(関係ないが、カップを持つときに小指を立てる人を、僕は初めて見た)。

「橋本君と山城和美くんは、もとは幼馴染みだった。家も近所で、小さい頃からずっと二人で仲良く遊んでいた。しかし、和美くんのご両親の都合で、彼女は小学一年生のときに転校を余儀なくされた。当時は携帯電話など、お互いに連絡を取り合える道具を持っていなかった君は身を裂かれる思いをしたのだろうね。僕も恋愛経験は豊富なほうだから、その気持ちはわかるよ」

「えっ!?」

「なんだね、古澄君。その、いかにも“部長に恋愛経験があるなんて予想外すぎる! ひょっとして聞き間違えたのかな?”的なリアクションは」

 ジットリした目で僕を睨んでくる部長。

「い、いえ! そんなこと思ってませんよ!」

 心の内を的確に当てられた僕は、冷や汗を流しながら曖昧に微笑んだ。

 部長は、フン!と不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、話を元に戻した。

「さて、一度は別れた君と和美くんだが、どういう運命の悪戯か、二人はこの時修舘高校で再び出会うことになった。しかし、君のほうは和美くんだとわかっても、向こうは君が橋本君だと気付いていない。普通、こういうのは男性のほうが気付かないケースが多いんだけどね」

「どうしてですか?」

 恋愛経験のない僕は、手を挙げて訊ねる。すると部長は、まるで憐れむような目で僕を見て答えた。

「考えてもみたまえ。一般的に、女子は小学校高学年から中学生にかけて成長期を迎える。骨盤や乳房の発達。くびれの出現。女性としての体を作るためにホルモンが多く分泌され、容姿も少しずつ変わっていく。さらに思春期と言えば、化粧やアクセサリ、ブランドものの衣服やバッグなどに興味を持ち始める年頃だ。学校では制服規定がされているが、街中ではオシャレに着飾ってみたくなる人もいるだろう。古澄君も、駅前とかでそういう知り合いを見かけたことはないかね?」

 ああ、あるある。多分同じクラスの人だと思うんだけど、あまりに代り映えしていて声かけるのを躊躇っちゃうんだよね。

 僕がそう言うと、部長は満足そうに頷いて続けた。

「ほぼ毎日学校で顔を合わせている古澄君でさえ戸惑ってしまうほどだ。ましてや、およそ十年ぶりに再会した橋本君が、和美くんを認識できただけでも奇跡だよ。それだけ、彼女のことを強く思い続けていたのだろうね」

 部長が橋本さんにウインクする。

「さて、互いに再会したものの、一年も二年もクラスは別々。おまけに和美くんはクラスの人気者なのか、常に女子集団に囲まれていて近づく隙もない。せめて放課後に接触するチャンスを作るため、彼女を追いかける形でバレーボール部に入部したまではいいが、男子と女子は練習メニューが異なるため下校する時間もバラバラ。――ここまで運のない人も珍しいね」

「はぁ……。でもなんとか声をかける努力はしたんですよ。体育祭や文化祭では多少自由に動き回れる時間がありましたし、今年は夜店と花火大会にも誘ってみたんです」

「ほう。しかし上手くいかなかった、と?」

「いえ、一緒に行く約束まではこぎつけました。だけど、その前日に彼女はまた引っ越してしまうそうで……」

 だんだん声に勢いがなくなっていく橋本さん。うーん、僕は特定の誰かを好きになったことがないからわからないけど、きっとすごく辛いんだろうな……。

「僕は思いきって告白すべきだと思います」

 重苦しい空気が漂う中、ようやくメモを取り終えた鳴瀬先輩が会話に加わった。全員が先輩に注目する。先輩は、アイスコーヒーを一口すすると、

「これはあくまで僕個人の意見だけどね――」

 と前置きして話し始めた。

「橋本さんが、小さい頃からずっと山城さんのことが好きだったのはわかりました。そして今でも彼女に対する気持ちは変わらない。そこまではいいです。誰が誰を好きになろうと、それは個人の自由ですからね。しかし橋本さんの場合は少し特殊です。なぜなら、そこには十年間という長い空白があるのですから」

「その空白がなにか問題あるというのかね?」

「ええ。少し考えればわかると思いますが、“子供”と“大人”では、同じ十年でも過ごし方や感じ方がまったく異なるからです。大人はそう問題ないでしょう。周りの環境が劇的に変化することは少ないし、なにより自我や感情がすでに形成されていますから。一方、子供の場合はどうでしょう。橋本さんが山城さんと別れたのは小学校一年生のとき。それからこの時修舘高校で再会するまで、お互い色んな経験をしたと思います。新しい友達、新しいクラス、遠足や合唱コンクールなど、仲間との交流をより深めるイベントも数多く存在したでしょう。そしてもちろん、思春期を迎えると、恋愛や異性について興味を持ち始めます。こうした目まぐるしい環境の変化の中で、ずっと昔に別れた女の子のことを一途に思い続けるのは、ほとんど困難なのではないかと僕は思うんです」

「ふむ。言われてみれば確かにその通りだな。古い記憶おもいでは、新しい記憶できごとに絶えず塗り替えられる。小さな子供ほど、その傾向は強いだろう」

 部長も軽く頷いて同意する。

 僕も自分の記憶を思い返してみる。そして気付いた。

 ここ数年のことは割と鮮明に思い出せるけど、過去に遡るにつれて、それはまるで靄がかかったかのように薄ぼんやりとしてしまうのだ。かろうじて思い出せるのは小学校低学年くらいまで。幼稚園時代になると、ほとんど記憶に残っていない。

「橋本さん。あなたが山城さんを見失わないでいられたのは、なにか彼女との思い出を想起させる手掛かり、あるいは媒介のようなものがあったからじゃないですか? ――例えば、“写真”とか」

 鳴瀬先輩の言葉に、僕は思わず、あっ! と声を上げた。

 ――写真は過去の一瞬を写し取る。喜びも悲しみも、すべて詰まった宝物。

 僕が写真を始めたあの日に思ったことが、再び脳裏に蘇ってきたからだ。

 橋本さんはと言うと、まるで大事な物を見つけられてしまった子供のような顔で頷いた。

「俺が高校に入学する直前のことです。母が倉庫を整理している時に、奥の棚から昔のアルバムが出てきたんです。鳴瀬さんがおっしゃった通り、幼稚園時代の俺と和美が写っている写真も数枚ありました。そのときに俺は思い出したんです。彼女には右目の下に泣きぼくろがあるってことを」

「なるほど。それで彼女を判断できたわけだ」

「ええ。どことなく昔の面影も残っていましたしね。もっとも、昔はかなり引っ込み思案だったと思いますが」

 当時の懐かしさと、変わってしまった山城さんへの当惑。二つの相反した感情が等分に表れた、複雑な表情を見せる橋本さん。

「昔は彼女を連れて色んな場所へ出かけていたみたいです。浜下商店街や児童公園、市民プールなどで撮影された写真もありましたから。俺が今年、彼女を夜店に誘おうと思ったのも、もしかしたら二人で歩いた遠い日々を思い出してくれるかもしれないという期待があったからです」

「山城さんにそのアルバムを見せようとは思わなかったのですか?」

 という僕の質問は、部長の盛大なため息でかき消された。

「話をちゃんと聞いていたかい、古澄君。和美くんと二人きりになれる機会は学校ではないのだよ。まさか同級生がいる前で、堂々とアルバムを広げるわけにもいかないだろう。特に年頃の女の子は、そういう恋愛事には敏感だからね。二人の関係が公にされたら、どんな冷やかしやからかいが飛んでくるかわかったものじゃない。下手したら、そのまま絶交だってあり得る」

 そうだったのか……。僕は、恋愛の奥深さに身震いする。

「そもそも、和美くんにアルバムを見せた所でどう切り出すつもりだね。言い方によっては、“いつまでも過去を引きずる男”だと思われかねない。ましてや、和美くんのほうは橋本君のことを覚えていなかったわけだからね。成功するかどうかと聞かれたら、首を傾げざるを得ない」

 理解できたかな、と言いたげにこちらを見る部長。僕はがくがくと頷く。

「しかしそうなると難しいね。もっとほかにインパクトのあるアプローチ方法があれば別だけど、どうだい橋本君?」

「実は……一つだけないこともないんです」

 橋本さんの微妙な口調。言おうか言うまいか、悩んでいるような様子。

「ほう。大丈夫、我々は口が堅いからね。安心して話したまえ」

 椅子にふんぞり返って、先を促す部長。相変わらず、他人の心にズバズバ踏み込んでいく人だ(こんな性格でなぜ恋愛アドバイザーが務まるのか、僕は疑問でしょうがない)。

 橋本さんは、絶対に秘密にしてくださいよ、と念を押してから口を開いた。

「彼女、幼稚園くらいの頃は髪が長くて、よくポニーテールにしていたんですが、実はそのとき使っていた髪ゴムを別れる直前にもらったんです。俺たちが大好きだった裏山の山頂で、『いつまでも忘れないように』という願いを込めて。まあ、その髪ゴムもアルバムの間に挟まっていたので、思い出したのはつい最近なんですけど」

「ふむ、思い出の髪ゴムか……。確かにフラグとしては充分なアイテムだが」

「フラグ言うな、マッキー」

 鳴瀬先輩が手の甲でビシッと突っ込みを入れる。

「失敬。ともかく告白に踏み切るのなら、切り札として所持しておくといいだろう。我々が撮る写真だけで満足するか、それとも最後の賭けに出るか。それは橋本君次第だ」

 部長は伝票を取ると、鞄を持って立ち上がった。僕と鳴瀬先輩もあとに続く。

「さて、我々は明日の昼放課に和美くんの写真を撮ることにしよう。もたもたしていたら、夏休みに入ってしまうからね。その写真を受け取りに来るつもりなら、放課後、写真部の部室で待っているよ」

 未だに決心しかねる橋本さんを残し、僕たちは『シェルシュ』を後にした。


「おっ、六組で動きがあった。古澄君、シャッターチャンスだよ!」

 回想に耽っていた僕は、部長の叫びで現実に戻される。慌ててカメラを構え直してファインダーを覗くと、橋本さんがカーテンをさりげなく開けているところだった。

 ……って、え、橋本さん? 橋本さんって確か三組だったはずじゃ……。

「ふむ。どうやら告白することに決めたようだね。しかしクラスメイトが大勢いる中でとは、彼も大胆になったじゃないか」

 どこか嬉しそうにそう言って、部長はカメラの向きを微調整する。

「やっぱり、昨日の話し合いのせいですかね?」

「んー。それもあるだろうけど、最後の一押しは鳴瀬君がしたんじゃないかな。僕も詳しくは知らないけど、彼は昔、橋本君と似たような経験をしたことがあるそうだよ。最後まで気持ちを伝えることができないまま、恋人と永遠に別れることになってしまった――そんな悲しい恋物語を、ね。だから、橋本君の話が他人事に思えなかったのだろう」

 あの鳴瀬先輩が……?

「いつか鳴瀬君のことも救ってあげたいね。一番過去に縛られているのは、ひょっとしたら彼かもしれないから。だがまあ、今は最高の一枚を撮ることに集中しよう」

「はい!」

 橋本さんのおかげで、山城さんを遮るものはなくなった。あとは僕の腕の見せ所だ。

 僕は山城さんをフレームの中央に収め、ピントを合わせる。人物を撮影するときは、なるべくその人の“心”が表れるように気をつけている。

 笑った顔、怒った顔、泣いた顔。

 人は自分の心に素直になれるとき、一番良い表情ができると思うから。心が悲しいのに無理して笑っても、それは決して魅力的には映らないだろう。

 そして山城さんは――

「なんだか戸惑っているみたいですね……」

「うむ。急に告白してきた橋本君の真意を測りかねているのかもしれない。さて、これが吉と出るか凶と出るか……」

 しかし、無駄話はそこで終わりとなった。電源を入れたままにしておいたトランシーバーから、

『おい、今そっちに衣笠玲奈が向かってる! 早いとこ撮影して撤退しろ!』

 という鳴瀬先輩の指示が響き渡ったからだ。すぐさま部長が応答する。

「了解。これより直ちに標的を写撃し、その後逃走エスケープ計画プランCを実行する。鳴瀬君は急いで三年校舎棟の南側に回り込んでくれたまえ」

了解ラジャー!』

 通信を終えると同時に、部長がこっちを振り向く。満面の笑顔だ。

「――というわけだ、古澄君。どうやら日頃の成果を見せるときが来たようだね」

 いつものハイテンションが戻ってきたのか、部長は踊り出しそうなくらいご機嫌だ。

「できれば、見せるときは来て欲しくなかったですけどね……」

 対して、僕はため息交じりに呟く。さて、あまりもたもたしてはいられない。

 僕は慣れた手つきで素早くシャッターを切る。

 カシャッ、というシャッター音の余韻が消えない内に、学生服の内側から二つに折りたたんだ圧縮袋を取り出した。この袋の中には、衝撃を和らげる緩衝材をいくつか入れてある。

 僕はその中にカメラを入れて、丁寧に口を閉める。隣を見ると、部長も自分の圧縮袋に、カメラとトランシーバー、それに屋上の鍵を入れているところだった。

 それらの作業が済むと、僕らは屋上の反対側へと急いだ。手すりから少し身を乗り出して下を確認すると、すでに鳴瀬先輩が待機していた。部長が大きく手を振りながら、先輩に声をかける。

「おーい、鳴瀬君。こっちの準備は整っているが、そっちは大丈夫かな?」

「大丈夫もなにも、僕は受け止めるだけですから」

「ははは、それもそうだね」

 そう言い終わるや否や、部長は先輩に向かって“圧縮袋を放り投げた”。重力を受け、徐々に加速しながら落下して行った袋は、ぼすん、と見事に先輩の腕の中へ。

「ナイスキャッチだよ、鳴瀬君。――さあ、古澄君も投げたまえ」

 松明を穴に投げ込む、火送りの儀式ってこんな感じなんだろうか、と頭の隅でぼんやり考えていたせいか、僕の放った袋は、鳴瀬先輩のいる位置より若干ずれた座標目がけて落下していく。

「うわあああああああああ!!」

 不測の事態に大きな叫び声を上げながらも、身を挺してカメラを守ろうとする鳴瀬先輩。結果、先輩は顔面から地面に激突する羽目になったが、なんとか袋は死守することに成功した。よかった、よかった。

「全然よくない!」

 下から聞こえてくる先輩の叫びを華麗にスルーして非常扉へと走る。すみません、先輩。でも今は一刻も早く校舎内に退避しなければならないんです……っ!

 非常扉から校舎内に入り、階段を一気に駆け下りる。二階の踊り場まで下ったところで、下から上がってきた衣笠先輩と鉢合せした。

「ちょっと待ちなさい、あなたたち」

 そのまま横を通り過ぎようとしたら、案の定呼び止められた。

「我々に何か用かね?」

 呼吸の乱れを悟られないよう、素早く部長が聞き返す。

「ええ。あなたたち、さっきこの校舎の屋上にいなかったかしら? 何をしていたのか聞かせてもらいたいわね」

 有無を言わさぬ迫力とはこういうのを言うのだろう。視線に温度があるとすれば、衣笠玲奈のそれは間違いなく氷点下だ。

「我々が屋上にいたという証拠でもあるのかね?」

 あれ? 少しも臆することなく、真っ向から対峙する部長がやけに格好良く見える。僕の視力も衰えてきたものだ。

「あるわよ。第一にその夥しい汗の量。この学校にエアコンはついてないけど、室内から一歩も外に出ていないのだったら、そんなに汗をかくはずがない。少なからず、あなたたちは直射日光が当たる場所に長時間いたはずよ」

 流石、生徒会ナンバーツーの洞察力は伊達ではないらしい。もっとも、その指摘は予め予想できていた。ほんとは圧縮袋の中に予備の学生服を入れる案も出ていたんだけど、キャパシティ的に無理がありそうだったので、結局止めにしたんだ。

「生憎、僕と古澄君は汗っかきなのでね。仕方ないさ。それに、それだけでは僕らが屋上にいたという決定的な証拠にはならないね」

「わかっているわよ。なら、これならどう? ――屋上には鍵がかかっていた。もし、あなたたちが屋上にいたのだとしたら、今もその鍵を所持しているはず」

「ほほう、なるほど。それはもっともな理屈だね。では、好きなだけ身体検査してくれたまえ」

「なっ……動揺してない」

 部長の不敵な笑みに、初めて衣笠先輩の自信が揺らぐ。その様子を見て、僕は写真部の勝利を確信した。

 鍵は今頃、鳴瀬先輩が職員室へ戻しに行っているはずだ。カメラなど、同じく調べられて困る物はすべて先輩に託している。僕たちの身体検査をしたところで、それは無意味な行為だ。

 それでも一通り身体検査を行った衣笠先輩は、僕たちが怪しい物を何一つ所持していないとわかると、ぎり、と唇を噛んで呟いた。

「……疑って悪かったわね。もう行っていいわ」

 そして足早に去って行く。僕と部長はその後ろ姿が完全に見えなくなってから、互いにハイタッチを交わした。

「やったね、古澄君! 我々が、あの衣笠玲奈の一枚上を行ったぞ!」

「いやぁ、本当に冷や冷やしましたよ。でも、無事に切り抜けられてよかったですね!」

「誰が無事、だと……?」

 と、そのとき。地獄の底から響いてくるような低い声がした。ぞっとして振り返ると、顔中泥だらけの鳴瀬先輩が立っていた。表情はよく読み取れないが、目だけはすごく怒っている。

「ああ、鳴瀬君もお疲れ様。君がいなかったら、このミッションは成り立たなかったよ。本当に感謝している」

 部長にしては珍しく労いの言葉をかける。一方、鳴瀬先輩は仏頂面のままだ。

「まったくマッキーは人使いが荒いですよ。まずカメラを隠すために部室へ走り、その後すぐに職員室へ鍵を戻しに行ったんですからね。心臓が死ぬかと思いました」

「いや、でも我々もなるべく衣笠玲奈を引き留めるよう努力したのだが……」

 部長の言い訳は、先輩の鋭い眼光の前で黙殺される。

「次からは役割をローテーションしてもらえると有り難いですね」

 衣笠先輩と同じく、有無を言わさぬオーラを纏って部長に迫る鳴瀬先輩。しかし、その後表情を緩めると、

「でも、僕のことを気にかけてくれたことには感謝します」

 そっぽを向いてぼそっと呟いた。ええと……。

「それって、鳴瀬先輩が過去に縛られているという……」

「うん。確かに僕は恋人に思いを伝えられなかった。それは後悔しても仕切れないし、今でも思い出す度に胸がちくっとするような痛みを覚える。でも、僕は前を向いて歩くと彼女に誓ったんだ。大切な“今”を見失わないようにするためにもね。――だから、大丈夫だよ」

 無理をして言っているようには見えない。きっとそれが本心からの答えなのだろう。

「ま、なにはともあれ、写真部の初仕事は無事に終わったわけだ。今日の放課後はゆっくりティータイムといこうじゃないか」

 部長が高らかに勝利宣言したとき、キーンコーンカーンコーン、と予鈴が鳴り響いた。

 まずっ、次の時間板書を当てられていたんだっけ。

「おっと、もう昼放課も終わりか。各自、残りの授業もしっかり受けるように。疲れたからって居眠りしていたら、この時修舘高校ではついていけなくなるぞ。では、解散!」

 部長の号令で、僕たちはそれぞれの教室へと戻った。



 おまけ

 その日の放課後、僕たちが部室でまったりくつろいでいると、コンコンとドアをノックする音が響いた。

「橋本君か。どうぞ、入りたまえ」

「失礼します」

 ドアの隙間から橋本さんが顔を出す。

 僕は橋本さんの分のレモンティーを入れるために立ち上がった。しかし、橋本さんは僕を手で制すと、

「いえ、長居はしないので結構です。今日は、皆さんにお礼を言いたくて来たんです」

 僕らに向かって深々と頭を下げた。

「告白は上手くいったのですか?」

 僕がそう聞くと、橋本さんは笑ってポケットから携帯電話を取りだした。そして電話帳一覧を見せてくれる。そこには“山城和美”の名前が登録されていた。

「とりあえずは遠距離恋愛になりそうです。でも、いつかきっと、また彼女に会いに行きますよ。何度場所を変えても、ね」

「ふふ。ストーカー行為はくれぐれも程ほどにしておきたまえ。あと、あんまりしつこく電話をかける男も嫌われやすい傾向があるから注意するように」

「――心得ておきます」

 ああ、なんて良い笑顔だろう、と思ったときには、僕は反射的に自分のカメラを橋本さんに向けていた。

「あの、一枚だけ写真撮らせてもらってもいいですか?」

「それは構わないが……俺なんかでいいのかい?」

「はい! 今の橋本さんの笑顔、とても素敵ですから!」

「古澄君。彼は笑顔というより、これから始まる恋にニヤけているだけだよ」

 部長が訂正するが、そんなことは関係ない。僕は純粋に、人の心を撮りたいだけなんだから。

「では、撮ります。はい、チーズ」

 カシャッ、という軽いシャッター音と共に、僕は少しだけプロの写真家に近づいたように感じた。

「さて、盛り上がっている所悪いけど、この写真はどうするかね?」

 僕らが命がけで撮影した山城さんの写真をヒラヒラさせる部長。

「依頼しておいてアレですけど、俺にはもう必要ありません」

「ふむ、そうか。では――」

 部長は無造作に写真をゴミ箱に放る。

「え、いいんですか!? せっかく撮った写真なのに!?」

「古澄君。君はなにか勘違いしているようだね。我々は盗撮マニアではない」

 一旦言葉を区切った部長は、大きく胸を張って誇らしげに言う。

「――プロの写真家だよ」

 


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