写真部員、古澄訓和の想い ―past―
僕にこの道を歩かせたのは、父さんが見せてくれた一枚の写真だった。
まだデジカメが普及していなかった頃、父さんはフィルムを現像するためによく家の近くの写真屋に足を運んでいた。観光地でもない地元で写真屋を訪れる人はそう多くはなかったけど、父さんだけは常連で、店のマスターといつも楽しそうに写真について語り合っていたのを覚えている。
「定史君の写真は色んな表情があって面白いなぁ! これなんか駅前の銅像を写したものだろ? いやはや、ヨーロッパあたりの町並みかと勘違いしてしまったよ。角度一つでここまで表現できるとは!」
「あそこは北側の一角に緑が多いですからね。なるべく建物をフレームから外して、地面すれすれから銅像を見上げるように撮ったのですよ。私もお気に入りの一枚ですが、通行人の視線が痛かった!」
「ははは、君はまだいい方さ。プロの中には猛獣潜む未開の地や、標高何千メートルの山頂まで出向く人もいますからな。彼らの仕事は常に命がけですよ。しかしそれでこそ、彼らの写真には息を呑むような美しさ、自然そのものが写し出されているんです。地球の荒々しさを物語る地層、子育ての地へと旅立つ渡り鳥たち、未だ謎の多い文明跡地、そこで暮らす原住民たちの息づかい……。写真はある一場面を切り取るだけにすぎませんが、だからこそ魅力に映る。想像力の触手を伸ばせば、色んな解釈ができる。――そう思いませんか?」
「まったく、おっしゃる通りで。私も今は風景を専門に撮影していますが、いずれは人の優しさ、喜怒哀楽の変化なども対象にしていこうと思っています。これなんかはその第一歩ですね」
「ん~、どれどれ……。おお、これは地域の七夕祭りの様子を撮影したものだね」
「ええ。浜下商店街にも笹が飾られていたでしょう。それでふと短冊に込められた願い事を眺めていたのですが、どれも微笑ましくて思わず一枚撮ってしまったんです」
「ふむ……」
父さんから渡された写真を、マスターは老眼鏡をかけてじっと眺めた。僕もその横から覗き込む。
『世界一の宇宙旅行士になれますように 浩太』
『愛すべき人との時間がいつまでも続きますように 志保』
『文学部のみんながこれからも楽しく青春を過ごせますように。※みんなとの思い出一生の宝物だよ。ありがとう! 玲奈』
『雫さんのおかげでまた小説を書き始めることができました。本当にありがとうございます。お子さんが元気に育ちますように 麻耶』
『おじいちゃんの病気が一日も早く治りますように。今度また病院に行くね! 俊』
個人の夢。お世話になった人への感謝。後輩への激励。新たな決意。
笹に飾られた様々な想いが写真を通して心に流れ込んでくる。それがあまりに温かくて優しくて――気付いたら僕は涙を流していた。
「おや、訓和君。どうしたのかね?」
マスターが気遣って声をかけてくれたけど、僕は言葉が詰まってうまく返答できなかった。そんな僕の頭を父さんは優しく撫でてくれた。
「人間関係はとても複雑で難しいものだけれど、お互いに支え合って生きていく姿は自然にも負けないくらい素晴らしいものだ。訓和もそれを感じ取ったんだろう。いつか訓和が写真を始めるようなことがあれば、きっと人の心を伝えられる良い写真を撮ることができるだろうさ」
「僕が写真、を……?」
「おお、そいつはいいね! 訓和君がどんな写真を撮るのか、おじさんも興味あるからなぁ。フィルムを現像する作業も一段と楽しくなるというもんだ」
「でも何を撮ればいいのか……」
「うーん、そうだなぁ。手始めに父さんとマスターを撮ってみるというのはどうだ。もちろん、どういうアングル、どういうタイミングで撮るかはすべて訓和に任せる。必要ならかけ声をかけてもいいし、ポーズ指定がある場合はそれにも従おう。――どうする。やってみるか?」
「うん、それじゃあ……」
父さんから受け取ったカメラは思ったよりもずっしりと質量があって、なるべくブレないように構えるだけでも精一杯だった。小刻みに揺れる僕の腕を見て、父さんが困ったように言う。
「ほんとは三脚があればよかったんだがなぁ。あいにく家に置き忘れてしまってね……」
「ああ、三脚なら店の奥に一つか二つあるよ。貸してあげようか?」
大人二人から気遣われ、少しプライドが傷ついた僕は右手をぶんぶん振って申し出を断った。
「い、いえ大丈夫です! このままでもいけますので!」
「ほう、頼もしいな。では、早速記念すべき第一枚目といこうか。心を落ち着かせてカメラを覗いてごらん」
父さんに促され、僕はカメラの世界へと入っていった。
途端に世界が四角く切り取られる。音も声もこの世界にはない。だけど向きを変えれば、そこには様々な表情があらわれる。
笑顔で談笑する父さんとマスター。窓から射し込む夕陽に照らされた床。綺麗に磨かれた丸テーブル。長い年月を感じさせる木造の扉。その上部に取り付けられた可愛らしいベル。
これまでカメラを構えたことは何度もあったけれど、そのときは見るものすべてが新鮮だった。時間と共に移ろい、ゆっくりと変わっていく店内。人も物もその一瞬一瞬がすごく大切で、だから写真はあんなに輝いて見えるのだろうか、と僕は子供ながらにそう思った。
いま見ている景色は現実でも、写真に変わればそれは過去の一場面だ。楽しいことも辛いことも、喜びも悲しみもすべて詰まった宝物。僕の、最初の宝物――。
と、そのとき。カウンターの奥にあるガラス棚に夕陽の光が反射したのか、まるでこの瞬間を見計らっていたかのように、ソレは突如として現れた。
七色に輝く虹の架け橋。
橋は父さんとマスターを繋ぎ、まるで二人の友情を表しているかのようだった。その美しさと絶好のシャッターチャンスを目の前にして、僕は自分でもびっくりするくらいの大声で叫んでいた。
「あっ! 父さんはもう少し右に、マスターは左に寄って!」
「うん? どういう構図にするつもりなんだ?」
「いいから早く!」
この瞬間を逃したら次はないかもしれない。不思議そうな顔をしながらも指示に従う二人と、虹がちょうどベストな位置に重なるように僕はカメラのアングルを調整する。よし、完璧だ!
「じゃあ撮るよ! 二人とも笑って――」
「「はい、チーズ!」」
カシャ。
フラッシュと共にシャッター音が鳴り響く。時間にしてみれば、ただそれだけの一瞬の出来事。けれど、切り取った一場面には父さんとマスターが築いてきた強い絆がきっと写っているはずだ。恐らくこれからも変わることのない、深い絆が。
「ご苦労だったな、訓和君。どれ、早速現像してみようかね?」
弾んだ気持ちを隠そうともせず、マスターは無邪気な子供のような顔で言う。この人、本当に写真が大好きなんだなぁ、と僕は苦笑した。
「いえ、もう数枚撮ってからでいいですか? 色んなものを撮ってみたい気持ちがわき上がってきてしまって」
「いや、結構結構。楽しみに待たせてもらうよ。しかし、やはり定史君の子だなぁ。その好奇心といい目の輝きといい、ほんとにお父さんそっくりだよ」
「そうなの?」
「ああ。定史君も写真を始めたばかりの頃は、とことんカメラの世界にのめり込んでいてね。寝るときも手放さなかったと聞いているよ」
「昔の話だよ。父さんが写真家を志そうと決めたときよりも、な」
恥ずかしそうに頭をかく父さんは、しかし自らの夢を否定しなかった。
――写真家、か……。
「ねえ、父さん。僕でも努力すれば立派な写真家になれるかな?」
「ああ、きっとなれるさ。誰かに感動を与えることができるカメラマンに、ね」
そう答えてくれた父さんの横顔は、息子が自分と同じ夢を追いかけることへの喜びと誇りに満ちていた。
「さあ、こうしちゃいられない! 訓和君も写真家を志すなら、まずは自分専用のカメラが必要だな。それから店の営業日も増やさないと――」
「まぁまぁ、マスター。そんなに焦らなくても、訓和のペースでやらせてあげるのが一番いいと思いますよ。だろ、訓和?」
「うん! 僕、これから日が沈むまでこの街の風景を撮影してくる! 父さんよりも、もっとすごい写真を撮るんだ!」
「ははは、なら父さんものんびりしてはいられないな。よーし、今度の日曜日はどちらがいい写真を撮れるか勝負だ!」
「……やれやれ。まったく仲のいい親子だよ」
半ば呆れたように呟いたマスターが、そのときこっそり僕と父さんの写真を撮っていたことを知ったのは、時習館高校に入学し、写真部への入部が正式に決まってからだった――。




