四。 いわゆる嵐の前の静けさってやつは、本当なら日常となるべきものだと俺は主張したい。コレが日常なんて俺は嫌だ。
何かが起こる前はもの凄く平穏な時間が過ぎるということを、俺はこれまでの人生の中で学んでいた。ここ数日がまさにそんな感じだったために、俺が思わず身構えてしまっていたことに非はないと思う。
「なぁ、ここの問題なんやけど……」
「それならこの公式をあてはめればいいんです」
「お、ほんまや」
放課後。なぜか俺とカナタの部屋にクリスとキョウが押しかけ数学のプリントと格闘していた。クリスは入学式の時の大阪弁のクオーターで、キョウは一緒にステージ上に上げられた間宮キョウヘイのことだ。後で知ったことだが、主席合格者とのこと。これまた凄いヤツと知り合いになったもんだ。
で、そんなふたりが、部屋の真ん中、ラグの上に置かれた小さなテーブル――そこで一所懸命勉強をしているというわけだ。これはこのメンバーでの勉強会の定位置となってる。
クリスがキョウの言葉に合点がいったのか、教科書の公式とプリントの問題を見比べながらシャーペンを動かす。因みに、俺とカナタ、それからキョウは既に終えている。どうもクリスは数学が苦手らしい。
「終わった! これで晴れて自由の身や!」
大げさなセリフを吐いて、クリスはそのまま床に寝転んだ。
「クリスは表現がいつも大げさすぎますね。日本人らしくもう少し控えめな表現方法を覚えたらいかがです?」
聞く人によっては嫌味にも聞こえるキョウの言葉に、クリスは寝転んだ体勢のまま唇を尖らせた。
「せやかて、ワシにはイギリス人のじーちゃんの血が流れとるんや。無理言うなや」
「だったら尚更ですね、英国は紳士の国ですよ」
「はいはい、クリスが包茎なのはわかったからテーブルの上片付ける。
ハルカもこっちにおいで」
部屋の隅にある簡易キッチンから、カナタがティーセットをトレーに乗せて持ってきた。さらりと女の子が言っちゃいけない発言を聞いた気がするんだけど……カナタだからなぁ。
ほんと、今更って気がするし。
「誰が包茎やねん! ワシのは立派に剥けとるわ!」
「ふぅん、言うね」
今更なんだろうけど、頭が痛くなってきたな。さすがに。
「カナタ、いい加減にしろ」
このまま放っておくと確実にクリスを脱がす気がして、カナタに強い口調で言う。
んな馬鹿な、一応カナタは女の子だ。そんなことを訴えるもう一人の俺もいたが、こいつを女と認識するやつが俺以外にいないこの状況ではやりかねない。いや、むしろやる。
「はぁい」
ほんの少しだけ残念そうにカナタは言って、テーブルに座った俺の前にカップを置く。紅茶独特の匂いが鼻を掠める。
「今日のはねぇ、ダージリン。昨日家から届いたばかりなんだ」
カップを配り終え、自分も座ったカナタは英語の書かれた缶を見せびらかす。確かに俺の記憶にはない缶なんだが、飲めればどうでもいい俺としては大した興味もない。
「カナタ君は本当に紅茶が好きなんですね」
「せやなぁ、ワシもせっかくならうまい方がええと思うけど、ここまで手間かける気はないわなぁ」
そんな俺とは違い、優等生のキョウとイギリスの血が入ってるというクリスは香りを楽しんでからカップを口に運ぶ。
で、口々に言ってくれた。
確かにバッグですらない上に、毎日のように違う紅茶を入れるなんてあまり男でいないよな。
「だってハルカ、コーヒー飲むとこんな顔して眉間に皺寄せるんだよ。なのに紅茶だとだらしのない顔して飲むんだよ、これは張り切るしかないじゃないか」
カナタが眉間に皺寄せて険しい顔つきをしたかと思うと、そろって俺の方を振り返った。だらしのない顔をしてるつもりはないんだが……、
「確かに」
「せやなぁ」
「だろう?」
なのに三人はそれぞれに頷いた。
このまったりとした時間が続けばいいのに。そう思ってたのは俺だけじゃないだろう。
だけどそんな俺を嘲笑うように、その放送は流れた。
『一年E組の藤堂カナタ、同じく藤堂ハルカ、韮沢クリス、間宮キョウヘイ。以上四名は至急A棟六階まで来るように。
繰り返す――』
入学式の時と同じように、ちょうど俺たち四人の名前を呼んだ。なんだろう、もの凄く嫌な予感がする。
「なぁ、このA棟に六階なんてあったんか?」
「初耳です。五階までだと思っていました」
クリスとキョウのふたりは確認するように顔を見合わせた。
それに関しては俺も初耳だ。エレベーターにもボタンは五階までしかないはずだし。
「管理人室脇の通路の奥に専用のエレベーターがあるんだ、六階まで直通の。
六階はあの変態の部屋しかないからね」
嫌な予感は的中したってことでいいんだろう。カナタが嫌悪をあらわにして変態って呼ぶってことは、超絶美形の生徒会長で間違いないはずだし。
「なんやそれ」
「作ったのは今の理事長らしいけどね、その前は倉庫かなにかだった場所を改装したって聞いたよ」
微妙に答えになってない言葉に、嫌な予感がする。
「なるほど、平塚生徒会長は理事長子息でしたね。専用の立派な部屋があってもおかしくないですし」
理事長子息? あの超雑美形な生徒会長が?
……ここにも天が二物も三物も与えた存在がいたよ。ある意味、カナタと同類な存在でお似合いなんじゃないだろうか。カナタは嫌がってたけど。
「で、どうする?」
カナタが知ったら激怒しそうなことを考えていた俺は、いきなり声を掛けられて、びっくりして声の主――カナタを見つめ返していた。
「な、なにが?」
「もう、ボクの話を聞いてなかったんだね」
カナタは不満そうに言って、唇を尖らせた。
俺はこいつが女だとわかってみてるからいいけど、知らないでみてる二人はこの仕草をキモイとか思ってるんじゃないだろうか。
そんなことをちらりと思いながら二人を見ると、ふたりも俺のことを見ていた。
なぜ?
「生徒会長のところに行くかどうか、その判断をハルカ君に仰いでいたんですよ」
「おニイちゃんっ子やからなぁ、カナタは」
二人が嘘をつくとは思えないから、そうなんだろう。
俺は手を頬にあてて、思案する。
「っていうか、どうして俺たちが呼び出されたんだ?」
正当な理由があるなら行くしかないんじゃないだろうか?
カナタはともかく、俺まで呼び出される理由はないはずなんだが。
「ボクらが生徒会の執行部に選ばれてるからだよ。
入学式が終わってから、ステージ上に呼び出されたよね。あれがそうだったんだよね」
そういえばそんなことがあった気がする。その後で色々ありすぎて忘れてたけど。
「それって決まりなのか?」
「執行部はその年の生徒会長からの指名で選ばれるそうです。
拒否は可能だそうですけど、名誉なことですから普通は拒否しません」
つまり、断ると余計に目立つというわけか。
カナタの顔を見て大きなため息をついて、飲み勾配になった紅茶を一気に飲む。
「苦情ならあとでいくらでも聞いてやるから、行くぞカナタ」
「ハルカがそう決めたんなら、従うよ。変態のところに行くのは嫌だけどね」
カナタを説得するのは大変だろうと、覚悟を決めて言ったにも関わらず、あっさりとした返事が帰ってきて拍子抜けした。
これはどういう心境の変化だ? これは本当のカナタなのか?
そう俺が思わず考えたのは決して俺のせいじゃないはずだ。
「ハルカ、なんだかボクに対して酷いこと考えてない?」
「い、いや?」
背中に嫌な汗が流れるのを感じながらも必死に首を振ると、後でしっかり話し合おうね、そんな視線が俺に向けられた。
「クリス、キョウ、今日はお前らの部屋に泊めてくれ」
かなり切実な思いで言った俺の言葉は、クリスに一笑された。ひどい。