女性だけの理想郷から追放されました。
フィジカルAIの登場によって、肉体労働という概念そのものが過去のものになりつつあった二〇三〇年。人類は、かつてない技術革新の時代を迎えていた。
そんな時代に、世界の政治史に奇妙な足跡を残すことになる宣言が行われた。
当時の政権与党になぜか妙に食い込んでいた社会女性党。その党首は、東京湾に建設されたばかりの巨大な人工島を視察した際、突如として一つの構想を発表したのである。
女性だけの島を作る。
女性だけが暮らし、女性だけが働き、女性だけが政治を行う。男性社会の価値観から完全に解放された、女性による女性のための理想都市である。
もちろん、似たような構想は以前から存在していた。世界中のフェミニストたちが、いつか実現することを夢見てきたものだった。しかし、経済的な問題、技術的な問題、そして何よりも「女性だけの社会をどうやって維持するのか」という根本的な問題を解決できず、どの国でも実現には至っていなかった。
ところが、二〇二〇年代以降の急速な技術革新は、その前提を根底から覆した。
労働力はAIとロボットが補い、食料生産から物流、医療、行政に至るまで、都市機能の大部分を自動化できるようになった。さらに、世界中の女性団体やフェミニストたちが資金と人材を提供。構想は国境を越えた一大プロジェクトへと発展した。
そして二〇五〇年。
ついに、東京湾に女性だけの都市が完成した。
その名は、XX。
島へと続く陸路は、一本の巨大な橋だけだった。
橋そのものが最新鋭のセキュリティシステムを備えており、入島希望者は橋の手前で厳重な審査を受けることになる。顔認証、指紋認証、虹彩認証、遺伝情報の解析。ありとあらゆる技術が投入されていた。
男性の侵入を許さない。
それが、この都市の基本理念であり、何よりも優先される絶対的な原則だった。
もっとも、都市建設にあたっては、最初から一つの問題が立ちはだかった。
男性とは何か。
実に哲学的な問題である。
これについては、建設準備委員会で長期間にわたる議論が行われた。
第一の派閥は、男性器の有無を基準とするべきだと主張した。
第二の派閥は、本人の性自認を尊重すべきだと主張した。
第三の派閥は、性染色体を基準とするべきだと主張した。
当然ながら、三者の意見は一致しなかった。
しかし、議論を重ねた末に、驚くほど単純な結論に達した。
全部採用すればいい。
つまり、男性器を持つ者、性自認が男性である者、そしてY染色体を持つ者。いずれか一つでも該当すれば男性と判定することになったのである。
特に最後のY染色体については、トランスジェンダーの権利保護団体やインターセクシャルの支援団体などから激しい抗議が寄せられた。
性自認と生物学的性別を混同するべきではない。性染色体だけで人間の性別を決めるのは科学的にも社会的にも問題がある。そもそも、性分化には多様性がある――。
それぞれの主張には、それなりの理屈があった。
だが、建設準備委員会の中でも急進的な極右フェミニズム派は一歩も譲らなかった。
「人生のあらゆる瞬間において、男根が生えていたことがあるなら、それはもう男である!」
委員会で発せられたその一言は、たちまち支持者たちの間で大喝采を浴びた。
会場は拍手と歓声に包まれ、SNSでは名言として拡散された。
結局、反対派の意見は採用されなかった。
こうしてXXでは、男性判定に関して、世界でも類を見ないほど厳格な基準が設けられることになった。
セキュリティシステムも、それに合わせて設計された。
都市の各所には高性能サーモセンサーが設置され、男性器に該当する部位の存在を検知すると、即座に警報が発せられる。警報と同時に、近隣の自動警備装置からテイザー銃が発射され、対象者を失神させる仕組みだった。
さらに、街中に設置された指紋認証装置には、驚くべき機能が備わっていた。
指紋を読み取る際、同時に指先の細胞を瞬時に解析し、性染色体を確認するのである。Y染色体が検出された場合は、ただちに微弱電流が流される。もちろん、本人が自分の性染色体を知らなかったとしても、システムに例外はない。
住民たちにとっては、買い物の際に指紋認証をするだけで済む便利な仕組みだった。
さて、女性だけの都市を維持するうえで、もう一つ重要なのが次世代の問題である。
かつてなら、男性の協力なしに人口を維持することは難しかった。しかし、ここでも技術革新が大きな役割を果たした。
XXの総合医療センターでは、人工精子を作り出す技術が実用化されていた。
ただし、普通の人工精子ではない。X染色体を持つ精子だけを選択的に作り出す技術である。
これによって、女性同士のカップルでも、遺伝的な親子関係を持つ子供を授かることが可能になった。もちろん、一人で暮らす女性も、精子バンクに登録された人工精子を利用して出産できる。
実際、XXの精子バンクには、自分の細胞から作られた人工精子を登録する女性が数多くいた。
登録者には一定の報酬が支払われるため、人気の副業の一つにもなっていた。中には、自分の人工精子がどれほど利用されているのかを気にして、定期的にバンクの利用実績を確認する女性もいたという。
なお、島の外で受精した場合についても、明確な規定が存在した。
胎児がY染色体を持っていることが判明した場合、妊娠を継続することは認められず、ただちに人工妊娠中絶の処置が取られる。
また、妊婦が入島を希望する場合には、ゲートで子宮内の胎児をスキャンすることが義務づけられていた。胎児にY染色体が確認された場合、入島は認められない。
このため、XXの入島ゲートには、空港の金属探知機や手荷物検査装置に加えて、最新鋭の胎児スキャナーまで並んでいた。
こうして、政治、経済、医療、そして生殖技術に至るまで、あらゆる分野で最新のテクノロジーを結集した女性だけの都市が完成した。
世界中のフェミニストたちは、この都市を二十一世紀の偉大な社会実験と称賛した。
もちろん、批判もあった。思想的なものから科学的なもの、あるいは単純に「そこまでしなくてもいいのではないか」というものまで、実にさまざまだった。
しかし、XXの住民たちは気にしなかった。
何しろ、ここには男性がいない。
男性の上司もいなければ、男性の同僚もいない。男性の政治家も、男性の警察官も、男性の教師もいない。
あるのは、女性だけの社会だった。
そして何より、島の外からやってくる男性たちの苦情に耳を傾ける必要もなかった。
なぜなら、彼らは橋を渡ることすらできないのだから。
こうして東京湾に浮かぶXXは、世界で最も進んだ女性専用都市として、華々しい歴史の第一歩を踏み出したのである。
二〇七〇年。
東京湾に浮かぶ女性だけの理想都市、XX。建設から二十年が経過したこの島では、独自の文化と社会制度がすっかり定着していた。
島で生まれた女性たちは、特別な呼び名で呼ばれている。
無垢者。
男性との自然交配を経ず、島内の医療施設で人工授精によって生まれた女性たちのことである。彼女たちはXXの理念を体現する存在として、住民から特別な敬意を払われていた。
その無垢者の一人、ミカは高校三年生になっていた。
母親は、XX建設初期に入植した第一世代の女性である。筋金入りのラディカル・フェミニストであり、男性嫌悪を思想の域にまで高めたミサンドリストでもあった。XXの建設理念を誰よりも熱心に信奉し、娘たちにもその精神を受け継がせようとしていた。
ミカと妹のリカは、いずれも遺伝子デザインを施された人工精子を用いて受精した、いわば選抜された子供たちだった。知能、身体能力、健康状態など、あらゆる面で優れた資質を持つよう設計されている。少なくとも、母親はそう信じていた。
妹のリカは、その期待に見事に応えていた。成績は学年上位。数学も化学も得意で、教師たちからの評判もいい。
一方、姉のミカはというと、どうにも成績が振るわなかった。
もちろん、極端に頭が悪いわけではない。平均点程度は取れるし、友人との付き合いも悪くない。物理に至っては学年でも上位に入るほどだった。
ただ、それ以外がどうにも冴えなかった。
無垢者なのに。
それは、彼女に向けられる周囲の視線に、しばしば混じる言葉だった。
XX唯一の大学である創世大学。国立でも私立でもない。正式な設置主体は「新時代女性最高評議会」であり、大学の区分もそのまま新時代女性最高評議会立となっている。
XXのエリートが集う最高学府であり、無垢者にとっては当然の進学先と見なされていた。
しかし、現在のミカの成績では、合格はかなり厳しい。
その日の夕方も、ミカは帰宅するなり母親の説教を聞かされることになった。
「お母さん、今回の物理は九十二点だったよ」
成績表を手に、ミカは控えめに言った。
せめて得意科目くらいは評価してほしかったのだ。
ところが、母親の表情は険しくなるばかりだった。
「それが何?」
「いや、物理だけは結構よかったから……」
「物理?」
母親の声が一段高くなった。
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの? 物理ができたから何だというの? そもそも物理なんて男の科目なのよ!」
「えっ?」
「男たちが何百年もかけて、自分たちの権威を守るために独占してきた分野じゃない! 力だの、運動だの、機械だの、そんなものばかり研究して、世界を壊してきたのが男たちでしょう? そんな男の科目で九十二点を取ったからって、何が自慢になるのよ!」
「でも、物理学は別に男の人が作ったわけじゃ……」
「口答えしないで!」
母親はテーブルを叩いた。
「あなたは無垢者なのよ! 男性の遺伝子に頼らず、女性の技術と英知によって生まれてきた、XXの未来を担う存在なの! それなのに、どうして男の得意分野ばかり勉強しているの? あなたが本当に優秀なら、女性史や女性政治学、フェミニズム思想、女性経済学で結果を出すべきでしょう!」
「でも、物理も一応は大学の入試科目だし……」
「そういう問題じゃないの!」
母親は深く息を吸った。
「だいたいね、あなたが物理を勉強している間に、リカは女性思想史のレポートを三本も仕上げたのよ。三本よ? しかも全部最高評価。私はあの子に何か特別なことを教えたわけじゃない。あの子は自分が何者なのか、何のために生まれてきたのかをちゃんと理解しているの。あなたはどうなの? 毎日毎日、男たちが作った学問に夢中になって、それで無垢者としての誇りを持っているつもり? お母さんはね、あなたを責めたいわけじゃないの。ただ、あなたの将来が心配なの。創世大学に入れなかったらどうするの? この島で、無垢者なのに創世大学にも進めなかった女の子として、一生言われ続けるのよ。それでもいいの? お母さんはあなたのために、どれだけ苦労して遺伝子デザインの手続きをしたと思っているの? 入植第一世代として、どれだけの理想を背負ってこの島に来たと思っているの? あなたが生まれたとき、私は本当に嬉しかった。これでXXの未来は明るいと思ったの。なのに、今は物理の点数を自慢するの? そんなもの、いくら取ったって男の真似事が上手になっただけじゃない! もういいわ。お母さんが間違っていたのね。あなたには最初から期待しなければよかった。そうすれば、こんなに悲しい思いをしなくて済んだのに!」
ミカは黙って成績表を見つめた。
九十二点。
答案用紙には、物理教師の赤ペンで「よくできました」と書かれている。
どうやら、この家では褒められるためには、百点を取るだけでは足りないらしい。
しかも、科目を選ぶ必要まである。
ミカは小さく息を吐いた。
妹のリカなら、こんなときどうするだろう。
きっと、母親の望む答えを流暢に返すに違いない。
ミカには、それができなかった。
物理は面白い。
定義を覚え、先人たちが見つけ出した法則から現象を理解し、数式を使って世界の動きを説明する。そこには性別も思想も関係ない。正しい答えは正しいし、間違った答えは間違っている。
少なくとも、ミカはそう思っていた。
ただ、その考えを母親に話す勇気はなかった。
彼女は九十二点の答案を鞄にしまい、夕食の準備を始めるために台所へ向かった。
今夜の献立は、母親の好きな大豆ミートのハンバーグだった。もちろん、調理ロボットに作らせる。
XXでは、家事労働もまた、女性解放の理念に基づいて機械化されているのだった。
島内にある教育機関の一つ、新時代女性最高評議会立自由純潔高等学院は、XXの教育理念を体現する模範的な女子校だった。
白を基調とした近未来的な校舎には、太陽光発電パネルと緑化設備が組み込まれ、廊下を行き交う生徒たちの姿もどこか洗練されている。教室には黒板もチョークもない。生徒一人ひとりに割り当てられたデスクにはホログラムモニターが埋め込まれ、授業資料から試験問題まで、あらゆる情報が空中に投影される仕組みになっていた。
教師もまた、教壇に立つ必要はない。授業の進行はAIが補助し、教師は生徒の理解度を確認しながら必要に応じて指導する。肉体労働のほとんどが機械に置き換えられた時代らしい、効率的な教育環境だった。
もっとも、教育内容まで自由というわけではない。
この日、三年生の教室で行われていたのは、毎年恒例の「性規範および思想適性チェック」だった。
デスクに埋め込まれたホログラムモニターには、無味乾燥なアンケート画面が浮かんでいる。
生徒たちは指紋認証と同時に細胞解析を行う生体スキャナーに指を置き、表示される質問に回答していく。指先の細胞から性染色体を確認する機能も備わっているため、本人確認と思想チェックを一度に済ませられるという、実に合理的な設計だった。
画面には、次々と質問が表示されていく。
――あなたは男性社会の再構築を望みますか?
回答:いいえ。
――Y染色体を持つ存在への哀れみを感じますか?
回答:いいえ。
――男性優位社会の歴史的遺産を肯定的に評価しますか?
回答:いいえ。
ミカはあくびを噛み殺しながら、指先で回答欄をタップしていた。
こうした質問には、もう慣れっこだった。毎年同じような内容を聞かれるのだから、いちいち真面目に考える必要もない。
ミカは十七歳。高校三年生である。
容姿だけを見れば、彼女はかなりの美少女だった。人工授精の際に精子側の遺伝子をデザインして生まれてきたからである。
遺伝子的には、ヨーロッパ系の美しい容貌と日本人の特徴を受け継いだ、いわゆるハーフに近いデザインになっている。切りそろえられたボブは、前髪だけが額のすぐ上で真っ直ぐに落ち、大きな瞳を優しく縁取っていた。その瞳は黒に近い深い色で、光を受けるとわずかに琥珀色の輝きを宿す。細く通った鼻筋と、やや薄めの唇。幼さを残した顔立ちには、どこか西洋的な整った美しさがありながら、全体としては柔らかな日本人らしさも感じられた。
遺伝子デザインによって整えられた身体的特徴。少なくとも外見については、母親の期待を裏切っていなかった。
学業成績以外は。
ミカの隣の席では、レイが慣れた手つきで回答を入力していた。
レイは外界からの移住組である。XXの外で生まれ育ったため、島の独特な価値観には、ミカたち無垢者とは少し違った感覚を持っていた。
もっとも、彼女もこの島で暮らす以上、表向きは模範的な回答を選ぶことに何の抵抗もなかった。
「ねえ、レイちゃん。最後のこの質問……」
「ん?」
レイは画面から目を離さずに答えた。
「『自身の性自認について』?」
「そう、それ」
ミカは自分のモニターを指さした。
「これさ、『男性』って選択肢があるじゃない? 押したらどうなるんだろうね」
レイがようやく顔を上げた。
「は?」
「いや、だって気にならない?」
「やめなよ。建国理念の第一原則、忘れたの?」
レイは周囲を気にするように声を潜めた。
「『性自認が男性である者も男とみなす』だよ。システムが真に受けたら一発で――」
言い終わるより早く、ミカの指先は吸い寄せられるように画面へ伸びていた。
タップ。
選択されたのは、もちろん「男性」だった。
ほんの軽い冗談だった。あるいは、システムがどんな反応を示すのか見てみたいという、単純な好奇心だった。
ミカ自身、自分が何をしたのか、まだ深く考えていなかった。
『回答を受信しました』
画面に表示されたのは、そんな事務的なメッセージだった。
次の瞬間、モニターが静かに暗転した。
一秒。
二秒。
教室の誰もが、何が起きたのか理解できずにいた。
そして、校庭のスピーカーから、耳をつんざくような重低音のアラームが鳴り響いた。
『警告。教室B-3にて、男性性の発生を確認。繰り返し警告。教室B-3にて、男性性の発生を確認』
「……え?」
ミカは呆然と画面を見つめた。
隣ではレイが顔面蒼白になっている。
「ちょっと、ミカ! 何やってんのよ!」
「え、いや……」
ミカが指を離した瞬間、天井の防犯パネルが左右にスライドした。
そこから姿を現したのは、黒塗りの全自動テイザー・ドローンだった。
学校の防犯設備としては、いささか物騒な代物である。通常の不審者対応にも使用されるが、男性侵入者を発見した場合には、最大出力での無力化が許可されていた。
機体中央の赤いセンサーレンズが、ゆっくりと回転する。
そして、ミカの顔を捉えた。
『対象者を男性と確定。ただちにテイザーパルスを照射し、無力化のうえ島外への強制排除手続きに移行します』
「待って!?」
ミカの声が裏返った。
「誤操作! 今の完全に指が滑っただけだから!!」
「言わんこっちゃない!!! 逃げてミカ!!!」
レイの叫びと同時に、ドローンのセンサーレンズが赤く点滅した。
『対象者、移動予測を開始。テイザーパルス発射まで三秒』
「ちょっと待って! 私、無垢者だよ!?」
『対象者の申告は記録されていません』
「そこは記録してよ!!」
ミカは椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
一秒。
ドローンの銃口が彼女を追う。
二秒。
ミカは机の間をすり抜け、教室の出口へ走った。
三秒。
テイザーパルスが発射された。
激しい放電音とともに、ミカが座っていたデスクが黒焦げになった。
「きゃああああっ!」
教室中から悲鳴が上がる。
ミカは間一髪で廊下に飛び出していた。背後ではドローンが旋回し、教室の出入口に向けて照準を合わせている。
『対象者を追跡します。廊下への移動を確認。教職員および生徒は安全区域へ退避してください』
「何が安全区域よ! 学校でしょ、ここ!」
ミカは全力で廊下を駆けた。
その後ろを、黒いドローンが無慈悲に追いかけてくる。
XXのセキュリティシステムに「誤作動」という概念は存在しない。
一度入力されたデータは、神の託宣と同義だった。
ましてや、その神託が本人の指先から入力されたものであれば、訂正する余地などない。
こうして、自由純潔高等学院の平穏な午前中は、一人の女子高生による校内逃走劇へと変貌したのである。
ミカは学校から少し離れた商業ビルの裏手に身を隠していた。
壁に背中を預け、荒くなった呼吸を整える。幸い、あの忌々しいドローンは撒いたらしい。少なくとも、今のところ頭上から電撃が飛んでくる気配はなかった。
そのとき、制服のポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
画面にはビデオ通話の着信表示が浮かんでいる。
iPhone55。
ミカはこの島では珍しいiPhoneユーザーだった。
XXでは、製品の開発者や企業の創業者が男性であるという理由で、特定のブランドが忌避されることがある。中でもAppleは、その創業者であるスティーブ・ジョブズが男性だったため、フェミニスト系の企業が開発した国産端末に市場を奪われていた。
母親などは、ジョブズの名前を聞くだけで口汚く罵るほどだった。
それでもミカはiPhoneを使っていた。単純に使い慣れていたし、デザインも気に入っていたからだ。母親には何度も買い替えを勧められたが、適当に聞き流していた。
通話ボタンを押すと、画面にレイの顔が映った。
「大丈夫? ミカ!」
レイは相当心配しているようだった。背景には、まだ学校の教室が映っている。
「大丈夫。とりあえず、ドローンは巻いた」
「巻いたって……。あんた、今どこにいるのよ?」
「学校の裏手。たぶん、もう追ってきてないと思う」
「たぶんじゃ困るんだけど!」
ミカは苦笑した。
無垢者には、身体能力に優れた者も少なくなかった。人工授精の際に遺伝子デザインが施されていることもあり、健康状態や運動能力は一般的な女性より高い傾向にある。
もっとも、XXでは身体的な美の基準も独特だった。
大きな胸や大きなお尻といった、いわゆる女性らしい身体的特徴は、かつて男性の性的欲望に合わせて形成された美意識の産物だとして忌避される傾向が強い。そのため、中性的で無駄のない体型が理想とされていた。
ミカもその例に漏れない。
すらりと伸びた手足に、細い腰。胸も尻も小さく、全体的に陸上競技のアスリートを思わせる体型だった。走ることには自信があるし、実際、今日もその身体能力のおかげでドローンから逃げ切ることができた。
ただし、筋肉が付きすぎるのも問題だった。
女性らしさを否定して男性的な筋肉を称賛するのは、結局のところ男性の価値観に囚われている、という批判があるからだ。
女性を苦しめるルッキズムそのものを男性性の一種として憎む思想もあり、女性の美しさをどう定義するかは、XXでも意外なほど難しい問題だった。
要するに、何をしても誰かに文句を言われるのである。
「それにしても、ミカ!」
レイが画面の向こうで声を張り上げた。
「貴女、お母さんからなんて教わってきたのよ!?」
「え?」
「え、じゃないわよ! あんな選択肢を押したらどうなるか、分かってたでしょう!?」
ミカは少し考えた。
「『男とは愚かで浅はかで衝動を抑えられない生き物だ』って」
「そう! それよ!」
「お母さん、よく言ってるから」
「じゃあ、あんたの今の行動、完全にそれじゃないのよ!!」
「……あ」
ミカはようやく自分の行動を振り返った。
確かに、面白半分で危険なボタンを押したのは事実だった。
「いや、でも、まさか本当に撃ってくるとは思わないじゃない」
「XXのセキュリティを何だと思ってるのよ!」
「学校の防犯システム?」
「防犯じゃなくて攻撃システムでしょうが!」
レイの声が裏返った。
そのときだった。
ミカの頭上から、低い機械音が聞こえてきた。
最初は遠くの航空機かと思った。しかし、音は急速に大きくなっていく。
ミカが顔を上げると、巨大なVTOLすなわち垂直離着陸機が商業ビルの上空を旋回していた。
「……レイちゃん」
「何?」
「なんか来た」
「何が?」
「空から」
「空から?」
レイが画面越しに眉をひそめた。
次の瞬間、VTOLの機体側面に描かれた大きな紋章が見えた。
XXの治安維持部隊。
しかも、通常の警察車両ではない。
機体のハッチが開き、黒い人影が次々と降下してきた。
全身を黒のパワードスーツで固めた女性兵士たちだった。
反男性治安維持部隊。
通称、戦乙女隊。
XXの治安維持機構の中でも、男性侵入者の排除を専門とする精鋭部隊である。
彼女たちは道路に着地すると、瞬く間にミカを包囲した。
「ターゲット確認! 性自認男性一名!」
拡声器から威圧感のある女性の声が響いた。
「抵抗をやめなさい! 貴女……いえ、貴様はたった今、XXの市民権を失った! 橋の手前まで護送し、東京湾の外へ叩き出す!」
「待ってください!」
ミカは両手を上げた。
「私、心も体も正真正銘の女の子です! ほら、スカート履いてるし!」
制服のスカートを指さして必死に訴える。
だが、部隊を率いる大柄な女性兵士は、少しも表情を変えなかった。
「黙れ、男め!」
「男じゃありません!」
「男とは心の問題なのだ! 貴様が『男だ』と一瞬でも自認した瞬間、その魂には有害な男性性が宿った! 弁明は島を出てから言いなさい!」
「理屈が滅茶苦茶すぎるー!!」
ミカの悲鳴が、夕方の商店街に響き渡った。
スマートフォンの画面では、レイが頭を抱えている。
「だから言ったじゃない……。ああ、もう! どうしてあんたは昔からそうなのよ!」
「だって、ちょっと押してみたかっただけなのに!」
「その好奇心で島から追放される人がどこにいるのよ!」
「ここにいるよ!!」
ミカが叫ぶと、ヴァルキリー隊の隊長が右手を上げた。
「対象者を確保する!」
数人の兵士が一斉に動き出す。
ミカは通話中のiPhoneを握りしめたまま、逃げ道を探して周囲を見回した。
どうやら、今日は厄日らしい。
ミカは周囲を見回した。
黒いパワードスーツに身を包んだヴァルキリー隊の隊員たちが、じりじりと包囲網を狭めてくる。上空にはVTOLが旋回し、逃げ道を塞ぐように機体を傾けていた。
このままでは捕まる。
ミカは肩に掛けていた通学カバンを開いた。
「……あった!」
取り出したのは、授業で使用するはずだったフィジカルAI作業用リモコンだった。
今日の授業は、フィジカルAIを利用した都市環境管理の実習だった。生徒たちは街中で作業する業務用ロボットを遠隔操作し、清掃や荷物の運搬などを体験する予定だったのである。
ミカは周囲を見渡した。
ちょうど道路脇では、ゴミ拾いをしていた清掃用ロボットが作業を続けていた。人型ではなく、四輪の大型作業機械で、前面にはゴミを回収するためのアームが取り付けられている。
ミカはリモコンを操作した。
「えーっと、安全装置……これかな?」
画面に警告が表示される。
『警告:安全装置を解除すると、作業機械の自律行動に制限が生じます』
「ごめんね!」
ミカは構わず解除ボタンを押した。
直後、清掃ロボットの作業ランプが赤から緑に変わった。
「突撃ー!」
ミカがリモコンを操作すると、清掃ロボットはモーター音を唸らせながら急発進した。
「なっ!?」
ヴァルキリー隊の隊員たちが振り返る。
ゴミ収集用の大型アームを前面に構えた清掃ロボットが、猛然と彼女たちの足元へ突っ込んでいった。
「回避!」
「足元に注意!」
隊員たちが一斉に飛び退く。強化外骨格の脚部に清掃ロボットが衝突し、鈍い金属音が響いた。別の隊員は回避しきれず、回収用アームに足を引っ掛けられて転倒する。
もちろん、清掃ロボットに人を攻撃する機能などない。ただ、目の前に障害物があれば避けるという安全装置を解除されているため、障害物を障害物として認識しなくなっているだけだった。
それでも、数秒の混乱を生み出すには十分だった。
「今だ!」
ミカはリモコンをカバンに放り込み、全速力で走り出した。
「待て! 対象者が逃走した!」
「追跡班、回り込め!」
「清掃ロボットを停止させろ!」
背後から怒号が聞こえる。
ミカは振り返らなかった。
こうして、XXの理想都市を舞台にした、前代未聞の鬼ごっこが始まった。
XXの街並みは美しかった。
整然と並ぶ高層ビル。緑豊かな街路樹。歩道にはゴミ一つ落ちておらず、道路は常に清潔に保たれている。フィジカルAIが二十四時間体制で清掃を行い、物流も交通も完全に自動化されていた。
犯罪率はゼロ。
少なくとも、統計上はそうなっていた。
女性たちが安心して暮らせる、世界で最も安全で清潔な理想郷。
ただし、それは男性以外にとっての話だった。
ミカが大通りに飛び出した瞬間、街頭に設置されたサーモグラフィーが彼女を捉えた。
『危険人物接近! 心の男性性が検出されました! 住民は退避してください!』
「だから女だってば!」
防衛スピーカーが街のあちこちで一斉にシャウトする。
通行人たちは悲鳴を上げ、近くの建物に逃げ込んでいった。自動運転の電動カートは急停止し、歩道の案内ロボットまでが警告音を鳴らしている。
さらに厄介なことが起きた。
立ち並ぶタワーマンションの窓が、次々と開いたのである。
顔を出したのは、近隣に住む女性たちだった。
「キャー! 男よ! 心の男が出たわー!」
「シッ! 見ちゃだめでしょ! 目が腐るわよ!」
次の瞬間、上階から何かが降ってきた。
空のペットボトルだった。
続いて、丸めた紙くず、野菜の切れ端、そして中身の残った生ゴミの袋。
「ちょっと! 危ないって!」
ミカは頭をかばいながら走った。
どうやら住民たちは、男性性を検出した対象に対して、身の回りの不要物を投げつけることを一種の自主防衛活動と考えているらしい。
「ひどい! 昨日まで隣でパフェ食べてたおばちゃんまで私にゴミを投げてくる!!」
確かに、窓から身を乗り出している女性の一人には見覚えがあった。
近所の喫茶店で何度か一緒になり、パフェの新メニューについて話したこともある、気さくなおばさんだった。
そのおばさんが、今は鬼のような形相で生ゴミの入った袋を構えている。
「この裏切り者ー!」
「裏切ってないよー!」
ミカは涙目になりながら駆け抜けた。
背後ではヴァルキリー隊の隊員たちが、転倒した仲間を助け起こしながら追跡を再開している。上空のVTOLも旋回し、ミカの位置を追い続けていた。
もはや街全体が敵だった。
ミカは大通りから細い路地へと入り込んだ。
清潔な表通りとは違い、建物と建物の間には配管や設備用の通路が入り組んでいる。人通りも少なく、サーモセンサーの設置数も限られている。
彼女は路地の奥まで走り、積み上げられた資材の陰に身を隠した。
「はあっ……はあっ……」
息が切れる。
制服の袖には生ゴミの汁が付着し、髪にも何かの野菜の切れ端が絡まっていた。
「もう……最悪……」
スマートフォンを取り出そうとした、そのときだった。
ゴゴゴゴ……。
頭上から不気味な音が響いた。
「え?」
次の瞬間、路地裏の天井が崩れた。
正確には、建物の設備用通路を覆っていた天井パネルが吹き飛んだのである。粉塵が舞い上がり、ミカは思わず両腕で顔を覆った。
その向こうから、一人の女性が降り立った。
全身を黒い強化外骨格で覆った、ヴァルキリー隊の精鋭隊員だった。
通常の隊員よりも一回り大きな装甲。背部には補助推進装置があり、両腕には大型の拘束用ユニットが装着されている。
彼女はゆっくりと立ち上がると、ミカを見下ろした。
「見つけたぞ、若き男よ……!」
「だから男じゃないって!」
精鋭女兵士の目がギラリと光った。
「貴様のその『ちょっと試してみよう』という浅はかな試行錯誤……まさに人類を数千年間苦しめてきた『男の蛮勇』そのもの! 芽のうちに摘まねばならん!」
「だから誤操作だって言ってるでしょうがぁぁぁ!!」
ミカは反論しながら逃げ道を探した。
しかし、路地の出口にはすでに別の隊員たちが待ち構えていた。上空からはVTOLの照明が照らし、逃げ道を完全に塞いでいる。
「対象者、確保!」
精鋭隊員が一歩踏み出した。
ミカは最後の抵抗として身を翻したが、強化外骨格の腕があっという間に彼女の身体を捕らえた。
「いやあああ! 離して! 私、女の子だから!」
「黙りなさい。対象者の自己申告は信用できない」
「そこだけ妙に現実的なのやめてよ!」
両腕を拘束され、ミカはとうとう観念した。
こうして、XXで生まれ育った一人の無垢者は、自らのほんの出来心によって、反男性治安維持部隊に捕らえられることになった。
なお、この日のXXの犯罪発生件数は、統計上ゼロのままだった。
公式記録では、男性性を持つ危険人物一名を適切に排除しただけであり、犯罪など発生していないことになっていたのである。
「黙りなさい。対象者の自己申告は信用できない」
「そこだけ妙に現実的なのやめてよ!」
両腕を拘束され、ミカはとうとう観念した。
こうして、XXで生まれ育った一人の無垢者は、自らのほんの出来心によって、反男性治安維持部隊に捕らえられることになった。
なお、この日のXXの犯罪発生件数は、統計上ゼロのままだった。
公式記録では、男性性を持つ危険人物一名を適切に排除しただけであり、犯罪など発生していないことになっていたのである。
ヴァルキリー隊に拘束されたミカが連れてこられたのは、XXの中心部から遠く離れた島の最果てに位置する施設だった。
正式名称は「男性特別隔離施設」。
その名の通り、XXの治安維持システムによって男性と判定された者を収容し、島外へ強制排除するまでの間、一時的に隔離しておくための施設である。
もっとも、XXの建国以来、ここに収容された者はほとんどいなかった。そもそも男性の入島が認められていないのだから、当然といえば当然である。
ミカは廊下を歩かされ、鉄製の扉が並ぶ一角へと連れてこられた。
「ここがお前の部屋だ」
看守の女性が扉を開ける。
中は狭かった。ベッドと小さな机、壁に埋め込まれた洗面台。窓には鉄格子こそなかったが、分厚い強化ガラスがはめ込まれている。装飾らしいものは一切なく、壁も床も無機質な灰色で統一されていた。
XXの高級住宅や学校の明るく清潔な内装とは、まるで別世界だった。
「えっ……ここに住むんですか?」
「収容期間中はここで過ごせ」
「収容期間って、私、何も悪いことしてないんですけど……」
看守は答えず、部屋の設備を確認するように室内を見回した。
そのとき、ミカの目が壁際にある奇妙な白い磁器に止まった。
洗面台とは別に、壁に向かって取り付けられた、細長く奇妙な形状の陶器製の設備。上部には水を流すための配管があり、下部には排水口が設けられている。
ミカは首を傾げた。
「……これは何ですか?」
「男が使うトイレだ」
「え?」
ミカは改めて、その設備を眺めた。
生まれてから十七年間、XXの中で暮らしてきた彼女にとって、トイレといえば個室に洋式便器が設置されたものだった。こんな形状の設備は、学校の教材にも、街中の公共施設にも存在しなかった。
「いや、私、別に女なんですけど?」
看守はミカの顔を一瞥した。
「お前は男だ」
「いやいやいや! 何を言ってるんですか! 見れば分かるでしょう!」
「治安維持システムが男性と判定した。施設では判定結果に従って処遇する」
「だから、あれは性自認の項目を間違えて押しただけで……!」
「言い訳は聞かない」
看守は淡々と告げると、扉の外へ出た。
「必要なものがあれば呼べ。ただし、男性用の設備を使うことに不満があるなら、規則に従って申し立てろ」
ガチャン。
重い扉が閉じた。
ミカはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……どうやって使うの、これ」
部屋の壁には、彼女が一度も見たことのない男性用小便器が、まるで当然の備品であるかのように設置されていた。
XXの建国理念に従えば、男性と判定された者には男性用の設備を与える。それだけの話なのだろう。
そこに本人の身体的特徴や生活習慣を考慮する余地はない。
「私、ほんとに男扱いされてるんだ……」
ミカは頭を抱えた。
翌日、ミカは取調室へと連行された。
窓のない無機質な部屋だった。中央には金属製の机と椅子が置かれ、壁には監視カメラが設置されている。正面に座るのは、治安維持局の幹部と思われる厳めしい女性だった。
女性は手元の端末を操作し、ミカの学校での成績データを表示した。
「ふん……学校の成績データを見たぞ。お前、物理が得意らしいな?」
「えっ、はぁ……九十二点でしたけど」
「試してやろう。カルノーサイクルの熱効率の極限値は?」
「えっ?」
突然の質問に、ミカは目を瞬かせた。
取り調べというより、抜き打ちの小テストである。
「高温熱源と低温熱源の温度差が極端に大きくなって、温度比が無限大になるなら、理論上の熱効率は一、つまり百パーセントになりますけど……」
尋問官の表情が変わった。
次の瞬間、彼女は机を激しく叩いた。
「間違いない、お前は男だ!!」
「ええっ!?」
「今どき熱機関やエンジンの理論なんて、男しか学ばん!」
「ただの物理の基本法則です!!」
ミカは思わず声を張り上げた。
カルノーサイクルは熱力学の基本事項である。熱機関の理論を学ぶことが、どうして男性である証拠になるというのか。
「いいか。熱を利用して機械を動かす。機械を動かして力を得る。力を使って支配する。これこそ、男性社会が長年繰り返してきた暴力的な構造だ」
「途中から話が飛躍してません!?」
「熱機関への関心は、男性的支配欲の表れと考えられる」
「そんなわけないでしょう!」
「では、なぜ物理を学んだ?」
「学校の授業にあったからです!」
「言い逃れをするな!」
尋問官は端末に何かを入力した。
画面には、次々と項目が追加されていく。
『熱力学への関心』
『機械工学的思考傾向』
『エネルギー利用に対する積極性』
その横には、いずれも「有害な男性性の兆候」と表示されていた。
「ちょっと待ってください! それ、全部ただの理科の勉強じゃないですか!」
「自覚がないのが最も危険なのだ」
「自覚って何の!?」
ミカがどれだけ正論を並べても、尋問官は聞く耳を持たなかった。
どうやらこの施設では、物理は熱を扱う学問であり、熱は機械を動かすものであり、機械は男性の暴力性と結びつく――という、独自の思想体系が確立されているらしい。
その論理に従えば、熱力学を理解していること自体が、すでに危険思想の証拠となる。
「もういい。お前の男性性は十分に確認できた」
「確認できてません! 何ひとつ!」
尋問官はミカの抗議を無視し、端末の画面を閉じた。
「島外追放の手続きを進める。最後に家族との面会を許可してやろう」
「家族……!」
ミカの表情に、わずかな希望が戻った。
母なら、さすがに分かってくれるはずだ。妹のリカだって、姉が本当に男性ではないことくらい知っている。
そう思いたかった。
面会室は、施設の一階にあった。
ミカは室内の椅子に座らされ、目の前に設置された透明なアクリル板を見つめていた。向こう側の椅子には、面会に訪れた母と妹のリカが座っている。
「お母さん!」
二人の姿を見た瞬間、ミカは身を乗り出した。
「助けて! あれは誤作動なの! 私、間違えて男性のところを押しちゃっただけで――」
「ミカ!!」
母親はミカの言葉を遮るように叫んだ。
そして、アクリル板を両手でバシバシと叩き始めた。
「あなた、自分が何をしたか分かっているの!?」
「えっ?」
「我が家から『性自認男性』が出ただなんて、第一世代の私の顔に泥を塗る気!? 来年、リカの創世大学推薦枠が取り消されたらどう責任を取るのよ!!」
「私の心配は!?」
ミカは目を見開いた。
どうやら母親が真っ先に心配しているのは、娘の身の安全ではなく、家の名誉と妹の進学だったらしい。
「お母さん、お願いだから落ち着いて! 私、本当に女の子だよ! ちょっとした悪ふざけで、選択肢を押しちゃっただけなの!」
「だから言ったでしょう! 物理なんて男の学問を勉強するから、魂に男根が生えたのよ!!」
「物理と男根は関係ないでしょうが!!」
「言い訳しないで!」
母親はさらにアクリル板を叩いた。
第一世代の急進的な思想家として、XXの建国理念を誰よりも強く信奉してきた母にとって、娘が男性と判定されたという事実は、個人的な失敗などでは済まされなかった。
それは自分の教育方針への疑念であり、思想的な敗北であり、何より周囲からの評価を損なう不祥事だった。
隣では、リカが姉を冷ややかな目で眺めていた。
「お姉ちゃん、本当にアホだね……」
「リカまで!?」
「普通、そんな選択肢を押さないでしょ。しかも、押したらどうなるか分かってたんじゃないの?」
「いや、まさか本当にこうなるとは思わないじゃん!」
「思わないほうがおかしいよ。建国理念の第一原則だよ?」
「そんなの、冗談だと思うでしょ普通!」
「この島で建国理念を冗談だと思ってる人なんて、お姉ちゃんくらいだよ」
リカは呆れたようにため息をついた。
「それに、私の推薦枠のことまで巻き込まないでよ。お姉ちゃんのせいで余計な確認が入ったらどうするの」
「だから、私の心配は!?」
「してるよ。お姉ちゃんがここまでアホだったことについて」
「そこじゃない!」
ミカはアクリル板に額を押しつけた。
頼みの綱だった家族との面会は、どうやら何の役にも立たなかったらしい。
母親は最後まで自分の名誉とリカの推薦枠について抗議を続け、リカは姉に対する呆れを隠そうともしなかった。
やがて面会終了を告げるブザーが鳴った。
「待って! お母さん! リカ! お願いだから助けてよ!」
看守がミカの肩を押さえ、椅子から立たせる。
「面会時間は終了だ」
「まだ何も解決してないんですけど!」
「決定事項は変わらない」
看守は事務的に告げた。
「対象者は男性と確定している。これより島外追放の手続きを開始する」
「だから私は女だってば!」
ミカの訴えは、誰にも届かなかった。
その日の午後、ミカの処遇が正式に決定した。
治安維持局の記録には、彼女の名前とともに「性自認男性」「有害な男性性の兆候あり」「島内居住資格喪失」といった項目が並んだ。
処分は、東京湾への強制追放。
XXと外部を結ぶ唯一の橋の先には、島外へ対象者を排出するための専用ゲートが設けられている。そこまで護送された後、ミカはXXの市民権を失い、島外へ送り出されることになっていた。
もちろん、ミカ自身に異議を申し立てる機会は与えられていた。
ただし、異議申し立ての審査は、男性と判定された者には適用されない。
「……もう、どうすればいいのよ」
護送車の後部座席で、ミカは力なくつぶやいた。
学校でほんの出来心から選択肢を一つ押しただけだった。
それが警報を鳴らし、ドローンに追い回され、治安部隊と街中で鬼ごっこをする羽目になり、ついには家族にまで見捨てられた。
そして今、自分が生まれ育った島から追い出されようとしている。
「私、ただの高校生なんだけどな……」
護送車は施設の門を抜け、島の外縁部へ向かって走り始めた。
その先には、東京湾を望む強制追放ゲートが待ち構えていた。
半年後。
東京は、XXとはまるで違う街だった。
東京湾に浮かぶ人工島XXが、最新の科学技術と急進的な思想によって社会のあり方そのものを作り替えた先端都市だとすれば、こちらは時代の流れから取り残されたような、古びた街だった。
保守的な政治が長く続き、社会の仕組みも生活様式も、なかなか変わらなかった。いわゆる「失われた九十年」の影響は大きく、街中を監視用ドローンが飛び回ることもなければ、自動運転車が道路を埋め尽くすこともない。人間がハンドルを握り、自分の目で信号を確かめ、自分の足で歩いている。
かつて若者文化の発信地として知られた渋谷や原宿、下北沢でさえ、今では高齢者向けの商店や施設が目立つ街になっていた。二〇二六年の感覚でいえば、巣鴨のようなものだろう。最先端の流行を追いかけていたはずの街が、半世紀も経てば老人たちの憩いの場になっている。
そんな東京の浅草。
雷門の前には、昔ながらの観光客や買い物客が行き交っていた。
その一角に、創業百年を迎えたバスキン・ロビンスのアイスクリーム店がある。店先の歩道にはいくつか椅子が並べられており、その一つにミカが腰掛けていた。
彼女の手には、チョコミントアイスのカップ。
ミカはスプーンですくったアイスを口に運び、満足そうに目を細めた。
「んー、おいしい!」
チョコミント。
XXでは、ほとんど口にする機会のなかった味だった。
母親をはじめとする急進的な女性たちの間では、ミントの清涼感を「歯磨き粉の味」と評し、そんなものを好んで食べるのは男性的な嗜好だという妙な偏見があった。もちろん、アイスクリームの味に性別など関係ないのだが、XXではそんな理屈が通用するとは限らない。
今、ミカは誰に咎められることもなく、堂々とチョコミントを食べていた。
向かいの椅子には、レイが座っている。
ミカはアイスを一口食べると、これまでの経緯を説明するように話し始めた。
「で、XXから追い出された私は、FTMと勘違いされてトランスジェンダーの権利保護団体に預けられたってわけ」
「ってことは、男根生やしちゃったの?」
レイが何気なく尋ねた。
この時代、性別適合医療は大きく進歩していた。FTMの人が男性器を形成することも、MTFの人が人工子宮を身体に取り付けることも、決して珍しい話ではない。
ただし、染色体までは変えられなかった。
人間の身体を構成する約五十兆個もの細胞をすべて書き換え、染色体そのものを別のものに変える技術は、まだ実用化されていないのである。
「そんな馬鹿な! ちゃんと『女です。間違えて押しちゃっただけです』って言ったら理解してもらったわ」
「そりゃそうか」
「職員の人も『大変だったね』って、すごく親切にしてくれたよ。東京の科学技術高校に編入する手続きまでしてくれたし」
ミカはあの施設での出来事を思い出した。
最初は、まさか本当に性自認を間違えたのだとは信じてもらえなかった。しかし、事情を説明し、身体的な検査も受けると、職員たちはようやく納得してくれた。
XXのように、本人の申告よりもシステムの判定を絶対視する社会ではなかったのである。
編入先の科学技術高校は、三年制の工業高専に近い学校だった。理工系の教育に力を入れており、卒業後は大学の理工系学部へ進学することを前提としたカリキュラムが組まれている。
ありがたいことに、東京では女子が物理を勉強しても、誰からも文句を言われなかった。
それどころか、実習では古臭い熱機関を搭載した自動車を分解する授業まであった。
「この前なんか、エンジンを全部ばらしたんだよ。ピストンとかクランクシャフトとか、実物を見ながら仕組みを勉強するの」
「へえ。面白そうじゃん」
「面白いよ。トヨタなんて、まだ内燃機関を追求してるんだから。熱効率は六割を超えたんだって」
「六割?」
「そう。昔のエンジンから考えたら、すごい進歩でしょ」
東京の道路には、ハイブリッド車も電気自動車も走っている。だが、ガソリン車もまだまだ現役だった。古い技術を捨てきれないという見方もできるが、ミカにとってはそれが魅力でもあった。
「やっぱりエンジンの車ってかっこいいでしょ?」
ミカは少し誇らしげに言った。
レイは笑った。
「そうだ。せっかく東京に来たんだから、男は?」
「男?」
「恋愛。いい人いないの?」
レイはもともとXXへの入植者だった。母親が離婚をきっかけに、寂れた東京での暮らしを捨て、レイを連れてXXへ渡ったのである。だから彼女は、島の外の社会も知っていたし、東京の暮らしにもそれなりの憧れがあった。
高校を卒業したら東京に戻るつもりで、今日は大学見学を兼ねて遊びに来ていた。どうやら、大学生活には恋愛も含まれているらしい。
「男は興味ないかなぁ」
ミカはアイスをすくいながら答えた。
「えー、なんで?」
「XXにいた頃は、話の通じないモンスターだと思ってたけど、彼らも人間なんだって分かったのは良かったかな」
「それ、褒めてるの?」
「一応ね」
科学技術高校は理系の学校ということもあり、クラスメイトは男子の方が多かった。
二〇七〇年になっても、理工系の学校では男子の比率が高い。そんなところにも、東京らしい保守性が残っている。
もっとも、ミカにとっては男女比などどうでもよかった。
「いい人いないの? カッコいい人」
レイが身を乗り出す。
「いない」
「即答だね」
「言い寄られるのも面倒くさいし」
「ミカって美人なんだから、そりゃ声もかけられるでしょ」
「そういう問題じゃないんだよね。なんだろう……脳みそじゃなくて睾丸で考えて喋ってるときがあるじゃない? 性欲が行動に直結するというか。あれがマジで無理」
レイはとうとう吹き出した。
「ちょっと、それ本人たちに聞かれたら怒られるよ」
「だって、そうなんだもん」
ミカの言葉には、母親から受け継いだ価値観が色濃く残っているようだった。
XXで育った彼女にとって、男性に対する警戒心は簡単には消えない。島の外で暮らし、男性もまた普通の人間なのだと理解するようにはなった。それでも、恋愛対象として積極的に関心を持つところまでは至っていないらしい。
「まあ、いいけどさ」
レイは笑いながら肩をすくめた。
ミカは残り少なくなったチョコミントアイスをすくい、口に運んだ。
「でもまあ、こういうレトロな世界も悪くないと思う。チョコミントアイスは美味しいしね」
「結局そこ?」
「大事なことでしょ」
二人は笑った。
その向こう、隅田川の対岸には、金色に輝く奇妙なオブジェがそびえていた。
アサヒビール本社ビルの屋上に載せられた、あの有名な金色のモニュメントである。通称、ゴジラのウンコ。
設置から百年を経たそれは、相変わらず独特の存在感を放ち、夕日に照らされて黄金色に輝いていた。
尖った先端技術も、壮大な建国理念もない。
監視ドローンも飛ばず、自動運転車も当たり前ではない。
それでも、ミカはこの街が嫌いではなかった。
少なくとも、チョコミントアイスを食べるのに、男性性を疑われる心配はないのだから。




