第5話
9引く8は1。
――9引く8は1。
ダンスは頭の中で呪文のようにこう繰り返しながら、母屋のドアを押し開けた。ドアは絞め殺されるニワトリの声のような音を上げ、つっかえながら内側に開いた。
母屋の入り口はちょっとしたエントランスホール、もっと率直に言えば物置きになっていて、牧草をかき集めるための大きな熊手、農園で使う鋤や鍬、大小の桶や樽が所狭しと積み上げられている。牧場やこの母屋の外観を襲った異様な変貌は、ここまでは影響を及ぼしていない様子だ。
手早く室内を改め、安全を確認すると、ダンスは、パイパーとキティアラに物置きで待機するよう指示した。
「忍び込んで不意打ち、とはとてもいかないからな」
母屋のドアが、あんなにけたたましい音を立てたのだ。こっちが不意打ちを仕掛けるどころか、3人まとめて待ち伏せでもされたら目も当てられない。
ダンスは奥へと続くドアに手をかけた。ここを開けると作業場兼台所があったはずだ。
あっけなく素直に開いたドアの向こうは、ダンスの記憶通りの場所だった。井戸から汲んだ水を貯めておく大きな水がめ、石造りの流し台、一抱えもある木製のたらい、大きな鉄鍋と石のかまど。
流し台の中に置かれた皮袋が目に入ると、ダンスの頭の中に鮮明なイメージがあふれ出す。
井戸、よく冷えた、真夏、のど越し、牛乳――。
マイサ。
9引く8は、1。
1。
――1。
ダンスは、きつく目を閉じる。そんなことを考えている場合じゃない。集中しろ。
……きつく目を閉じる?
待ち伏せされたら目も当てられない、じゃなかったのか?
粘りつくような生臭さが、バケツをひっくり返したようにあたりに立ち込めた。
何かがダンスの右足首をひっつかみ、あっという間に引きずり倒す。後頭部から床に叩きつけられ、一瞬意識が途絶える。舌を嚙まなかったのだけは僥倖だ。ダンスは足を上、頭を下にして真っ逆さまの宙吊りにされてしまう。
逆さ吊りにされて、ようやく足をつかんできた相手の姿が見えた。それは、人間ほどの高さがある『肉の柱』だ。てっぺんにはまぶたのない目玉が一つぎょろりと光り、皮膚がなくむき出しになった筋肉にはぬめぬめとした液体がまとわりつき、床を浸している。肉柱の幹からは鞭のような触手が何本も生え、その触手のひとつがダンスを宙吊りにしているのだ。
ダンスは両手を振り回してもがく。そう、引き倒されたときに剣はどこかに吹っ飛んでしまい、今のダンスは丸腰も同然だ。
触手がもう一本伸びてきて、叫ぼうとしたダンスの口をふさぐ。まずい、このまま絞め殺される……。
とその時。
「ダンス!」
パイパーの声だ。
台所に駆け込んでくるなりダンスの危機を見て取ったパイパーは、自分の腰に結び付けていた陶瓶を投げつける。肉柱が触手を振り回して瓶を叩き落とすと、中からはツンと鼻をつく臭いの液体が流れだす。油だ。
「お次はこいつだ」
パイパーは携帯用のランタンを持ち出し、これも肉柱に投げつけた。なるほど火をつけようって算段か、いいアイディアだ……。
しかし、肉柱は2本の触手でランタンをがっちりと受け止めた。バカな、こんな肉の塊にそんな知能があるっていうのか?
しかし、知能ならもちろんパイパーにもあった。ランタンを投げたパイパーはそのままリカーヴボウに矢をつがえ、狙いを定めていたのだ。
ランタンは決して大きな目標ではないが、なにしろ場所は狭い屋内。パイパーが放った矢はランタンを砕き、飛び散った燈心が油に引火した。
吠えるような声を残して、肉柱はダンスを放り出して家の奥へと逃げようとする。床の上に尻もちをついたダンスはなんとか呼吸を整えていた。
「さあ、残りはあと1だ。終わらせよう」
キティアラは、今目の前で繰り広げられたアクションシーンにも眉ひとつ動かさず、ダンスとパイパーに告げる。
「あんたさ、もうちょっとこう……」
「よせパイパー。彼女が正しい」
パイパーを制したダンスはかまどの中に転がっていた自分の剣を拾うと、肉柱を追って家の奥へと踏み込んだ。
肉柱はそれほど遠くへは行けなかった。
台所兼作業場の隣室、居間兼食堂にあたる部屋。
ディゴがよくパイプをくわえ、くつろいでいた暖炉の前に、肉柱はうずくまっていた。肉柱の表面は焼け焦げて引き攣れ、もう満足に動くことはできないようだ。触手はだらりと垂れ下がり、動く気配はない。
剣を握りしめたダンスが近づくと、肉柱は怯えたようにか細い声を上げてダンスから離れようとする。ダンスは大股で距離を詰めると、両手に持ち替えた剣を何度も肉柱に突き立てる。剣が突き刺さるたびに、肉柱は声にならない声を上げ、弱々しくうごめいた。
びくびくと震え、粘液をまき散らしながら、肉柱はようやく動きを止めた。
「これで9引く9、ゼロだな」
様子を見にやってきたキティアラに向かってそう声をかけたダンスの声は、かすれてしわがれていた。




