第14話
『壁』は本当に、自分たちを守ってくれているのか。
この疑問を頭の中で反芻しながら、ダンスたちは道を急いでいた。
前回の任務で『壁崩落』に呑み込まれたディゴの牧場は、魔術院の分類ではすでに「ダンジョン」となっている。この新しいダンジョンを踏査するのが、今回の表向きの任務だ。
ダンスたち3人にとって、本当の目的は『壁』の実相に迫ることだ。ダンスは手の感覚を確かめるように、何度も拳を握っては開いている。キティアラは、手にした帳面をめくりながら、何ごとかを呟いている。パイパーは遠く『壁』の方向を見渡すように視線を投げ、目をしばたたいていた。
「誰でもそうだろうけどさ、これまで『壁』が守ってくれてるってこと、疑ったことなんてなかったよ」
パイパーは誰に言うともなく話し続けている。
「冒険者になるまで、『壁』の向こうがどうなってるかなんて気にしたこともなかったしさ。おっさんはそのへん、どうなの?」
いきなり話を振られたダンスは顔をしかめた。疑ったことこそなかったものの、ダンス自身は『壁の向こう』が気になる子供だった。『壁』を越えて行くのは冒険者か魔術師くらいのものだ。
「おれは、『壁の向こう』のことを知りたくて冒険者になった。だが、外側は危険だからな。魔術師の礼式なしでは生きていけない」
「そうだ。魔術院は『壁』に関わるすべてを独占している」
キティアラが割って入った。
「さあ、新しいダンジョンだ。さっそく礼式の出番というわけだ」
3人の視線の先には、ディゴがその生涯を捧げ、そして永遠に失った牧場があった。几帳面だったディゴの性格を表すように地面と直角に作られていた屋根や牧場柵は、今ではどこか歪み、水面を透かして見た風景のようにひずんで見えた。
「まず、『壁観測』の礼式を施す」
キティアラはそう宣言すると、両手を顔の前に掲げ、何かの図形を描くようにゆっくりと動かし始めた。唇は小刻みに動き、なにかをつぶやいているのがわかる。
詠唱を終えると、キティアラはダンスたちを振り返った。
「お前たちには見えないが、今の礼式の効果で、私の目にはこの付近にある『壁』が見えるようになった。……前回とは違って、今では『壁』は牧場よりこちら側にあるようだな」
キティアラの目には、『壁』が解けかけた氷の壁のように映っている。牧場を囲む一帯が周囲よりもこちら側にせり出し、醜く膨れ上がって見える。『壁崩落』の結果、『壁の向こう』がこちら側を浸食した格好だ。
キティアラが手早く状況を説明すると、ダンスは顔をしかめた。子供の頃とは違い、気になるのは『壁』の向こう側ではなくパーティの安全だ。ダンスの経験では、すべてが『壁』の向こう側にあるダンジョンは間違いなく危険だ。
「その礼式でわかるのは『壁』のことだけなのか? 周りに敵がいるかとか、そういうのはわかんないの?」
パイパーが尋ねる。ダンスが「そういうものだ」と何となく納得してきたことを、物おじせず質問できるのはパイパーの美点だ。
「そうだ。魔術師の礼式が効果を持つのは『壁』のことだけだ。……次だ、『壁防御』の礼式をかける。これで『壁』を安全に通り抜けられるはずだ」
キティアラはもう一度両手を目の高さにかざすと、ゆっくりと顔の前を塞ぐような動作を始めた。『壁観測』と似たような動きだが、それに続く動作と呪文は違っていた。
一連の詠唱は、胸の前で強く両こぶしを握り締め、次いで大きく両手を打ち合わせて終わりを告げた。その途端、ダンスたちは身体を柔らかい布が包み込んだように感じる。
「よし、これでいい。ダンス、パイパー、二人とも私のそばを離れるなよ。一列になって歩くんだ」
ダンスは頷いて先頭に立つ。キティアラを中央に、最後尾はパイパーだ。3人はゆっくりと歩みを進め、牧場へと近づいていく。
――そしてダンスは、『壁』に触れた。
何度経験しても嫌なものだ。向こう側が透けて見えるのに、押し返してくるような圧力がある。粘液質ではないのに、ねばりつく感触がある。あるはずもないのに、脈打つ拍動を感じる。
身体の前に突き出した両手をねじ込み、そして顔をうずめていく。呼吸はできるのに、息がつまりそうだ。今すぐにでも振り返って走り去りたい欲求が、身体の芯から湧き出してくる。
吐き気をこらえながら『壁』を越えたダンスは、元来た方を振り返った。
キティアラはいつも通り冷静に、しずしずと歩いて『壁』を越え終わろうとしている。パイパーはその後ろで、何とも嫌そうに鼻にしわを寄せながら、必死に歩いている。
キティアラが『壁』を越えた。ダンスはほっと一息つく。あとはパイパーだけだ。
パイパーの足取りが乱れた。列が崩れ、パイパーが遠ざかる。濃厚な『壁』のただ中で、パイパーの長身が揺らぐ。その場に座り込むように倒れる……というところで、ダンスとキティアラが同時に駆け寄り、パイパーが伸ばした右腕をつかんだ。
「離すなよ!」
ダンスとキティアラは二人がかりで、半身だけ『壁』に残ったパイパーを引っこ抜いた。3人はもつれ合って地面に倒れ込む。
「パイパー!離れるなと言っただろう!」
地面に倒れ伏したまま、キティアラが色をなして叫ぶ。彼女がこんなに語気を荒げるのは初めてのことだ。
「ごめん、でもなんだか気が遠くなって……足がさ、勝手にちょっと戻っちゃったんだ」
パイパーも倒れたまま、自分の手をじっと見つめている。ダンスたちがつかんだ右ではなく、左の手だ。
「まるで、濡れた手袋や靴下を脱ぐときみたいにさ。手が……手が、はずれそうになったんだよ。骨からさ、手が」
パイパーの声は震えていた。
キティアラはパイパーのその左手を両手でつかみ、しっかりと確かめながら声をかけ続ける。
「大丈夫だ、パイパー。大丈夫だ。お前の手は無事だ」
キティアラは、子供をあやすように何度も何度も繰り返した。硬直していたパイパーの身体が少しずつほぐれ、表情にも柔らかさが戻ってくる。
その光景を、ダンスは凝然と見守っていた。ダンスの耳には、パイパーの右腕をつかんだ瞬間にキティアラが呟いた言葉が鮮明に残っていた。
「……やはり『壁』か!」




