帰宅早々の息子を、謎の裏拳が襲う
「ピ、ピンク? えっと、は、はい、好きですが……」
キョトンとした顔で頷くフィフィーちゃん。
「そっ、良かった」
当初、グレーやネイビーといった、落ち着いた色合いで纏められていた客間が、今やファブリック類はすべてパウダーピンクやローズピンク色のものに取り替えられ、明るくなっていた。
「やっぱり自分が過ごす場所は、好きなものだけで作りたいわよね」
「過ごす場所……? もしや、お義母様の部屋を増やされるのでしょうか。でしたら、わたくしもお手伝いを――」
「ああ、私じゃないわよ。ここはあなたの部屋になるのよ」
「――え?」
手にしていたトランクを床に置き、早速袖まくりしてメイド達にまざろうとしていたフィフィーちゃんは、金縛りにあったかのようにピタリと動きを止めた。そして、ギギギと油が切れた人形のように、ぎこちない動きで首を回して私を見上げてくる。
私は、満面の笑みで告げた。
「今日からここが、フィフィーちゃんのお部屋よ」
「えっ、えぇっ!? そ、そんな滅相もないです! わたくしなんかが使っては部屋も勿体ないですし、わたくしは今まで通り使用人棟の部屋で充分――」
フィフィーちゃんは、首と両手をブンブンとちぎれんばかりに左右に振りながら、遠慮を口にしはじめたのだが、「フィフィーちゃん」と私が声を重ねて無理矢理に遮る。
「あなたはサイネルの許嫁でしょう?」
「は、はい。そうです……けど……」
そうですと肯定を口にはしているが、その表情は肯定とは言いがたかった。瞳は落ち着きなく左右に揺れ、次第に足元へと向けられる。申し訳なさそうに俯き、腰の前で結ばれた両手は、ギュッときつそうだ。
「そ、それでも、やはりわたくしごときが本邸の客間を使わせていただくわけには……」
「客間を使う理由なんて、うちの将来の嫁だから――それだけで充分なんです!」
私は、ピシャリと言い放った。
思わず大きくなってしまった声に、部屋で作業をしていたメイド達もビタッと動きを止める。一瞬の静寂の後、彼女達は目配せし合い作業を再開させた。
ただ、静寂の前後で微妙に空気が違う。メイド達の纏う空気がざわついていた。
(あー……そりゃそういう反応になるわよね。フィフィーちゃんに対する態度が、この間までと真逆だもの。混乱させてごめんなさいね)
対するフィフィーちゃんは、まだ何か言いたそうにしていたが、むぐっと口を噤んで小さな声で「ありがとうございます」と呟いていた。
はじめて言われた礼に嬉しくなるが、彼女の苦笑のような笑い方を見れば、諸手を挙げて喜ぶことはできない。元より、彼女はロザリアには逆らえないのだから。
(それでも、ひとまずは彼女の環境はこれで大丈夫ね。あとは、毎日接していけば、ロザリアが変わったことを知ってもらえるはず!)
彼女を使用人棟に住ませたまま親身になろうが、説得力はない。
フィフィーちゃんの部屋が使用人棟にあると知った時は、それはそれは顎が外れそうなほど驚いた。開いた口が塞がらないというのは、こういうことかと身を以て知った。
彼女は息子の許嫁なのだ。決して使用人ではない。
きっと、サイネルとフィフィーちゃんの結婚は、政略結婚のようなものなのだろう。しかし、たとえ契約での繋がりであろうと、嫁に迎えると決めたのなら、相応に扱うべきなのだ。
(てか、そんなに息子をとられるのが嫌なら、まず許嫁を了承しなければ良かったのに……。それに、フィフィーちゃんもこれだけの仕打ちをされていて、どうして一年も耐えていたのかしら……?)
ロザリアのマクウェリン家よりも、フィフィーちゃんのスロヴェスタ家のほうが家格は上だ。スロヴェスタ家も、娘が婚家でこんな仕打ちにあっていると知ったら、婚約解消しそうなもんだけど。
(少し……彼女が許嫁に決まった頃まで記憶を探る必要があるわね)
そんなことを、まだ信じられないとばかりに戸惑いがちに部屋を見渡すフィフィーちゃんを見て考える。
早く、彼女が屈託なく笑う姿が見たいものだ。
「じゃあ、フィフィーちゃんは持ってきてくれた私物を片付けていってね。元使っていた部屋よりクローゼットは大きいし、ドレスもたくさん入るわよ…………って、あら?」
そういえばと、私はフィフィーちゃんの足元にポツンと置かれた、ひとつだけのトランクに目を向ける。
「まだ荷造りが終わってなかったのね。ごめんなさいね、引き留めて。重いようなら、荷運びはセバスチャン達に手伝ってもらうわよ」
「い、いいえ、もう終わりましたので」
「え? でも、トランクひとつじゃない」
「はい。ひとつでも充分だったので……」
フィフィーちゃんは床に膝をつくと、『ほら』とでも言うように、カパッとトランクを開いて見せてくれた。入っていたのは、替えのメイド服とおそらく下着類が入っているのであろう布袋……のみ。ドレスは? アクセサリーは? 香水は? 化粧品は? え、見当たらないんだけど?
サーッと血の気が引いていき、次の瞬間には私は叫んでいた。
「セバスチャァァァァンッ!」
すると、スッ、と扉の陰から長身の老執事が現れる。
後頭部に撫でつけられたロマンスグレーの短髪が、渋い皺の入った顔によく似合っている。
「セレストです、奥様。何度も言いますが、私はセバスチャンという名ではありま――」
「セバスチャン、今すぐ外商を呼んで! 令嬢が利用する外商全員! 今すぐっ!」
「ですから、セバスチャンでは――」
「っああああああ! なんで気が回らなかったのかしら、私のバカァッ! 部屋を整えると一緒に、身の回りも整えてあげたら良かったじゃない! いえ、でも、装飾物は自分で選びたいでしょうし……あっ、私も一緒に選んじゃおうかしら。フィフィーちゃんはきっとなんでも似合うだろうし。この際、部屋も新しくなったし、クローゼットも新品のドレスで一杯にすれば良いんだわ! ねっ、良い考えだと思わない、セバスチャン!」
「…………左様にございます」
セバスチャンは、老執事よろしく静かに頷いた。
どうして目をつぶっているのかしら? ま、いいか。
そうして、その後の段取りをセバスチャンに伝える。彼が手配のために部屋を出て行くと同時に、ちょうど部屋の模様替えも終わったようだ。
セバスチャンにならうように、メイド達も小さく会釈しながらぞろぞろと部屋から出て行く。
口々に「お疲れ」やら「そろそろお昼ね」などの、ざわざわとした会話が聞こえ、まるでバイト終わりの大学生みたいだな、なんて微笑ましく見ていたのだが。
「ねぇ、あたしてっきり奥様がこの部屋を使うもんだと思ってたんだけど……」
「私もよ。まさかのフィフィーでしょ!? 納得いかなーい。なんで、《《悪役令嬢》》のために、私達が働かなきゃいけないのよって感じ」
「夫になるサイネル様にも愛されてない分際でね……そんな女に仕えたくないわよね」
聞こえてきたひそひそ話の内容に、思わず入り口を凝視してしまった。
(悪役……令嬢……? 誰が?)
もしかして、フィフィーちゃん?
「――っ!」
思考を巡らせ掛けて、ハッとした。この部屋にはまだフィフィーちゃんが残っている。どうか彼女の耳には届いてませんようにと願いながら、フィフィーちゃんへと顔を向ければ、目が合った彼女は苦笑していた。
◆
「ただ今帰りました、母さ――フゴッ!?」
振り向いた私の手の甲が、学院から帰ってきたばかりのサイネルの頬に綺麗に入った。
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次回、裏拳に襲われた息子、さらなる地雷を踏み抜く――