母親というものは、
「か、母様……どうして、ここに――ッつ!?」
サイネルの戸惑い声を遮って、パシンッ、という肌が肌を弾く音が路地裏に響いた。
振り向きざまに、私が彼の頬を叩いたのだ。
予期せぬ衝撃にサイネルの顔はあらぬ方へと飛ぶが、彼はすぐに顔を正面へと戻すと、キッと目を尖らせる。しかし、サイネルが何か口を開く前に、私が彼の首に抱きついた。
「――っ勝手に出て行ったら心配するでしょ!」
ビクッと彼の身体が小さく跳ねた。
「心配……してくれたんですか……」
「当たり前じゃない! 我が子を心配しない親がどこにいるってのよ!」
「で、でも……母様にはフィフィーが……っ」
「馬鹿! フィフィーちゃんがいるからって、あなたを心配しない理由になんてならないわよ!」
「…………」
私はゆっくりと身体を離した。
思わず苦笑が漏れる。
「なんて顔してんのよ」
サイネルは足元の一点を見つめ、口角の揺れる口を引き結んでいた。私のほうがサイネルよりも背が低いから、彼が俯いていても表情は丸見えだ。
「……いきなり手を離してごめんなさい。不安だったわよね……戸惑ったわよね……。でも、あなたとの約束を忘れたわけじゃないのよ」
ロザリアとよく似た毛質の髪を、優しく梳き上げる。
「昔の私はとても弱かったの。幼いあなたをすべての支えにしてしまうほど……。本当はもっと早くあなたの手を離さないといけなかったのに……甘えてしまってごめんなさい」
「……っ」
サイネルは小刻みに首を横に振った。
「サイネル、聞いて。私はいつまでもあなたの隣にいられるわけじゃないの」
パッと彼の顔が上がった。薄く開いた唇を震わせ、眉間を寄せている。
「親はね、サイネル……子供が大きくなってひとりで歩けるようになったら、手を離さないといけないの。我が子が自分の足で歩いて行く姿を見送らないといけないのよ」
「やっぱり……っもう、母様に僕は必要ないということですか……っ」
「馬鹿ね、必要とか必要じゃないとかじゃないのよ。あなたと一緒に歩んでくれる人が現れたら、親は子供の背中を押して見送るのが役目なの。ずっと後ろから見守ってるから、大丈夫だからって……我が子のこの先がどうか幸せでありますようにって願いながら……」
遠ざかっていく背中を見つめるものなのだ。
「そんな急に……、言われても……っ」
私は、身体の横で力なく垂れ下がっていたサイネルの手を掴んだ。彼はビクッとして手を引っ込めようとしたが、しかし、結局私に大人しく握られることを選んだ。そのまま手を引いて路地裏を出る。
少しだけ先を歩く私の後ろを、サイネルは大人しく手を引かれながら歩いた。
「少しずつよ。少しずつ……」
(ああ、そういえば前世でも娘の成長を嬉しく思うと一緒に、どこか寂しさを覚えたっけ)
まだ、手の届くところにいてほしい。
まだ、母親を必要としてほしい。
いつまでも、傍にいてほしい。
だけど、それでは駄目なのだ。
だって、私はきっとまた子供よりも先に逝くから。
残されたこの子がひとりぼっちにならないように、私は彼の隣を空けないといけないのだ。
「この手が離れたからって、あなたはひとりになるわけじゃないわ。忘れないで、サイネル。私はずっとあなたのお母さんで、あなたはどれだけ老いても、ずっとずっと私の大切で愛する息子なんだから」
私に握られているだけだったサイネルの手が、弱々しい力でそっと指を握り返してきた。
「……め……っなさ、い……」
後ろから鼻をすする音が聞こえた。
「うん」
「信じて、くれ……っ、嬉しかった……」
リーマのことを言っているのだろう。
「当たり前じゃない、我が子だもの」
サイネルの、握る手の力が強まる。
石畳を蹴る二人分の足音が、人けのなくなった街に響いていた。
気付けば、マクウェリンの屋敷はもう目の前だ。
屋敷の門扉の奥、私はそこに見えた姿を見て笑みが漏れた。ぼう、と柔らかく小さな手燭の朱灯りがこちらへと近付いてくる。
「サイネル……幸運なことに、あなたにはもう隣を歩んでくれる人がいるじゃない」
「え」と、足元を落としていたサイネルの視線が上がった。
「お義母様! サイネル様!」
こちらに駆けてくる者の姿をその青い瞳にしっかりと映し、彼は呟いた。
「……フィフィー……」
空と同じ色した髪を夜風に靡かせながら、彼女がやって来る。
「ただいま、フィフィーちゃん」
私はサイネルと繋いだ手と反対の手で、フィフィーちゃんの手を握った。
◆
深夜。サイネルも見つかり屋敷が落ち着いた中、「さて」と私は私室のソファに鷹揚と座り、目の前で直立するセバスチャンに目を向けた。
「セバスチャン、三人一緒に受け入れてくれそうな家に心当たりは?」