何してくれてんのぉぉぉぉぉ!
一瞬誰だと思ったが、隣で飲んでいた女だった。
「離せ」
馴れ馴れしく絡んだ腕を振りほどくが、力が上手くは入らずに大した抵抗にはならなかった。女は少しムッとした様子を見せると、離れるどころか腕をむんずと掴んで、「こっち」と酒場脇の小道へとサイネルを引っ張り込んだ。
「何を……っ」
「あたしにしない?」
首に両腕を回されグッと体重を掛けられる。強制的に首を曲げさせられ、女の顔がすぐそこまで近付く。
「あの女が嫌いなんでしょ? だったら、あたしと既成事実さえ作っちゃえば、あの女追い出せるわよ」
「あの女?」
「フィフィーよ」
女は既に緩んだ編み上げブラウスの胸元をさらに指先ではだけさせ、「あんな女より、あたしの身体のほうが気持ちいいわよ」と耳元で囁いてきた。
反射的に女の肩を掴んだ。そして――。
「キャッ!?」
力任せに自分から引き離した。酔いはまだあったが、この下品な女を引き剥がす力は残っていたようだ。相手のことを考えずに払ったため、女は脇に置いてあった酒樽にぶつかってよろけていた。
「なっ! 何すんのよ!」
「何? 汚らわしかったから払ったまでだが」
「けが――っ!?」
「うるさい、僕に絡むな。欲求不満なら他をあたれ」
ただでさえ滅入っていたのに、変なのに絡まれて気分は最悪だった。屋敷に帰る気にもなれないし、どこか宿屋を探すかと考えていたら、ビリッと何かが破れる音が響いた。
音のした方へ目を向けると、女が自ら服をビリビリに破いていた。「何を……」と呆気にとられるサイネル。前面がビリビリに裂けたブラウスからは胸の膨らみの線が露出し、同じく破けたスカートからは、危うい位置まで太股が露わになっていた。
「今ここであたしが叫んだら、周りの人間の目にはこの状況はどう映るでしょうねえ?」
「な――っ」
「酔ったマクウェリン家令息に襲われたって言って泣いてあげましょうか。それが嫌なら、あたしをあんたの許嫁にして、フィフィーを追い出してよ。悪役令嬢の妻より、平民の妻のほうが良いでしょ?」
何が目的なんだ、この女は。
酔いのせいで頭がうまくまわらなかった。
許嫁? マクウェリン家? ああ、クソッ……もうすべてが面倒だ。考えるのすら馬鹿らしくなってきた。どうせ、母は自分よりもフィフィーがいればいいのだし、自分がどうしようと構いやしないだろう。
前髪をくしゃりと握って黙り込んでしまったサイネルに、女はニヤリと笑みを濃くして、すり寄ってきた。欲情を誘うように、その豊満な身体をわざと押しつけるようにして。
唐突にサイネルの頭は冷たくなった。
女を見下ろす目に浮かぶのは欲情ではなく軽蔑だ。
「理由はわからないが、お前は随分とフィフィーを我が家から追い出したいようだな。だが、彼女を追い出したとて、お前のような下品な女を家に入れるはずがないだろう。確かに彼女が来てから家はめちゃくちゃだが、それでも彼女はお前のように低俗な真似はしない」
苛立ちに我慢できず、強い言葉が出てしまった。
「――ッバカにして!」
案の定、カッと顔を赤くした女が、右手を大きく振り上げた。
一発殴らせればこの女も気が済んで去るだろうと思い、サイネルは目を閉じて来たる痛みを受け入れようとした。
しかし、どこからともなくカッカッカッカッと硬質的なヒール音が段々と近付いてくるのに気付いた。ものすごい速さだ。
「うちの息子に――っ」
なんだ、と思って閉じた目を開けた瞬間、目の前をピンクベージュの長い髪がひらりと横切った。
「何してくれてんのぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
「オゴッ!」
次の瞬間、聞こえるはずのない聞き馴染んだ声と、ゴッ! という骨と骨がぶつかる痛々しい音と、女の品のない悲鳴が路地に響き渡った。
「…………え?」
自分の目を疑った。
女は頬を押さえ地面に転がり、自分の前には見慣れた背中の女性――母が、肩で息をしながら仁王立ちしていた。




