サイネルの胸の中にあるもの
「サイネル様、こちらのストールはどう思われますか?」
「ああ、美しいラベンダー色だな」
なんだ、その感想は。フィフィーちゃんは、暗に『自分に似合うかどうか』を聞いているのに、返答が物に対する感想のみって!
「そうですか……」
フィフィーちゃんの声が沈んじゃったじゃない!
「で、でしたらこちらの帽子など、いかがでしょうか? に、似合いますか……!」
ほら、とうとう直接聞いちゃったじゃない!
「ああ、それはいいな。買おう」
おっ!
「ほっ、本当です――」
「母様も喜ぶだろう」
ブチィッ! と頭の中で聞こえた。一番太いやつが逝ったと思う。
「サイネェェェェェェェルッ!」
「か!? 母様、なぜこ――ゴハァッ!」
店内に駆け込んだ勢いを載せた拳が息子の頬にめり込み、息子は床に倒れ込んだ。
◆
さすがに見てられないと、二人の買い物は中止になった。バカ息子を引きずるようにして屋敷に戻り、私の部屋へと放り込む。
「サイネル! あなたはどうして、相手のことを考えられないの!? 自分が同じ態度をとられてみたらと考えなさいっ!」
「かっ、考えてるじゃありませんか、お母様のことを」
サイネルに詰め寄れば、彼は圧倒されたように上体を僅かに反らし、眉間を寄せた。
「それはありがたいけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて、フィフィーちゃんのことを考えてって言ってるの!」
「また、フィフィーですか……っ」
サイネルの顔色が変わった。目の奥から急速に温度が消えた。
目が合っただけで凍ってしまいそうなヒヤリとした視線に、ついこちらが怯んでしまうが、ここで引いては駄目だ。
「わ、わかったわ。それじゃあこれからは私もあなたに、あなたがフィフィーちゃんにとるような態度をとることにするわ」
「――っなぜ、そういう話になるんです!」
「フィフィーちゃんの気持ちをあなたが考えないからよ!」
私は、彼の背後にあったキャビネットへと向かい、引き出しから取り出したものを振り返った彼の胸に押しつけた。
「これ、は……」
彼の胸に押しつけたものは、彼女がサイネルへと贈った刺繍入りのハンカチだ。あの日、彼の素っ気ない言葉にフィフィーちゃんは渡すことを諦め、ハンカチを引っ込めてしまったから私が預かっていたのだ。
「サイネル……あなたは彼女の顔を正面からちゃんと見たことがあるの? 彼女がどんな瞳で、想いで、あなたの傍にいようとしてるかわかってるの? 彼女は大切な許嫁なのよ!?」
「大切……つまり、僕はもう用済みですか?」
「え……?」
カクン、と彼は突然、首の力が抜けたように顔を伏せた。
「やはり、父様の血を引く僕なんかより他人の娘のほうが可愛いですか」
「待って、何を言って――」
「――っでも、言ったじゃありませんかっ。信じられるのはお互いしかいないって。だから、ずっと僕の一番は母様で、母様の一番は僕だって約束したじゃないですか!」
次に顔を上げたサイネルは、唇を噛み目を眇めた、今にも泣き出しそうな沈痛な面持ちをしていた。それは以前、すべてに耐えていたフィフィーちゃんがしていた顔と同じで……。
「――ッ失礼」
「サイネル……ッ!」
彼はハンカチを引ったくるように掴むと背を向け、あっという間に部屋を出て行ってしまった。開け放たれたままの扉が、キィと寂しい音を立てている。
「約束?」と思った瞬間、脳裏におぼろげな記憶がよぎった。それは、小さなサイネルが私――ロザリアを見上げている姿で……。
私は隣の寝室へと駆け込むと、文机の引き出しに隠した青い背表紙の小説を手にした。
◆
サイネルは自室へと戻ると、投げるようにしてソファに身体を横たわらせた。目元を覆うように腕を上げ、そして手にしたままだったハンカチの存在に気付いた。美しく丁寧な刺繍が施されたハンカチだ。
――あなたは彼女の顔を正面からちゃんと見たことがあるの?
不意に蘇った母の言葉。そういえば、自分は許嫁の顔をまともに見たことがあっただろうか。いや、彼女だけではない。自分は、母以外の人間をまともに見てきただろうか。
いつからだろうか、自分が母しか目に入れないようにしたのは。
「――っ」
そこを思い出すのは好きじゃない。
いつも、記憶の中の母は泣いていたから。
◆
母は十四という若さで、当時すでに五十を超えていた父の元に嫁いだ。二人の間に、愛はなかった。それは、六歳という幼い自分ですら感じとれるほどだった。
父は母をというより、白幻素を発露した母を欲しがり、当時貴族生活が行き詰まっていた母の実家は、結納金という名目の多額の支援金を得ることで母をマクウェリン家に嫁がせた。実質、身売りだ。
当然、そこで愛など芽生えるはずがない。
母は好きでもない男との子を産まされた。それが自分だ。