『魔物』の理由
そこには、ロザリアが彼女にどんな思いを抱えていたか、どのようなことをしてきたかが記してあった。
『息子には不釣り合いな女が来る』からはじまり『なぜこんな女に可愛い自分の息子を奪われなければならないのか』や『何を言っても「はい」しか言わない気持ち悪い人形』とまで書かれていた。他にも、記憶で見たフィフィーちゃんに水を掛けた時のことや、メイドの告げ口を信じて、丸二日彼女の食事を抜いたりしたことも……。
美しい装丁の小説の中には、前世の記憶を無理矢理掘り起こすような下劣で不快な、母親の歪んだ息子に対する愛情と、許嫁に対する憎悪が詰まっていた。
できることなら、ロザリアを殴りたかった。
殴って、フィフィーちゃんをこの家から連れ出してあげたかった。
でも、それはできない。
私がロザリアになってしまったから。
だから、私にできるのは、今からでもフィフィーちゃんの受けた心の傷を少しでも癒やしていくこと。過去なんか忘れられるように、毎日笑って過ごせるようにすることだ。
そのために必要なら、いくらでも頭を下げよう。
ロザリアとして私が筋を通さなければ、フィフィーちゃんは心から笑えない。
謝りもせずに、今までのことをなかったかのように振る舞って、それでこれから仲良くしましょうなんて虫が良すぎるのだ。
「あなたにつらく当たっていい理由にはならないけど、不治の病と言われ、日に日に弱っていく自分に心が疲弊してたの。もちろん、許してとは言わないわ。ただ、これからは、あなたが幸せになれるよう手伝わせてほしいの」
私の本心だった。もし、ここで『でしたら婚約は解消させてください』と言われても、私は受け入れるつもりでいた。
きっと、色々と周囲に気を遣って生きてきたことだろう。ロザリアやサイネルだけでなく、メイドや使用人達の顔色を窺って過ごしてきたに違いない。
だからもう、彼女が望むようにさせてやりたかった。
(…………あら?)
しかし、待てど暮らせど、彼女からの婚約破棄宣言どころか、少しの反応すらも返ってこない。
私は、様子を窺うようにゆっくりと顔を上げ、そして言葉をのんだ。
フィフィーちゃんは瞬きもせず、驚いたように見開いた紫の双眸から、涙を静かに溢れさせていた。頬に伝う雫がはらはらと流れては、足の上で握った彼女の手にパタリと落ちて弾ける。
「フィフィーちゃん」と声を掛けようとした矢先、彼女はくしゃりと顔を歪め、両手で顔を覆い隠した。
「どう……っして、そんなに……お優しいのですか、お義母様……っ」
顔を覆った手指の隙間から涙が溢れて、白くて華奢な手を伝い落ちる。
「……っわたくし、お義母様や……マクウェリン家の方々には、怨まれても仕方がないと思っておりました……っ」
花が萎れたように小さくなった彼女は、しゃくり上げるだけでも折れてしまうのではと心配になるほど頼りなく、弱々しく見えた。
「だって……マクウェリン家がわたくしを自ら許嫁に選んだわけではなく……っマクウェリン家は、わたくしを押しつけられた被害者なのですから……っ」
「ずっと……そんな風に思ってたの……?」
小さな頭がコクリと頷いた。
「……っせめて、皆様のお役に立てるよう……お邪魔にならないようにと……でないと、わたくしはどこにも居場所がないのです……っ」
彼女は喉を幾度か震わせ、「だって」と呻くようにして掠れ声を漏らす。
「――わたくしは魔物ですから……っ」
「――っ」
消え入りそうな声を聞いて、頭で考えるより先に私の身体は動いていた。
そうしなければ、ならないと心が訴えていたのだ。
私は、フィフィーちゃんの身体を引っ張るようにして抱きとめた。胸の中で、彼女は小さな身体を、雨にうたれた仔猫のように震わせている。
フィフィーちゃんが驚いている気配があったが、私は腕を緩めなかった。彼女を胸に抱いたまま、彼女を怖がらせないように、できるだけ落ち着いた声音で喋る。
「自分で自分を傷つけるようなことを言うのはやめなさい」
「で、でも……っ」
「あなたは魔物なんかじゃない。私にはただの可愛い普通の女の子にしか見えないわ」
「……っお、お義母様……ぁ」
縋るように背中に回された彼女の手は、かろうじて布に引っ掛かっている程度の弱々しさだった。
(……あぁ、悔しい……っ)
どうして、この世界に最初から生まれなかったのか。
どうして、彼女が許嫁になったその時に、私はロザリアではなかったのか。
彼女は私が思うよりもずっと重いものを、ひとりきりで抱えていた。
こんな、嗚咽を上げて泣きじゃくる、まだ子供とも言える年の女の子が、大人の背にしがみつくこともできないなど……おかしすぎる。
「――ッフィフィーちゃん」
こみ上げてきた切なさを唇を噛んで堪え、そのかわり、私は彼女を抱き締める力を強めた。
「ごめ、なさ……っ、『黒幻素』を……持って、しまって……っ」
「大丈夫よ。あなたは悪い魔法使いの魔物なんかじゃないわ……絶対に」
ロザリアの日記を読んで知った。
この世界には、魔法がある。
◆
貴族世界だけでも充分にファンタジックだと思っていたが、まさか魔法まで存在するとは……。
魔法があるとまったく気づけなかった理由だが、それは、魔法が使える者が貴族に限られていたからだ。
元より、この世界の貴族という身分は、魔法が使える者達に与えられた特権階級に端を発している。現在、マクウェリン家で魔法が使えるのは、私とサイネル、そしてフィフィーちゃんだけなのだ。
魔法には、血統によって受け継がれる火、水、雷、氷、風、土という六つの源素がある。
マクウェリン家は氷源素の家系であり、サイネルも氷魔法を使える。見たことないけど。
(思い出せた記憶の中でも、サイネルが魔法を使ってるところってないのよね)
とはいっても、思い出せているのは直近の記憶で、それも断片的なのだが。
そして、このほかにも魔法には血統以外で発露する特別な源素が、六源素とは別に二つある。この二つは持って生まれた源素に加えて、突発的に発露するという極めて特殊で稀少性の高い性質を持っている。
それが黒《《幻》》素と白《《幻》》素と呼ばれるものだ。
現在、国で黒幻素を持っている者は、フィフィーちゃんを含めて二人しか確認されておらず、また、白幻素はたったひとりである。




