2 精霊祭
山路を何キロ歩いただろう。なだらかで景観もよく距離を感じなかったが、結構な時間歩いたはずだ。遠くに集落が見えてきたことで足取りはより軽くなった。
よその村に入るなんて両親についていった子供時以来だ。あの時のことなんてそう覚えてはいないし、親にくっついて遊んでいただけ。一人ではまるで違う緊張感がある。
そもそも急に押し入って迷惑ではないだろうか。
すっと潔く手を持ち上げた。
「ぺペットの村のスタックリドリーです。少しの間お世話になります」
「こんにちは、スタックリドリーです。旅をしています」
うん、極めて感じがいい。余所者だって嫌われないようにするためにはあいさつが肝心だから。
何度か声調を変えてあいさつを繰り返し、満足すると大手を振って歩いた。
村に到着すると何やら騒がしい。男どもが総出で大人の身の丈ほどある大きなしめ縄に取り掛かって何かの準備をしている。スタックリドリーは練習したあいさつも忘れて近場にいた人に話しかけた。
「何をされているんですか」
作業に準じていた素朴な若者は汗をぬぐいながら笑顔で応じてくれた。
「旅人かい。今、祭りの準備をしているんだよ」
「祭り、何のお祭りなんですか」
ぺペットの村でも五穀豊穣を願う祭りは年に何度かあった。そういった類のものかもしれない。すると若者は一本指を立てて返答してくれた。
「精霊祭だよ。年に一度この地に住まう精霊に感謝をささげる祭りなんだ」
「見えるんですか!」
「見えないよ、当たり前だろ」
相手はひどく驚いていた。
「おい、油を売ってないで手伝えよ」
村人に呼びつけられて若者はじゃあ、と去っていった。
スタックリドリーは広場の隅に置かれた丸太を切っただけの椅子に腰かけると黙って作業を見守った。
しめ縄が左右の離れた支柱に支えられるようにしてぐんと宙に張られる。すでに空は黄昏れて、だがどこか呑気なスタックリドリーは泊まる場所の心配もしていなかった。
今日は運よく祭りがある。これを観覧して楽しもう。
作業は陽の落ち切らないうちに終わり、間もなく女たちが家々から準備していた食材を持ち寄り始めた。広場を駆けていた子供たちもしんと大人しくなる。灯篭のような明かりがちらほら目立ち始めて、男たちは祭りを取り仕切る段取りに入った。
ふと気づくと傍らに小麦肌の白髪の老人がいて、上品な身なりからこの地域の人とは思えなかった。
彼もまた自身と同じような余所者か、スタックリドリーは感じよく話しかけた。
「こんにちは」
「もう、こんばんはの時間だよ」
あ、そうかとスタックリドリーは頭を掻いた。空には気の早い星が輝き始めている。間もなく数多の星座が空を埋め尽くすだろう。
行きずりの会話を続けた。
「旅の方でしょう。どちらからいらしたんですか」
「大陸の東からだよ。何分不自由でね、時間がかかるんだけれど」
そういって老人は自身の白濁した目に触れた。光は一筋も映していない。そばに使い込んだ木製の杖がある。老人は目が見えないようだった。
視力を失ってまで旅をしている、不可能ではないのだろうがとても不思議な心地だった。
「わたしは精霊学者をしているノーブルというものだよ。世界を巡ってその地にまつわる精霊の性質を調査しているんだ」
「精霊学者?」
そんな奇特な人種がいるのかと目からうろこだった。生まれ育った故郷では聞いたこともない。
彼は右腕にはめていた紺色の数珠を掲げて見せてくれた。
「これは逗留地のムルティカという南の島で手に入れた精霊の好むラガンガという石だよ。色まではさすがに見えないけれどね、吸い付くような手触り。ずいぶん素敵だろう」
「へええ」
紺色のなかに浮かぶまだらな朱や白の点はまるで頭上を覆っている宇宙のようだった。
「キミもイントネーションが違うね。余所者だろう。惚けていなければこの地が暖かいことに気がついたかい」
問いかけられてスタックリドリーは頷いた。
「僕は隣の山から来たんです。同じ標高や、条件にもかかわらず植生がずいぶん違う。動物たちが冬ごもりをしていないんです。それがとても奇妙なことに思えたんです」
そうだね、とノーブルは数珠をさすった。
「この山には森と木のニンフたちがたくさん住み着いている。彼らの呼吸が地を暖めているのだよ」
「精霊が見えるのですか!」
スタックリドリーはまたもや驚いて声を上げた。本日二度目だった。
「感じるんだよ。何か優しいものたちがこの山をお守りしている。きっと住民たちの祖先が山を永代大事にしてきたからだね」
そういって穏やかな顔をした。
広場の片隅では大きな薪が盛んに燃えている。その薪の炎を若者が松明に移してしめ縄の中央へと運んでいく。松明を空に掲げると炎が滑るようにしめ縄へと乗り移った。
しめ縄は静かにゆっくりと炎に巻かれていく。祭りの夜空が燻り始めた。
「精霊って祀ったり、祈ったりするような有難いものなんですか」
「キミにとっては違うのかい?」
顎に手を当てて、少し考えた。
「僕の生まれた村ではそんなに大事じゃなかったんです。いえ、祖母は割と大事にしている人だったんですけど。そんなに崇めるものではなかったというか。ちょっとその感覚がよく分からなくて。何のためにそうするんですか」
失言だったかもしれないが、知的好奇心が勝った。一般的に理論で捉えようとすることはあまり好まれないかもしれないが、自身の生まれ持った性質だった。
「キミは学者に向いているよ」
そういって、ノーブルは広場の片隅で配られているミルクを指さした。
「すまないがわたしの分もとってきてくれないか。飲みながら話そう。アルコールじゃないよ、君はものすごく若そうだからね」
スタックリドリーは彼の冗句を笑いながらミルクを取りに行った。