7 祖母の旅立ち
小さな巻き毛の少年がぺペットの村に生まれてから十五度目の冬が来た。あの秋の日に出会って以来、精霊とは二度としゃべることもなければ、相変わらず見ることもできなかった。多分すぐ傍にいるのだろうけど、あいにく普通の人間であるスタックリドリーにはそれすらつかめなかった。
会話してくれたのは偶然、それとも必然だろうか。
あの時のあの瞬間から、両親を失って止まっていた人生のネジがまた動き出したのかもしれないと思うと不思議な気持ちになった。
十五歳といえばもう半分は大人、この頃は目が不自由になった祖母を助けて占いの書きつけをしたり、林にいって不慣れな木こりをしたり。傍目にはいっぱしの大人への階段を上っているようだが、体力に自信のないスタックリドリーは力を使うことよりもやっぱり探究していることのほうが好きだった。
精霊ってなんだろう、その先に真実があるかどうかさえ分からない漠然とした疑問を抱えて日々を過ごしている。
その日は粉雪が舞っていた。身を切るように寒く、吐息も凍りそうな冬の日。スタックリドリーは暖炉に薪を足していた。秋の陽射しのあるうちに割っておいた貴重な薪を冬に少しずつ消費する。
二人きりのリビングには祖母の寝息が聞こえている。九十歳を超えた祖母は昼でもよくロッキングチェアーに座って眠っている。ずれたひざ掛けを直してやると、ぼやくようにリドリーと呼ばれた。
「おばあちゃん、起きてたの」
引き結ばれた瞼が少し開いて、ゆっくり笑った。
「…………て、おく……れ」
「え、なに。聞こえないよ」
耳を寄せるともう一度聞きなおした。ささやき声が聞こえる。
「窓を開けておくれ」
いわれたとおりに窓を開けると冷たい風が吹き込んだ。こもっていた暖炉の熱が外へと逃げていく。
「これでいいの」
「ああ、いいよ」
祖母は目を閉じたままゆったりといった。
そして静かに息を吐くと古き歌を歌い始めた。どこかで聞いたことがある。そう、あの洞穴で精霊たちが口ずさんでいた曲だった。
祖母は理解もできぬ言葉で歌い終えるとこういった。
「リドリー、わたしはもうじき精霊と結ばれる。聞いておきたいことはないかえ」
スタックリドリーは蒼白になった。
「おばあちゃん、嫌だよ。どういうこと」
自身にはその意味が理解できてしまった。膝にすがると分厚い手のひらが頭に置かれる。
柔らかく撫でながら、祖母は涙を流していた。
「わたしがいなくなったら村を出なさい。旅に出かけるんだよ、リドリー」
「旅?」
「お前の心にはいつもこの言葉がある」
「……えっ」
祖母は静かに深くつぶやいた。
「……精霊って知ってるかい?」
目を見開き、心を鷲づかみされた心地になった。記憶の奥にこびりつき忘れようとしても忘れきれぬ言葉だった。涙がぽたぽたと落ちてきた。
「世界を旅して、その真理を知りなさい。多くを学び、豊かな人生を送りなさい。わたしもまた七十年前に大いなる幸運にもらった言葉だよ」
祖母は薄く目を開いていた。
「大いなる幸運って何? どんな奴なの、どこにいるの」
焦る気持ちに祖母は穏やかに応じた。
「もう、絆は繋がっているんだよ」
くっと唇を噛んで目をきつく閉じた。洟をすする。
「無理だよ。あの日から、精霊の声はひとつも聞こえないんだ。孤独じゃないと思っていたけれど、やっぱり僕は孤独の青年スタックリドリーなんだ」
泣き言に目をぐしぐし拭っていると、冷風が部屋に吹き込んだ。カーテンを揺らしながら部屋中の空気をかき混ぜると、最後の熱をさらっていく。
手がぱたりと落ちた。
「おばあちゃん? おばあちゃん」
天命はたった今、飛び去ったのだ。顔を覗き見ると、祖母はすべてに満足したかのようなすっきりとした表情をしていた。だが、その心内はまだ無垢なるスタックリドリーには理解できない。
温もりの残った膝かけに縋りつくと、しとしとと泣いた。
祖母の葬儀は村人たちとともに執り行った。みんな悲しい顔をしていた。祖母を慕ってくれていたのだ。多くの町を渡り歩いてたくさんの人々を救ってきた祖母のこれが最期。誰よりも傍でその穏やかさに触れてきたスタックリドリーはその正当性を感じていた。
人の生は分からない。たぶん、当事者である自分自身にさえも。
だから、やっぱり知るために旅に出ようと思う。
可能性の翼を広げて飛び立つ日があるとすれば今日のことを指すのかもしれない。
何しろ先々は可能性に満ちている。生かされた真実を認知するために、精霊という存在を探究するために。知ることは自身の理解にもつながる。そう信じて。
冬の寂しさが胸を突いた。愛しき祖母はもういない。
スタックリドリーは思い出をそっと閉じるように木戸に鍵をかけた。