5 林に潜むものたち
明るく開けたガビの林に巻き毛のスタックリドリーが一人、菜の花色の落ち葉の絨毯を踏みしめながら憤懣やるかたなしに歩いている。手には虫取り網を持って、腰元に虫かごを吊り下げて。いざ捕まえんとする勢いで目を光らせていた。
落ち着け。すべての事物に、林の息吹に意識を集中させるんだ。
つと、闊歩する音が聞こえて威勢よく振り向くと野生の白馬だった。毛並みが陽光を跳ね返して泰然としている。首を下ろすと足元の草をゆっくり食み始めた。
ざっと気配がして目を走らせるとリスの夫婦だった。刷毛のような尻尾を揺らしながら協力して木の実を拾い集めている。隠したものの大半は場所を忘れてしまうが、その忘れた木の実は雪解けの春に芽吹く。
すべてが秋めく森においても精霊の姿はどこにもない。悔しく足元をにらんだ。約束してしまったんだという焦りが胸を突く。
「精霊、どこにいるんだよ!」
応じるものもなく声が空へ伸びていく。
どうして精霊は返事をしないのだろう。本当にそんなものいないのだろうか。
実は精霊はスタックリドリーの後ろにいた。わらわらと群れて好奇心旺盛に彼の後ろ姿をみんなで追っている。背高い動物型のものがいたり、ガラスのような透ける体色のものがいたり。羽を使って浮遊しているものもいる。だが、当の本人はそのことに気づきもしないで、懸命に勇み足で進んでいる。
「返事しろよ、しゃべるんだろう」
傍から見れば滑稽なこの状況で、見るものがいないのはむしろ幸いか。彼自身、そんなことに構っている余裕などなかった。額には季節外れの玉のような汗が浮かんでいた。
襟首をぱたぱたと動かして涼気を取り込む。涼みながらも視線は梢を必死に追っている。
「捕まえてごらんよ、リドリー」
「えっ」
急なささやきに後ろをばっと振り向いた。でも、姿はない。凝視する。
「いる……のかい」
未知への邂逅を望むように、網を持たないほうの手の人差指をそっと伸ばした。心臓が轟いている。こんな瞬間って人生に二度もない。
(いるんだろう。返事してよ、絶対にいるはずだ)
ふいに。
「なっ、うわっ」
背をとんと押された感触があって、前につんのめるとそのまま見知らぬなにかを突き抜けてスタックリドリーはぶち地面に転んだ。
鼻の頭をすりむいて、後ろをむっとにらみつける。
「やっぱりいるんじゃないか!」
「捕まえてごらん、おまぬけさん」
茶目っ気のある笑い声が林道の奥に伸びていく。乾いた足音が遠ざかった。スタックリドリーは気配を追いかけるように網を振り回して奥へとひた走った。
舞い散る木の葉に戯れながら、精霊の姿を探した。とても広い林だ。種々の色の共演は舞いこんだものを前後不覚に陥らせる。秋景色に惑いながらも少年の呼気はリズムを刻んで弾んでいた。彼は両手で懸命に網を振り被っている。
「出てっ」
「こいよっ」
「いるっ」
「んだろう!」
空振りにぜえぜえと呼吸した。
膝頭に手をつくと、愕然として立ち上がれないような気になってくる。粉骨砕身で身を振ったけれど、手ごたえはない。それもそう、相手は精霊。やすやすと捕まるものでもないのだろう。
成果のなさに苛立ちを募らせて呟いた。
「いるんだろう。協力しろよ」
声は返ってこない。
(精霊ってそういうものじゃないだろう)
「くそっ」
祖母の声が掠めて思考が混乱し、とうとう尻をついた。盛大に吐息して網も放り出す。気持ちは限界に達していた。
「お前たちはどうして話したり、話さなかったりするんだ」
会話できていると思えば急に突き放される。したくないと思えば急に寄ってくる。気まぐれのひと言なんだろうけど、彼らの気質がとても奇妙に思えた。
木々の向こうには曇天が透けて、遠くから雷鳴が聞こえ始めていた。
掴めない歯がゆさに隠していた感情がひりついて、それをぐっと飲みこもうと堪えて。それでも隠し切れない窮状が、忌まわしの記憶に付随してあふれた。
「あのときお前たちが……」
嘆きの言葉が胸につっかえた。口をつむる。やめよう。
口にすればきっと気持ちは瓦解する。自分があの時助かった奇跡も、それを起こした精霊さえも、すべてを信じられなくなると感じていた。
そっとあどけない声が聞こえる。
「どうしていわないの」
泣きそうになる。
「……だめだ、いえるはずないよ。こんなこと」
「いって」
「いわない」
「続きをいって、リドリー」
「いわない。えっ……」
無意識な応酬を繰り返して、未知なるなにかと会話ができていることに初めて気付いた。三角に組んだ膝の皿に赤子の手の温もりがある。優しい誰かが寄り添っているのだ。
心が震えて涙が頬をすうっと伝った。清らかな滴は上着に落ちていく。両頬にそっと手を添えられた。温かい。今、涙をぬぐったのは誰? 姿の見えないキミだろうか。
優しさに感情が止まらなくて、口元を戦慄かせた。ついぞ気持ちが抑えられなくなる。目をきつくつむると大粒の涙をこぼし始めた。せき止めていた感情だった。
「どうして。どうして、あの時お前たちは…………」
「そうだよ、リドリー」
いって、小さな声が聞こえる。
「お前たちは、お父さんとお母さんを助けてくれなかったんだ!」
いい切ってしまうと余計に切なくて、顔を膝にうずめてむせび泣いた。
纏わりつくように小さな精霊たちが囲っている。
「泣いていいんだよ、リドリー」
柔な心地に包まれた。スタックリドリーは六年ずっとため込んできた悲しみを発露させるように泣き続けた。