3 君は誰
翌日、スタックリドリーは汚された日記帳を祖母に畑で見せた。ほとんどの夏野菜はすでにしなびていたが、タフなナブリ(ウリ科の植物)だけはたわわに生っていた。
祖母は分厚い手で大きな青い実をもぐと、晩夏の太陽に汗をぬぐった。
「精霊たちはお前が好きなのさ。懐いてるよ、遊ぼうって」
「楽しくない」
こっちは相手の姿なんて見えやしないんだ。一方的だろ。これじゃ、いつもされている村の子のいじめと大して変わらない。
祖母は好物の実をよいしょとかごに入れると木蔭に腰を下ろした。
「リドリー、いいたいことがあるんだろう」
静かに微笑みかけられて、ドキリとする。ずっと隠してきた感情が一気に胸元に膨れ上がった。
スタックリドリーは堪え切れずに早口でまくし立てた。
「お父さんとお母さんが亡くなったあの時、たしかに僕には聞こえたんだ。精霊の声が。『精霊って知ってるかい』って。僕を死から呼び止めたんだ。どうして精霊は僕だけを助けたのかな」
突飛な内容にも関わらず、祖母はそれを問い返さなかった。代わりに少し考えて、静かに深い眼差しでこう教えてくれた。
「森羅万象の理。リドリー、大いなる幸運の存在を知っているかい」
「知らない」
「この星には大いなる幸運の意思がはびこっている。それが時々、失われるはずの命を気まぐれで助けたり。絶望の淵から救ったり。この世界にはそういう奇跡が往々にしてあるんだよ」
「僕が生きているのはそいつのきまぐれなの」
「縁の力だよ」
そういって祖母は右手の人差し指と左手の人差し指を絡めた。
「縁?」
「あのとき気まぐれな精霊がお前を助けた。お前は精霊との縁の力によって命を救われたんだよ」
「よくわからないよ」
「そのうち理解できるさ」
おいで、と祖母に誘われて、小草が縁取るあぜ道を伝い気持ちのよい高台へと歩いた。
開けた高台からは村のすべての営みがよく見える。
囲った草地で牛馬の世話をする村人。石蹴りで遊ぶ子供たち。井戸から水を汲み上げる人の姿さえも。風が心地よく通り抜ける祖母の気に入りの場所だ。祖母はいつもここで村の風を浴びている。
「人生の長い旅路でわたしはこの小さな村にたどり着いた。本当は大陸の東のもっと大きな町で暮らしていたんだけれどね。人の生というのはわからない。いろんな縁に巡り合って、運に助けられ。町で有名な預言者だったわたしがこの村で利益度外視の商売をしている。おじいさんと運命的に出会ったからだね。人は縁と縁で結ばれて、運と運によってどこまでも人生を運んでいくのさ」
「僕と精霊にはつながりが出来たの」
「そうだよ」
そういって祖母は村を眺望した。白濁した祖母の目には自分と違う景色が見えているのだろうか。縁という目に映らない絆さえも。
そう思うととても不思議な心地がする。
連なる山並みを撫でてきた一陣の風が巻き毛を後ろへ押し流した。この吹き抜ける風が姿もわからぬ精霊を、自身をも、見知らぬどこかへ運んでいくのだろう。
すべての潮流は人生の旅路という一つの言葉に収束すると思えた。
「僕を助けてくれた精霊は今ここにいるの」
眺望のなかには人でないものの姿は映らない。自身もまた見えない側の人間なのだ。
「いないよ、世界へ旅に出たんだ。万有の命は世界をめぐり、そして生きてゆく居場所を見つける」
「そう……なんだ」
半ばがっかりとした気持ちで眼下の景色を見た。
精霊を見たいと思ったことはあった。でも、どれほどの人生を生きても祖母のような達観を得られる気はしなかった。
祖母は昔、大陸のはるか東のステラという町に住んでいた。占星術師の多く住む町で、そこで最も名の売れた凄腕の占い師だったそうだが、ある時人生の節目に旅に出た。精霊からお告げがあったからだという。
祖母は世界中の国を見て回り、人を知り、文化を知った。
この村で暮らしていた祖父との出会いは半ば運命的なものだったのかもしれない。祖父は若いころ他界してとっくにいないが、それでも祖母はこの村で生き続けた。子をもうけ、暮らしを占いの力で賄い人々を助けた。
精霊と話せることを懐疑に思ったり、気味悪がる人々もなかにはいる。子供など特にいじめの対象で、だからそのせいでスタックリドリーは揶揄われて。でも、それでも一度も自身はスタックリドリーであることを止めたいとは一度も思わなかった。
たぶん血筋への誇りなんだろう。そう思う。
夜気は纏わりつくように蒸して、虫たちが草葉の陰で鳴いている。初秋になれば幾分涼しくなるだろうが、それでも夏の残り香が今は抜けない。
ベッドに横たわり、笹を編んで作った内輪で仰ぎながら天井を見た。静かに飾り羽が回っている。やっぱり風は吹いてはいなかった。
スタックリドリーはそっと手を伸ばし、見知らぬ誰かへ言葉を繋いだ。
「僕はあの時声をかけた精霊に会って聞いてみたいんだ。どうして僕を助けたの、ってね」